ep.88 莉子は気づく。「るいな、最近ちょっと柔らかくなった」
藤堂莉子は、わりと人を見ている。
本人がそれを言うと、たぶん黒瀬琉衣奈は「どこが」と鼻で笑う。
朝比奈湊も少しだけ困った顔をする。
白瀬栞は、たぶん静かに「そうだと思います」と言う。
だから莉子は、自分からはあまり言わない。
言ったところで面倒くさいし、見ている人間ほど、見ていることをわざわざ説明しないものだ。
でも、最近の琉衣奈については、さすがに気づく。
変わった。
かなり変わった。
いや、本人に言えば絶対に否定する。
――は? 変わってないし。
――前から普通だし。
――莉子、ほんとうざい。
たぶん、その三点セットが返ってくる。
けれど、変わったものは変わった。
朝、朝比奈くんに「おはよ」と言うようになった。
前は、言いたそうにして、言わなかった。
目が合っても、すぐにスマホを見るふりをした。
湊が近くにいても、何でもない顔でやり過ごそうとして、結局顔がうるさかった。
それが今は違う。
少し照れながらでも言う。
席が離れても、声を届ける。
それだけでも十分変化だ。
それに、白瀬さんへの態度も変わった。
最初は完全に警戒していた。
湊の近くにいる、静かで強いメガネっ娘。
何でも見透かしてきそうで、正論で刺してきそうで、でも悪意はなくて、だから余計にやりづらい相手。
琉衣奈はたぶん、白瀬さんをどう扱えばいいかわからなかった。
でも今は違う。
本を読んだ。
感想を言った。
雑誌を貸した。
朝の挨拶も、少しずつ普通になり始めた。
嫌いじゃない。
琉衣奈はそう言う。
あれは、彼女にとってかなり大きい。
好きとは言わない。
仲良しとも言わない。
でも、敵ではない。
そこまで認められるようになった。
そして、湊に対してはもっとわかりやすい。
昔から、琉衣奈はわかりやすかった。
本人は隠しているつもりでも、顔に出る。
声に出る。
スマホを見る指先に出る。
最近は、それがさらに増えた。
湊が教室に入ってくると、少しだけ目が動く。
湊が白瀬さんと話していると、気にしていないふりをしながら耳だけそちらへ向ける。
昼休みにメッセージを送ったあと、返信が来るまでスマホを裏返したり表にしたりする。
何というか、見ていて忙しい。
情報量が多すぎる。
莉子はそれを、朝の教室でずっと観察していた。
席替え後の教室にも、少しずつ慣れてきた。
琉衣奈は、前より少し遠い席にいる。
莉子とも隣ではなくなった。
だから、突っ込みを入れるにも声を少し張る必要がある。
面倒だ。
でも、それはそれで面白い。
遠くなったことで、琉衣奈がどう動くかよく見えるようになった。
昨日は消しゴムだった。
落とした消しゴムを白瀬さんが拾った。
それだけのことなのに、琉衣奈は一日中どこか静かだった。
あとで湊のところに行ったのも見た。
白瀬さんにも何か言っていた。
たぶん、ちゃんとお礼を言ったのだろう。
それができるようになったのも、変化だ。
莉子は自分の席で頬杖をつきながら、琉衣奈を見た。
琉衣奈はノートを開いている。
でも、たぶん半分くらいしか授業準備をしていない。
残り半分は、湊の席と白瀬さんの席の距離をなんとなく測っている。
ほんと、忙しい顔をする子だ。
「るいな」
莉子は休み時間に声をかけた。
「何」
琉衣奈は顔を上げる。
「最近さ」
「うん」
「ちょっと柔らかくなったよね」
琉衣奈の顔が、一瞬で険しくなった。
「は?」
「出た」
「何が」
「そういう反応」
「意味わかんないこと言うからでしょ」
「いや、ほんとに思っただけ」
「どこが柔らかいの」
「いろいろ」
「雑」
琉衣奈は不満そうに眉を寄せる。
でも、完全に拒絶する顔ではなかった。
前なら、こういう話題になった瞬間、すぐ遮っていた。
今は一応、聞く。
その時点で、やっぱり変わっている。
「朝比奈くんにも、白瀬さんにも」
莉子が言うと、琉衣奈は少しだけ黙った。
「……そう?」
「そう」
「朝比奈は別に」
「別に?」
「前から」
「前から?」
「……うるさい」
琉衣奈は視線を逸らした。
はい、出た。
莉子は心の中で小さく拍手する。
前なら「朝比奈は別に」で終わっていた。
今はそこで言葉に詰まる。
だいぶ進歩している。
「白瀬さんには?」
「白瀬は……」
琉衣奈は少し考えた。
その顔が、意外と真剣だった。
「なんか、変」
「変?」
「嫌いじゃないけど、変」
「またそれ」
「何が」
「嫌いじゃないって、最近よく言うよね」
「便利だから」
「便利ワード」
「うん」
琉衣奈は少しだけ頬を膨らませる。
「白瀬ってさ、ちゃんと聞くじゃん」
「うん」
「で、ちゃんと返してくるじゃん」
「うん」
「あれ、疲れる」
「でも嫌じゃない」
「……嫌じゃない」
莉子は笑った。
「それが柔らかくなったってことじゃん」
「違うし」
「違わないって」
「違う」
「じゃあ、前のるいななら白瀬さんに雑誌貸した?」
「……貸さない」
「本の感想言った?」
「……言わない」
「おはようって言った?」
「……言わない」
「ほら」
「うるさい」
琉衣奈は机に突っ伏しそうになって、途中でやめた。
湊の方をちらっと見る。
湊は斜め前の白瀬さんと何か話していた。
とはいえ、近すぎる感じではない。
白瀬さんが距離を測っているのは、莉子にもわかる。
あの子もあの子で、相当面倒くさい。
良い意味で。
大人しそうに見えて、かなり強い。
押す時は押すし、引く時は引く。
その引き方がまた上手い。
琉衣奈が苦戦するのもわかる。
「るいな」
「何」
「前より楽しそうだよ」
今度は、からかいではなく言った。
琉衣奈はすぐに返してこなかった。
湊の方を見ていた視線が、少し下がる。
「……そう見える?」
「見える」
「変じゃない?」
「変じゃないよ」
「ほんと?」
「うん。前よりいい」
琉衣奈は黙った。
それから、小さく言う。
「莉子って、たまに保護者みたいなこと言うよね」
「保護者だから」
「違うってば」
「いや、もう半分保護者でしょ」
「半分使うな」
「使いやすいんだもん」
「みんな使いすぎ」
琉衣奈は少しだけ笑った。
その笑い方も、やっぱり前より柔らかい。
莉子は、それ以上は突っ込まなかった。
ここで押しすぎると、琉衣奈は逃げる。
からかうのは好きだが、壊すほどからかう趣味はない。
昼休み。
琉衣奈は珍しく、自分から湊の席へ行かなかった。
代わりにスマホを見ていた。
たぶんメッセージを送るか迷っている。
莉子はそれを少し離れた席から眺めていた。
送る。
やめる。
またスマホを表にする。
画面を見て、何か打って、消す。
忙しい。
「るいな、送れば?」
「何を」
「朝比奈くんに」
「送るとか言ってないし」
「顔が送るって言ってる」
「顔顔うるさい」
「だって顔に出るんだもん」
琉衣奈はむっとした顔をした。
でも結局、少ししてスマホを操作した。
送ったらしい。
数秒後、少し離れた席の湊がスマホを見る。
湊の口元がほんの少し緩む。
それを見た琉衣奈の表情も、少しだけ緩む。
あーはいはい。
莉子は心の中でため息をついた。
もう、完全にそういうやつじゃん。
ただ、本人たちはまだ名前をつけない。
つけたら壊れそうだから。
それもわかる。
白瀬さんも、たぶんわかっている。
だから急かさない。
莉子は急かしたくなる時もあるが、そこは保護者として我慢している。
保護者ではないと言われるけれど。
昼休みの終わりごろ、湊が席を立った。
黒瀬の席へ向かう。
珍しい。
いつもは黒瀬が行く方が多い。
今日は湊の方からだった。
琉衣奈も少し驚いた顔をした。
「黒瀬」
「何」
「さっきのメッセージ」
「声で言うな」
「いや、返事しようと思ったけど、近かったから」
「近くないし」
「前よりは遠いけど、来れば話せる距離だろ」
それを聞いて、琉衣奈の顔が少し赤くなった。
莉子は遠くから、また頬杖をつく。
やるじゃん、朝比奈くん。
たまに自然に刺すんだよな、この人。
湊は続けた。
「今日の授業のところ、あとで見せるよ」
「……うん」
「放課後でも」
「わかった」
「夜でもいいけど」
「そこまで言わなくていい」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ禁止!」
琉衣奈の声が少し大きくなり、教室の数人が振り返る。
琉衣奈は慌てて口を閉じた。
莉子は笑いをこらえるのに失敗した。
「莉子、笑うな!」
「ごめんごめん。いや、今日も元気だなって」
「うるさい」
「柔らかくなったけど、声量は据え置きだね」
「もうその話やめて」
琉衣奈は顔を赤くして、スマホに視線を落とした。
でも、口元は少しだけ笑っていた。
放課後。
莉子は帰り支度をしながら、琉衣奈の様子を見ていた。
琉衣奈は湊の席へ行くか迷っている。
行こうとして、やめる。
でも結局、鞄を持って立ち上がった。
莉子は声をかける。
「るいな」
「何」
「今日、夜行くの?」
琉衣奈が固まった。
「……何で」
「顔」
「また顔」
「うん。あと、朝比奈くんと話したあとの顔」
「どんな顔」
「行くって顔」
「意味わかんない」
「わかるよ。長いつきあいだし」
琉衣奈は少しだけ視線を落とした。
「……行くかも」
「かも?」
「行く」
「はい、確定」
「うるさい」
莉子は笑った。
でも、そこで少しだけ声を落とした。
「るいな」
「何」
「楽しそうなの、いいと思うよ」
琉衣奈は少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように眉を寄せる。
「急に真面目なのやめて」
「たまにはね」
「似合わない」
「ひど」
「……でも」
「うん」
「ありがと」
小さな声だった。
莉子は一瞬だけ驚いた。
琉衣奈が「ありがと」を言うこと自体は、最近増えた。
でも、こういう場面で自分に向けて言われると、少し照れる。
「どういたしまして」
莉子は軽く返した。
「うわ、保護者っぽい」
「だから保護者じゃないってば」
二人で少し笑った。
そのあと、琉衣奈は湊の席へ向かった。
莉子はその背中を見送る。
前より柔らかくなった。
けれど、弱くなったわけではない。
むしろ、前よりちゃんと強くなっている。
誰かに近づくこと。
お礼を言うこと。
悔しいと認めること。
嫌じゃないと認めること。
夜に文句を言いに行くこと。
そういう小さなことを、琉衣奈は少しずつできるようになっている。
その変化が、莉子には少し嬉しかった。
そして少しだけ、寂しくもあった。
でも、その寂しさは悪いものではない。
友達がちゃんと変わっていく時の、置いていかれるようで、でも誇らしいような、変な感じ。
莉子はそれを胸の中で軽く転がしてから、いつもの顔に戻した。
湊の席で、琉衣奈が何か言っている。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「昨日の続き?」
「莉子に変なこと言われたから」
「俺が聞くのか」
「聞いて」
「わかった」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
いつものやり取り。
でも、琉衣奈の声はやっぱり少し柔らかかった。
夜八時半。
湊の部屋へ行く前、琉衣奈は一度莉子にメッセージを送ってきた。
『変なこと言うな』
莉子は笑った。
『柔らかくなったって話?』
既読。
『それ』
『ほんとのことじゃん』
少し間が空く。
『変わった?』
莉子は画面を見て、少しだけ真面目な顔になった。
そして、短く返す。
『いい意味でね』
既読。
しばらく返事は来なかった。
やがて。
『ならいいし』
莉子はスマホを置いて、ふっと笑った。
たぶん今ごろ琉衣奈は、湊の部屋へ向かっている。
いつものように少しむくれた顔でインターホンを鳴らし、開いた瞬間に「遅」と言うのだろう。
そしてカフェラテを飲みながら、今日の文句を言う。
柔らかくなったと言われたこと。
湊に変わったと言われたらどうしようということ。
白瀬さんに見られると逃げられないこと。
たぶん全部、話す。
莉子はそれを想像して、少しだけ笑った。
琉衣奈は変わった。
けれど、ちゃんと琉衣奈のままだ。
だから大丈夫だと思った。
夜、黒瀬琉衣奈はいつものように湊の部屋へ来た。
インターホンが鳴る。
ドアが開く。
黒瀬が立っている。
「……遅」
「今日、莉子さんに何か言われたんだろ」
「開幕で当てるな」
「メッセージで少し聞いた」
「莉子、言ったの?」
「いや、黒瀬の顔」
「みんな顔って言う!」
黒瀬はむくれながら部屋へ上がった。
ソファに座る。
クッションを抱える。
湊がカフェラテを出す。
いつもの流れ。
黒瀬はカップを両手で包みながら、しばらく黙っていた。
そして、小さく言う。
「莉子に、柔らかくなったって言われた」
「そうかもな」
湊はすぐに答えた。
黒瀬は少しだけ目を上げる。
「朝比奈もそう思うの?」
「うん」
「悪い意味?」
「いい意味」
即答だった。
黒瀬は黙った。
カフェラテの湯気が、二人の間をゆっくり上がる。
「前より笑うようになった」
湊が言うと、黒瀬の顔が一気に赤くなった。
「そういうの、普通に言うなって」
「でも本当だし」
「本当なら余計言うな」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬はクッションに顔を半分隠した。
でも、逃げなかった。
「……変じゃないならいい」
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん。前より楽しそう」
「莉子にも言われた」
「じゃあ、そうなんじゃないか」
「二人して」
「白瀬さんも言うかもな」
「それは無理」
黒瀬は即答した。
でも、すぐに小さく付け足す。
「……でも、言われたら、たぶん困るだけ」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
いつもの言葉。
けれど今日は、少しだけ誇らしそうにも聞こえた。
莉子は気づいていた。
黒瀬琉衣奈は、最近ちょっと柔らかくなった。
そしてその柔らかさは、彼女が弱くなった証拠ではなく、前より少しだけ人に近づけるようになった証拠だった。




