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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.87 授業中に落とした消しゴムで、昔の距離を思い出す

 昼にもメッセージを使う。


 黒瀬琉衣奈がそれを覚えた翌日、教室の距離はまた少しだけ変わった。


 朝比奈湊が教室へ入ると、黒瀬は新しい席でスマホを見ていた。窓際ではない席。莉子とも少し離れ、湊とも少し離れた場所。


 けれど、湊が入ってきた瞬間、黒瀬は顔を上げた。


「……おはよ」


「おはよう」


 その挨拶は、席が変わっても届く。


 届くけれど、やっぱり少しだけ距離がある。


 それを黒瀬も感じているのか、挨拶のあとにスマホを持ち直した。まるで、声の距離を補う手段をそこに確かめるみたいに。


 莉子が少し離れた席から言う。


「るいな、今日も通信テスト良好?」


「だから何の通信」


「朝比奈くん回線」


「切るよ」


「切れるんだ」


「莉子、ほんと黙って」


 黒瀬は短く返す。


 だが、声に昨日ほどの硬さはなかった。


 昼メッセージを覚えたことで、少しだけ余裕ができたのかもしれない。


 斜め前の白瀬栞が、静かに振り返る。


「朝比奈くん、おはようございます」


「おはよう」


「今日も黒瀬さん、少し落ち着いていますね」


「そう見える?」


「はい。昨日、教室の中でもメッセージで話せるとわかったからかもしれません」


「白瀬さん、本当に見てるな」


「近いので」


 栞はそう言って、少しだけ笑った。


 近いので。


 その一言にも、今の栞らしい遠慮がある。


 近くなったからこそ、見える。

 でも、近づきすぎない。


 黒瀬とは別の形で、栞も新しい席の距離を扱おうとしていた。


 二限目は数学だった。


 黒板いっぱいに式が並び、先生が淡々と説明を進めていく。


 湊はノートを取りながら、時々黒瀬の席を見る。


 黒瀬は思ったより真面目に書いていた。


 昨日の焼きそばパンのことも、昼メッセージのこともあって、少しだけ勉強への意識が上がっているのかもしれない。


 シャーペンを走らせ、先生の説明を聞き、時々眉を寄せる。


 その横顔は、以前よりずっと授業に向かっていた。


 湊が少し感心していると、黒瀬の手元で何かが転がった。


 小さな白い消しゴム。


 机の端から落ち、床に一度跳ねて、通路側へ転がっていく。


 黒瀬が「あ」と小さく声を漏らした。


 それ自体は、何でもない出来事だった。


 消しゴムを落とす。

 近くの人が拾う。

 授業中ならよくあることだ。


 けれど、湊は一瞬だけ体が反応した。


 昔、自分が黒瀬の消しゴムを拾ったことがある。


 まだ今ほど話せなかったころ。

 黒瀬が強がって、湊が拾って、それがほんの少しだけ距離を動かした。


 消しゴムは、二人の最初の小さな接点だった。


 だから、今日も反射的に動きそうになった。


 しかし、今の湊の席からは遠い。


 届かない。


 代わりに、近くの男子が少し身を乗り出した。


「あ、取るよ」


 何気ない声。


 悪気はない。


 でも黒瀬は、ほんの少しだけ身構えた。


 その一瞬を、湊は見逃せなかった。


 黒瀬は誰にでも簡単に距離を許すタイプではない。

 それが消しゴム一つでも、急に手を伸ばされると少し構える。


 男子の手が消しゴムへ伸びかけた、その時。


 白瀬栞が、すっと椅子を引いた。


 動きは静かだった。


 授業を邪魔しないくらい小さく、でも迷いのない動きで通路に手を伸ばし、消しゴムを拾う。


 そして黒瀬の机の端へ、そっと置いた。


「落ちましたよ」


 小さな声。


 黒瀬は一瞬、目を丸くした。


 それから、消しゴムと栞の顔を交互に見て、小さく言った。


「……ありがと」


「いえ」


 それだけ。


 先生の説明は続いている。

 教室の誰も、大きくは気にしていない。


 けれど湊には、その一瞬が妙に大きく見えた。


 前は、自分だった。


 今日は、栞だった。


 消しゴムという小さな物が、いつの間にか三人の距離の変化を見せている。


 黒瀬は消しゴムを指先で少しだけ押さえた。


 そして、ほんの少しだけ湊の方を見た。


 目が合う。


 何か言いたそうだった。


 けれど授業中だから、何も言わない。


 代わりに、黒瀬はすぐにノートへ視線を戻した。


 授業が終わると同時に、湊のスマホが震えた。


 黒瀬だった。


『消しゴム、白瀬に拾われた』


 同じ教室。


 しかも休み時間。


 黒瀬は直接来ることもできる。


 それでも、まずメッセージだった。


 湊は黒瀬の席を見る。


 黒瀬はスマホを見ながら、こちらを見ていないふりをしている。


 湊は返信した。


『よかったな』


 既読。


 すぐ返ってくる。


『なんか変』


『何が?』


 少し間が空いた。


『前は朝比奈だったのに』


 湊は、その文面を見て指が止まった。


 胸が少し鳴った。


 黒瀬自身も、それが大きな言葉だとわかっているのだろう。すぐに次のメッセージが来る。


『今のなし』


 湊は画面を見ながら、少しだけ息を吐いた。


『無理』


 すぐ既読。


『最低』


 いつもの返し。


 でも、今日のそれは少し弱かった。


 湊が顔を上げると、斜め前の栞がこちらを見ていた。


 いや、正確には湊のスマホと、黒瀬の席を交互に見ていた。


「黒瀬さんですか?」


「うん」


「消しゴムのことですね」


「見えてた?」


「拾ったので」


「そりゃそうか」


 栞は少しだけ困ったように笑った。


「黒瀬さん、驚いていました」


「うん」


「私が拾ってよかったのか、少し迷いました」


「でも、黒瀬はありがとうって言ってた」


「はい」


 栞は静かに頷いた。


「それが嬉しかったです」


 その言葉は、本当に素直だった。


 湊は少しだけ黒瀬の席を見る。


 黒瀬はまだスマホを見ていた。


 けれど、少しだけ頬が赤い。


 昼休み。


 黒瀬はすぐには来なかった。


 代わりに、メッセージが来た。


『昼、行くか迷ってる』


 湊は返信する。


『来ればいいだろ』


『簡単に言うな』


『じゃあ、来なくてもいい』


『それはそれでむかつく』


『難しいな』


『難しい』


 いつものやり取り。


 けれど、今日の黒瀬は少し本当に迷っているようだった。


 湊はしばらく待った。


 栞は斜め前で静かにパンを食べている。

 莉子は少し離れた席から黒瀬に何か言っている。

 黒瀬はそれに「うるさい」と返している。


 そして、昼休みが半分ほど過ぎたころ、黒瀬が立ち上がった。


 消しゴムを手に持っている。


 湊の席へ来るのかと思った。


 だが、黒瀬は先に栞の席へ向かった。


「白瀬」


「はい」


「さっきの」


「消しゴムですか?」


「うん」


 黒瀬は少しだけ視線を逸らした。


「ありがと」


「いえ。近かったので」


「……近いの、便利だね」


 黒瀬はそう言ってから、少しだけ複雑そうな顔をした。


 栞はそれを見て、急かさずに待った。


「でも、なんか変だった」


「変?」


「前は朝比奈が拾ったから」


 湊は少し離れた場所で、その言葉を聞いた。


 黒瀬が、栞に言った。


 メッセージではなく、本人の口で。


 栞は少しだけ目を細めた。


「そうだったんですね」


「うん。最初の方」


「大事な消しゴムだったんですね」


「消しゴムが大事っていうか」


 黒瀬は言いかけて、少し止まった。


 それから、かなり小さな声で言う。


「……最初のやつだから」


 栞は静かに頷いた。


「では、今日は少し借りてしまったみたいですね」


「借りる?」


「黒瀬さんと朝比奈くんの最初の距離を」


 黒瀬が固まった。


 湊も固まった。


 栞はすぐに少し慌てたように付け足す。


「すみません。変な言い方でした」


「いや」


 黒瀬は消しゴムを握り直した。


「……変だけど、ちょっとわかる」


 そう言った。


 栞は小さく微笑む。


「ありがとうございます」


「そこで礼言うのも変」


「すみません」


「謝るの早い」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 その笑いは、さっきまでの複雑な顔よりもずっと軽かった。


 そのあと、黒瀬は湊の席へ来た。


「朝比奈」


「何?」


「さっきの」


「消しゴム?」


「うん」


「白瀬さんに言えてたな」


「聞いてたの」


「聞こえた」


「それ言われるとむかつく」


 黒瀬は少しだけ口を尖らせた。


 でも、すぐに視線を落とす。


「別に、誰が拾ってもいいんだけど」


「うん」


「でも、前は朝比奈だったから」


「覚えてたんだな」


 黒瀬は顔を赤くした。


「覚えてるし」


「そっか」


「最初のやつだから」


 メッセージと同じ言葉。


 今度は、湊にも直接言った。


 湊は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


「俺も覚えてる」


 黒瀬が固まる。


「……そういうの、普通に言うなって」


「でも本当だし」


「本当なら余計だめ」


「難しい」


「難しいんだし」


 黒瀬は消しゴムを机の上で転がさないよう、きゅっと握った。


「今日、行く」


「夜?」


「うん」


「消しゴムの話?」


「……たぶん」


「カフェラテ?」


「当然」


 黒瀬はそう言って、席へ戻っていった。


 放課後まで、黒瀬はいつもより少し静かだった。


 莉子が何度か話しかけても、返事はしているが、どこか考え込んでいる。


 消しゴム一つでそこまで、と思う人もいるかもしれない。


 けれど湊にはわかる。


 それはただの消しゴムではない。


 黒瀬が湊との最初の距離を思い出すための、小さな印だった。


 夜八時半。


 スマホが震えた。


『今日、行く』


 湊は返信する。


『消しゴムの話?』


『そう』


『カフェラテ?』


『当然』


 少しして、もう一通。


『前は朝比奈だった』


 湊は画面を見て、少しだけ指を止めた。


『覚えてる』


 既読。


 長い沈黙。


『そういうの、夜に言え』


 湊は返信する。


『じゃああとで』


『うん』


 九時。


 インターホンが鳴る。


 ドアを開けると、黒瀬はいつもより少しだけ静かな顔で立っていた。


「……遅」


「今日は消しゴムの日だな」


「開幕で言うな」


「悪い」


「悪いと思ってない」


「半分くらいは」


「禁止」


 いつものやり取りなのに、少しだけ声が柔らかかった。


 黒瀬は部屋へ上がり、ソファに座る。


 湊がカフェラテを出すと、彼女は両手でカップを包んだ。


「今日のやつ」


「うん」


「別に、白瀬に拾われたのが嫌とかじゃない」


「うん」


「むしろ助かったし」


「うん」


「でも、なんか変だった」


「前は俺だったから?」


「……うん」


 黒瀬はカップを見つめる。


「あの時は、まだ今みたいに話してなかったじゃん」


「そうだな」


「消しゴム落として、朝比奈が拾って、それだけだったのに」


「うん」


「何か、そこから始まった感じがする」


 湊は黙って聞いた。


 黒瀬は続ける。


「だから、今日白瀬に拾われて、あ、変わったんだなって思った」


「何が?」


「距離」


 短い言葉。


 でも、はっきりしていた。


「前は朝比奈だけだったところに、白瀬も入ってきた感じ」


「嫌?」


 湊が聞くと、黒瀬は少しだけ考えた。


「……嫌じゃない」


 いつもの言葉。


 けれど、今日は少し重い。


「嫌じゃないけど、ちょっと寂しい」


 湊は一瞬、何も言えなくなった。


 黒瀬はすぐに顔を赤くする。


「……今のなし」


「無理」


「言うと思った」


「これは無理だろ」


「最低」


 黒瀬はクッションを抱え、顔を半分隠した。


「でも、白瀬に言えたのはよかった」


「ありがとう?」


「うん」


「ちゃんと言えてた」


「白瀬、変なこと言った」


「最初の距離を借りた、みたいなやつ?」


「聞こえてたんじゃん」


「聞こえた」


「強すぎない?」


「強いな」


「でも、ちょっとわかったのがむかつく」


「白瀬さんらしいな」


「ほんとそれ」


 黒瀬はカフェラテを一口飲む。


「朝比奈も覚えてたんだ」


「消しゴム?」


「うん」


「覚えてる」


「……そっか」


 黒瀬はそれだけ言って、少しだけ目を伏せた。


 その顔は、恥ずかしそうで、嬉しそうで、少し寂しそうだった。


「黒瀬」


「何」


「変わっても、消えるわけじゃないと思う」


「何が」


「最初の消しゴム」


 黒瀬は黙った。


「今日、白瀬さんが拾ったからって、前に俺が拾ったことが消えるわけじゃないだろ」


「……うん」


「たぶん、増えただけだと思う」


「増えた?」


「うん。距離が」


 黒瀬は少しだけ湊を見た。


 それから、小さく笑った。


「そういうの、たまにちゃんと言うよね」


「たまにか」


「たまに」


「まあ、たまにでいいか」


「うん」


 黒瀬はクッションに顎を乗せる。


「増えたなら、まあ……いいかも」


「うん」


「でも、最初は朝比奈だから」


 小さな声だった。


 湊はすぐに返せなかった。


 返したら、黒瀬はまた逃げる気がした。


 けれど、何も言わないのも違う。


「うん」


 湊はそれだけ言った。


 黒瀬は少しだけ頷いた。


 授業中に落とした消しゴムで、昔の距離を思い出す。


 そして今日、その小さな消しゴムは、三人の距離が変わっても、最初の記憶は消えないことを教えてくれた。

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