ep.85 斜め前のメガネっ娘は、距離が近いぶんだけ遠慮する
席替えから二日目の教室は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
机の位置に慣れ始めた生徒たちが、新しい近所同士でそれなりに会話を始めている。前の席ではあまり話さなかった相手とプリントを回したり、後ろの席から消しゴムを借りたり、窓際を失った男子が「日光が遠い」と大げさに嘆いたり。
そんな中で、朝比奈湊は、自分の席にまだ少し慣れなかった。
黒板は見やすい。
授業も受けやすい。
廊下側すぎず、窓際すぎず、悪い席ではない。
問題は、斜め前に白瀬栞がいることだった。
いや、正確に言えば、それは問題ではない。
むしろ、近い。
近くなった。
以前も話しやすい距離ではあったが、今はもっと自然に声をかけられる。ノートを落とせば拾える距離。小声で話しかければ届く距離。授業中に先生の説明でわからないところがあれば、休み時間にすぐ確認できる距離。
それなのに、栞は昨日から少しだけ話しかける回数を減らしていた。
湊には、それがわかった。
栞は遠慮している。
近くなったからこそ、近づきすぎないようにしている。
「……おはよ」
少し離れた席から、黒瀬琉衣奈の声が届いた。
「おはよう」
湊が返す。
黒瀬は昨日より少しだけ自然に見えた。
席が変わった初日は明らかに落ち着かなかったが、昨日の休み時間にプリントを借りに来たことで、少しだけ自分の中で道筋ができたのかもしれない。
遠くなった。
でも、行けば話せる。
それを彼女は自分で確かめた。
そのせいか、今日は昨日ほど肩に力が入っていない。
ただ、湊と栞の距離はやっぱり気になるらしい。黒瀬は挨拶を終えたあと、ちらっと栞の席を見た。
栞はまだこちらを向かない。
自分の席で静かにノートを開いている。
「朝比奈くん、おはようございます」
少し遅れて、栞が振り返った。
「おはよう」
いつもの声。
いつもの表情。
けれど、以前ならそのまま少し話していたところで、栞はすぐに前を向き直った。
湊は少しだけ違和感を覚える。
怒っているわけではない。
避けているわけでもない。
ただ、距離を測っている。
そんな感じだった。
一限が終わった休み時間。
黒瀬は莉子と何か話していた。
席が少し離れたせいで、莉子は以前のようにすぐ横から突っ込むことができない。その代わり、少し大きめの声で黒瀬へ話しかけている。
「るいな、昨日プリント借りに行ったんだって?」
「言い方」
「だって借りに行ったじゃん」
「確認」
「出た、確認」
「何その顔」
「いや、席の距離確認だったんでしょ?」
「莉子!」
黒瀬の声が少し大きくなる。
教室の数人が振り返り、黒瀬は慌てて声を落とした。
「……ほんと黙って」
「はいはい」
莉子は笑いながらも、それ以上は追撃しなかった。
黒瀬はむくれているが、昨日ほど恥ずかしそうではない。
少しずつ、これも日常になるのかもしれない。
湊がそう思っていると、斜め前の栞が立ち上がった。
湊の机の横に来るのかと思った。
けれど、栞は一瞬だけこちらを見てから、少し離れた本棚の方へ向かった。
湊はその背中を見送る。
やっぱり、少し変だ。
変というより、遠い。
距離は近いのに。
その日の昼休み。
湊は購買で買ったパンを机に置いた。
栞は斜め前の席に座っている。近い。昨日と同じように近い。
けれど、彼女は自分から話しかけてこなかった。
文庫本を開いているわけでもない。
ノートをまとめているわけでもない。
ただ、パンの袋を丁寧に開けて、静かに食べている。
湊は少し迷った。
聞いていいのか。
聞かない方がいいのか。
でも、黙っている方が不自然な気がした。
「白瀬さん」
「はい」
栞が振り返る。
「最近、少し遠慮してる?」
聞いた瞬間、栞の目がほんの少しだけ揺れた。
けれど、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「はい」
あっさり認めた。
湊の方が少し驚く。
「認めるんだ」
「嘘をついても、たぶん朝比奈くんにはわかると思ったので」
「いや、そこまでじゃないけど」
「黒瀬さんほどではなくても、朝比奈くんも少しずつ見えるようになってきました」
栞は少しだけ笑った。
その笑顔は、いつもの穏やかさの奥に、少しだけ照れがある。
「近くなったので」
「近くなったから、遠慮してる?」
「はい」
「普通、逆じゃないか?」
「そうかもしれません」
栞は紅茶の紙パックを持ち、少しだけ視線を落とした。
「でも、近くなったぶん、近づきすぎないようにしています」
昨日も似たことを言っていた。
でも今日は、よりはっきりした言葉になっていた。
「黒瀬のことを気にして?」
「黒瀬さんだけではありません」
「え?」
「私自身も、です」
栞は少しだけ目を伏せる。
「近くにいると、話しかけたくなります。今までより簡単に声をかけられるので」
「うん」
「でも、簡単だからといって、何度も話しかけていいわけではないと思いました」
「……白瀬さんらしいな」
「そうでしょうか」
「うん。かなり」
湊がそう言うと、栞は少しだけ困ったように笑った。
「本当は、そこまで立派な理由ではありません」
「立派?」
「少し怖いんです」
静かな声だった。
「近くなったことで、自分が欲張りになるのが」
湊は返事に困った。
栞が欲張り。
その言葉は、どこか彼女に似合わない。けれど、最近の栞を見ていると、似合わないと切り捨てることもできない。
栞だって、ただ待っているだけではない。
本を貸した。
しおりを挟んだ。
黒瀬に雑誌を頼んだ。
席が変わっても話しに来ると言った。
静かに、自分の距離を残し続けている。
「欲張ってもいいんじゃないか」
湊が言うと、栞は少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくり首を横に振る。
「少しずつなら」
「少しずつ?」
「はい。一度に近づきすぎると、黒瀬さんも私も、たぶん困ります」
「自分も?」
「はい」
栞は小さく笑った。
「私は、思ったより不器用なので」
「白瀬さんが?」
「はい。黒瀬さんと違う形で」
湊は黒瀬の方を見た。
黒瀬は莉子に何か言われてむくれている。
でも、時々こちらを見る。
たぶん、湊と栞が話しているのは気づいている。
けれど今日は来ない。
見ている。
気にしている。
でも、踏み込んではこない。
黒瀬もまた、距離を測っているのかもしれない。
「朝比奈くん」
「ん?」
「黒瀬さんに、私は遠慮しているわけではないと伝わるといいのですが」
「遠慮してるって言ってたけど」
「そうですね」
栞は少しだけ苦笑した。
「言葉が難しいです」
「白瀬さんでも?」
「はい。とても」
その言い方が少しだけ意外で、湊は思わず笑ってしまった。
栞が軽く眉を下げる。
「笑うところですか?」
「いや、ごめん。白瀬さんも言葉が難しいって思うんだなって」
「思います。いつも」
「そう見えない」
「見せないようにしています」
それは、前に黒瀬のことで言った言葉と似ていた。
湊がそれに気づいて少し笑うと、栞も気づいたように目を伏せる。
「……黒瀬さんに似てきましたか?」
「少し」
「それは、悪くないかもしれません」
栞は小さく笑った。
その笑顔を、黒瀬が見ていた。
昼休みが終わる少し前。
黒瀬が湊の席へ来た。
手ぶらだ。
プリントもない。
雑誌もない。
消しゴムも落としていない。
ただ来た。
「朝比奈」
「何?」
「白瀬と何話してた?」
直球だった。
湊が少し驚くと、黒瀬はすぐに顔を赤くした。
「……別に、聞いただけ」
「白瀬さんが、最近少し遠慮してるって話」
「遠慮?」
「近くなったから、近づきすぎないようにしてるって」
黒瀬は少し黙った。
そして、眉を寄せる。
「何それ」
「黒瀬が言いそう」
「言わないし」
「でも意味はわかるだろ」
黒瀬は視線を逸らした。
「……わかるけど」
小さい声だった。
「近すぎると、変に意識するし」
「うん」
「遠いと嫌だし」
「うん」
「ちょうどいい距離が難しい」
「昨日も言ってたな」
「何回でも言う」
黒瀬は少しだけむくれる。
それから、斜め前の栞を見る。
栞もこちらを見ていた。
目が合う。
黒瀬は一瞬だけ迷ってから、栞に言った。
「白瀬」
「はい」
「遠慮してるの?」
栞は少しだけ目を瞬かせた。
それから、素直に頷く。
「少しだけ」
「何で」
「近くなったので」
「それ、朝比奈から聞いた」
「はい」
「……近くなったなら、普通に話せばいいじゃん」
黒瀬が言った。
湊は少し驚いた。
栞も、少しだけ驚いた顔をした。
黒瀬はすぐに付け足す。
「別に、ずっととかじゃなくて」
「はい」
「でも、変に引かれると、それはそれで気になる」
「そうですか」
「うん」
黒瀬は少しだけ視線を落とした。
「近くなったから引くとか、強すぎるんだって」
栞は少しだけ笑った。
「強いですか?」
「強い。むかつくくらい」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
でも、今日のそれは少しだけ違った。
黒瀬は、栞の距離の取り方をただ拗ねて見ているのではなく、自分から言った。
変に引かれると気になる、と。
それは、栞に来てほしいという意味にも聞こえた。
栞もそれを受け取ったのか、静かに言った。
「では、少しずつ話しかけます」
「何その宣言」
「急に増やすと、黒瀬さんが困りそうなので」
「困るけど」
「はい」
「でも、全然ないのも変」
「わかりました」
黒瀬は口を開きかけて、閉じた。
言葉がまとまらないらしい。
湊が助け舟を出そうとすると、黒瀬が先に言った。
「……嫌いじゃないだけだから」
何度も聞いた言葉。
けれど、今日のそれは栞に向けられていた。
栞は少しだけ表情をやわらげる。
「はい。私も、黒瀬さんと話すのは嫌いではありません」
「そこで同じ言い方するの、ずるい」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬はそう言いながら、少しだけ笑った。
その笑いを見て、湊は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
放課後。
黒瀬は帰り支度をしながら、また湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「白瀬、近くなったのに引くとか、ほんと強い」
「今日何回目だ?」
「何回でも言うし」
「でも、話せたな」
「……まあ」
「嫌じゃなかった?」
「嫌じゃない」
即答だった。
「でも、疲れる」
「それも昨日言ってた」
「何回でも言う。白瀬と話すと、ちゃんとしなきゃってなる」
「うん」
「朝比奈と話すと文句言える」
「それも昨日言ってた」
「言ったっけ」
「言った」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「……忘れて」
「無理」
「最低」
けれど、黒瀬は少し笑っていた。
「今日、行く」
「文句?」
「うん。白瀬の距離感が強すぎる件」
「タイトルみたいだな」
「変なこと言うな」
「カフェラテ?」
「当然」
黒瀬は満足したように頷いて、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『白瀬さんの距離感の文句?』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『でも嫌じゃない』
湊は画面を見て、少しだけ笑った。
『知ってる』
既読。
『知ってるって言うな』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように立っていた。
「……遅」
「今日は白瀬さんの話だな」
「開幕で言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
黒瀬は靴を脱ぎ、ソファへ向かう。
湊がカフェラテを出すと、彼女は両手で受け取って、すぐに話し始めた。
「あのメガネ、ほんとずるい」
「今日は距離感?」
「そう。近くなったのに引くとか、強すぎ」
「自分で来いって言ったじゃん」
「言ったけど」
「それはいいのか」
「いい。全然話さないのも変だし」
「黒瀬がそう思うようになったの、結構すごいと思うけど」
「そういうの、普通に言うなって」
黒瀬はクッションを抱えた。
「前なら、白瀬が引いたら楽だったかも」
「うん」
「でも今は、変に引かれると気になる」
「うん」
「嫌いじゃないから」
またその言葉。
でも、今日は照れ隠しだけではなかった。
「白瀬はちゃんと待つじゃん」
「うん」
「でも、待ちすぎるとこっちが気になる」
「難しいな」
「難しいんだって」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
「朝比奈ならどうする?」
「何を?」
「近くなったら」
「俺なら?」
「うん」
湊は少し考えた。
「たぶん、様子を見る」
「それ、白瀬寄りじゃん」
「そうかも」
「黒瀬なら?」
「……行く」
「自分で言った」
「うるさい」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「でも、行くと思う。近くなったら、たぶん行く」
「いいと思う」
「ほんと?」
「うん。黒瀬らしい」
「それ、便利に使ってない?」
「少し」
「最低」
黒瀬はそう言いながら、クッションに顎を乗せる。
「でも、白瀬のそういうところは嫌いじゃない」
「引くところ?」
「うん。近くなったのに、近づきすぎないようにするところ」
「さっきまで文句言ってたのに」
「文句と言ってることは別」
「難しい」
「難しいんだって」
黒瀬は少しだけ笑った。
それから、湊を見る。
「朝比奈はさ」
「うん」
「白瀬が近くなって、嬉しい?」
かなり直球だった。
湊はすぐには答えられなかった。
誤魔化せば、黒瀬にはばれる。
かといって、雑に答えるのも違う。
「嬉しい、というより」
「うん」
「話しやすいのは安心する」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
「でも、黒瀬が来てくれるのも嬉しい」
黒瀬が固まった。
カフェラテを持つ手が止まる。
「……そういうの、急に言うな」
「今は言ったほうがいいと思った」
「ずるい」
「今日はずるい?」
「かなり」
黒瀬はクッションに顔を埋めた。
「でも、言われないのも嫌」
「難しいな」
「何回言わせるの」
クッション越しの声は、少しだけ柔らかかった。
斜め前のメガネっ娘は、距離が近いぶんだけ遠慮する。
その遠慮に、ギャルは拗ねて、気にして、でも少しだけ嬉しそうにした。
席替えで変わった教室の距離は、まだぎこちない。
けれど、そのぎこちなさの中で、三人はそれぞれ新しい近づき方を探していた。




