ep.86 遠くなったギャルは、メッセージを昼にも使い始める
席が遠くなったことで、黒瀬琉衣奈は少しだけ不便そうだった。
いや、本人は絶対に認めない。
朝の挨拶もする。
休み時間に必要があれば来る。
莉子にからかわれれば「うざ」と返す。
表向きは、いつもの黒瀬琉衣奈だ。
けれど朝比奈湊には、少しずつ見えてきていた。
黒瀬は、話しかけるタイミングを探している。
新しい席は、湊から見て少し離れた列にある。遠すぎるわけではない。でも、今までのように机の横へふらっと来るには、間に何人かの席を通らなければならない。
その数歩が、黒瀬にはまだ少し長い。
教室に入ると、黒瀬は自分の席でスマホを見ていた。
湊が入ってきた瞬間、顔を上げる。
「……おはよ」
「おはよう」
声は届く。
でも、前より少しだけ距離がある。
黒瀬もそれを感じているのか、挨拶のあとに一瞬だけ眉を寄せた。
莉子が少し離れた席から声を飛ばす。
「るいなー、今日の通信状態は?」
「何の」
「朝比奈くんとの」
「莉子、朝から黙って」
「はいはい。電波良好そうで何より」
「ほんとうざい」
黒瀬はそう返したが、完全には怒っていない。
むしろ、少しだけその冗談に救われているようにも見えた。
斜め前の席では、白瀬栞が静かにノートを開いていた。
栞は近い。
けれど昨日から、近いぶんだけ少し遠慮している。
湊が声をかければ、きちんと返す。
でも、自分からは前ほど続けて話さない。
近くなったから、近づきすぎないように。
その距離感は、栞らしくて、同時に少しもどかしかった。
「朝比奈くん、おはようございます」
「おはよう」
栞はいつものように微笑んだ。
「今日も黒瀬さん、少しこちらを見ていますね」
「やっぱり見えてる?」
「はい。今日は特に」
「何か言いたそう?」
「言いたそうというより、来るかどうか迷っているように見えます」
「白瀬さん、ほんとよく見るな」
「席が近くなったので」
栞はそう言ってから、少しだけ困ったように笑った。
「近いと、見えてしまいます」
その言葉は、ただの説明ではなかった。
近くなったことで、見えるものが増える。
けれど、それを全部言葉にするわけにはいかない。
栞もまた、近さの扱いに迷っているのだ。
一限目。
新しい席で受ける授業にも、少しずつ慣れてきた。
先生の声が前より少し近い。黒板の文字は見やすい。隣の席の男子はやたらシャーペンを回す癖があって、時々床に落としている。
黒瀬は少し離れた席で、ノートを取っていた。
真面目に見える。
いや、実際、最近の黒瀬は前より授業を聞くようになっている。
小テストの範囲を確認したり、プリントを借りたり、わからないところを聞こうとしたり。
以前なら「だる」で終わらせていたことを、今は少しだけ踏みとどまる。
その変化が、湊には少し嬉しかった。
二限が終わった休み時間。
湊が机の上のプリントを整理していると、スマホが震えた。
学校では、基本的に授業中はスマホを触らない。
休み時間なら問題ないが、教室の中で通知が来ると少しだけ目立つ。
湊は画面を見た。
黒瀬琉衣奈。
『今の授業、意味わかった?』
湊は思わず黒瀬の席を見た。
黒瀬はスマホを持ったまま、そっぽを向いていた。
こちらを見ていないふりをしている。
同じ教室にいるのに、メッセージ。
湊は少し笑いそうになった。
黒瀬が来る代わりに、メッセージを飛ばしてきたのだ。
湊は返信する。
『半分くらい』
すぐ既読。
『あたしのやつ使うな』
『使いやすい』
『禁止』
『また禁止増えた』
『増える』
やり取りしている間、黒瀬はずっとこちらを見ていないふりをしていた。
でも、口元がほんの少しだけ緩んでいる。
それを見て、湊も少しだけ安心した。
席が遠くなっても、話す方法はある。
メッセージという距離は、夜だけのものではなくなったらしい。
すると、斜め前から声がした。
「朝比奈くん」
「ん?」
栞が振り返っていた。
その目は、湊のスマホを見てから、黒瀬の方へ向かっている。
「同じ教室でメッセージですか?」
穏やかな声だった。
責めてはいない。
けれど、完全に気づいている。
「……まあ」
「黒瀬さんらしいですね」
「怒らないんだな」
「怒る理由はありません」
栞は少しだけ微笑んだ。
「席が離れたぶん、黒瀬さんなりに距離を作っているんだと思います」
「そう見える?」
「はい」
栞は黒瀬の方を見る。
黒瀬はまだスマホを見ているふりをしていた。
「直接来るのも、メッセージを送るのも、黒瀬さんにとってはたぶん別の勇気なんですね」
その言葉に、湊は少しだけ黙った。
栞は、黒瀬の前進をちゃんと見ている。
少し寂しいはずなのに。
少し面白くない気持ちがないわけではないはずなのに。
それでも、黒瀬が動いたことを認める。
そういうところが、本当に強い。
「白瀬さんって」
「はい」
「やっぱり強いな」
「今日は何の強さですか?」
「黒瀬のことをちゃんと認めるところ」
栞は一瞬だけ目を伏せた。
「認めないと、私が嫌なので」
「自分が?」
「はい。黒瀬さんが頑張っているのを見なかったことにすると、自分の気持ちまで雑になってしまう気がします」
静かな言葉だった。
湊は返事に迷った。
迷っていると、スマホがまた震えた。
『白瀬と何話してる?』
黒瀬だった。
湊は画面を見て、少し笑った。
栞もそれを見て、小さく言う。
「黒瀬さんですか?」
「うん」
「何と?」
「白瀬さんと何話してるって」
栞は少しだけ笑った。
「気にしていますね」
「かなり」
湊は返信する。
『黒瀬がメッセージ使うのうまくなったって話』
既読。
少し間が空く。
『そういう話しなくていい』
『してた』
『最低』
『あと白瀬さんが黒瀬らしいって言ってた』
『それはちょっとわかる』
黒瀬の返事に、湊は少し驚いた。
栞にも見せるわけにはいかないが、思わず表情に出たらしい。
「何かありました?」
「黒瀬が、白瀬さんに黒瀬らしいって言われたことを、ちょっとわかるって」
栞は目を少しだけ丸くした。
それから、嬉しそうに微笑む。
「そうですか」
その笑顔があまりに素直で、湊は少しだけ胸が詰まった。
昼休み。
黒瀬は結局、湊の席へ直接は来なかった。
かわりに、メッセージが来た。
『購買行く?』
『行く』
『焼きそばパンあるか見て』
湊は思わず笑った。
焼きそばパン。
以前、黒瀬がそれを頼んだことから、焼き菓子のお礼につながった。そこから休日の駅前、本、しおり、連絡先へとつながっていった。
全部の始まりみたいなパンだ。
『買う?』
『今日は見てくるだけ』
『了解』
『あったら教えて』
『買わないのに?』
『気分』
『便利だな』
『便利』
湊は購買へ行き、焼きそばパンを確認した。
あった。
残り二つ。
買うべきか迷った。
黒瀬は見てくるだけと言った。
でも、あったら教えてと言った。
湊は一つ買った。
ついでに自分用のパンも買う。
教室に戻ると、黒瀬が遠くの席からすぐ気づいた。
湊の手元の袋を見る。
目が少し大きくなる。
スマホが震えた。
『買った?』
『一つ』
『何で』
『食べるかと思って』
既読。
少し長い沈黙。
黒瀬は遠くの席でスマホを見ながら、顔を赤くしていた。
『そういうの、普通にするな』
『いらなかった?』
『いる』
即答。
湊は席から立とうとした。
すると、黒瀬からすぐ追加が来る。
『今は行かない。あとで取りに行く』
直接来るタイミングを選んでいる。
湊は返信した。
『了解』
昼休みの終わり際。
黒瀬が来た。
教室が少し落ち着いて、みんなが午後の授業に向けて席に戻り始めたタイミングだった。
黒瀬は湊の机の横に立ち、小さく言った。
「……焼きそばパン」
「はい」
湊が袋を渡す。
黒瀬は受け取る。
「代金」
「今度でいい」
「またそれ?」
「嫌なら今でも」
「……今度」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「借りっぱなし嫌だから」
「知ってる」
「知ってるって言うな」
「ごめん」
「謝るの早い」
黒瀬は小さく笑った。
そのやり取りを、栞が斜め前で静かに見ていた。
黒瀬が栞を見る。
「……白瀬」
「はい」
「何」
「いえ。焼きそばパン、懐かしいですね」
黒瀬が固まった。
湊も少しだけ固まる。
栞は本当に何でも覚えている。
「……覚えてたの」
「はい」
「そういうとこ」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬は困ったように言ったが、少しだけ笑っていた。
「今回もお礼、考えるのですか?」
栞が言う。
黒瀬は顔を赤くした。
「そこまで言わなくていい!」
「すみません」
「でも」
黒瀬は焼きそばパンの袋を少し握った。
「……考えるかも」
小さな声だった。
それだけ言って、自分の席へ戻っていく。
湊は、その背中を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
焼きそばパンが、また何かを始めるかもしれない。
放課後。
黒瀬は今日は直接湊の席へ来た。
もう少し歩き慣れてきたように見える。
「朝比奈」
「何?」
「昼メッセージ、便利だった」
「便利だけど、授業中はやめろよ」
「休み時間だし」
「それならいいけど」
「同じ教室なのに変だった?」
「変だった」
黒瀬の顔が少し固まる。
湊はすぐ続けた。
「でも、嫌じゃなかった」
黒瀬は目を逸らす。
「……ならいいし」
「焼きそばパンは?」
「食べた」
「どうだった?」
「普通にうまい」
「よかった」
「……ありがと」
「うん」
短いお礼。
けれど、教室で言えた。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
「今日、行く?」
湊が聞くと、黒瀬は頷いた。
「行く。昼メッセージの話と、焼きそばパンの話」
「文句?」
「文句じゃない。確認」
「席の距離確認に続いて?」
「うるさい」
黒瀬は少しだけ笑い、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『昼メッセージ便利だったな』
『便利』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『焼きそばパン、ありがと』
湊は返信する。
『どういたしまして』
既読。
『お礼、考える』
湊は少しだけ笑った。
『楽しみにしてる』
既読。
しばらく止まる。
『期待すんな』
『わかった』
『でもちょっとはしていい』
湊は、前にも似た言葉を聞いた気がした。
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬は少しだけむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「昼メッセージ、便利だったな」
「開幕でそれ言う?」
「言いたかった」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬は靴を脱ぎ、ソファへ向かった。
湊がカフェラテを置くと、彼女はカップを両手で包んだ。
「昼にメッセージ送るの、ちょっと変だった」
「うん」
「でも、行くより楽な時ある」
「あるだろうな」
「席遠いし」
「うん」
「でも、メッセージだけだと足りない時もある」
「今日、焼きそばパン取りに来たみたいに?」
「……そう」
黒瀬はカップを見つめる。
「同じ教室なのにメッセージって、逃げてる感じもするけど」
「うん」
「でも、行けない時に何もないよりはいい」
「そうだな」
「だから、使う」
黒瀬ははっきり言った。
「昼にも」
「うん」
「でも、授業中はしない」
「それは助かる」
「休み時間だけ」
「了解」
黒瀬は少し満足そうに頷いた。
「あと、焼きそばパン」
「うん」
「また借りた」
「借りたっていうか、買っただけだけど」
「でも、あたしの分でしょ」
「まあ」
「だから、返す」
「無理しなくていい」
「無理じゃないし」
黒瀬は少しだけ唇を尖らせる。
「前みたいに、また何か考える」
「焼き菓子?」
「同じはつまんないじゃん」
「つまんないって」
「今回は別のやつ」
「期待していい?」
黒瀬は一瞬だけ目を逸らした。
「……ちょっとなら」
「さっきメッセージでも言ってた」
「覚えてるな」
「うん」
「最低」
けれど、黒瀬は少しだけ笑っていた。
遠くなったギャルは、メッセージを昼にも使い始めた。
それは逃げ道みたいで、でも確かに新しい道だった。
席が遠いなら、歩いて来る。
歩けない時は、メッセージを送る。
それでも足りなければ、焼きそばパンを取りに来る。
黒瀬は黒瀬なりに、新しい教室の距離を作り直し始めていた。




