ep.84 遠くなったギャルは、わざとプリントを借りに来る
席替えの翌朝、教室の空気はまだ少し落ち着かなかった。
机の配置は変わった。
見える黒板の角度も、窓から入る光の当たり方も、休み時間に誰が近くを通るかも変わった。
たったそれだけなのに、教室全体がほんの少し別の場所になったような気がする。
朝比奈湊は、自分の新しい席に鞄を置きながら、斜め前の席を見た。
白瀬栞がいる。
彼女はすでに登校していて、机の中に教科書をしまっていた。動きはいつも通り静かで丁寧だ。席替えで近くなったのに、昨日から彼女は少しだけ距離を測っているようにも見える。
近くなったから、近づきすぎないようにする。
昨日、栞はそう言った。
その言葉が、湊の中に残っている。
そして、少し離れた席には黒瀬琉衣奈がいた。
黒瀬は窓際ではなくなった。
前より少し教室の内側。莉子とも、湊とも、栞とも、微妙に距離が変わった席だ。
遠すぎるわけではない。
目を向ければ見える。
休み時間に歩けば行ける。
けれど、前よりは少し話しかけにくい。
黒瀬にとって、その“少し”はたぶん大きい。
湊が教室に入ってきた瞬間、黒瀬は顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
いつもの挨拶。
けれど、席が変わっただけで、その挨拶も少し違って聞こえる。
以前なら窓際から届いていた声が、今日は少し別の角度から来る。黒瀬もそれが変だと思っているのか、言ったあとに一瞬だけ眉を寄せた。
莉子は少し離れた席から身を乗り出す。
「るいなー、声届いたね」
「うざ」
「いや、席離れたからさ。通信テスト」
「通信って何」
「朝比奈くんへの」
「莉子」
黒瀬の声が低くなる。
莉子は楽しそうに笑った。
「はいはい。今日も保護者は遠隔見守りします」
「保護者じゃない」
そのやり取りすら、前より少し遠い。
莉子がすぐ隣にいた時のテンポとは違う。
でも、届かないわけではない。
黒瀬はその距離にもまだ慣れていないようだった。
「朝比奈くん、おはようございます」
斜め前から、栞が振り返った。
「おはよう」
「新しい席、どうですか?」
「まだ変な感じ」
「私もです」
栞は少しだけ笑った。
「でも、思ったより黒板が見やすいです」
「そこ?」
「大事です」
「白瀬さんらしいな」
湊が笑うと、栞も小さく笑った。
そのやり取りを、黒瀬が少し離れた席から見ているのがわかった。
黒瀬は見ていないふりをしていた。
けれど、最近の湊にはわかる。
見ている。
そして、少しだけ面白くなさそうな顔をしている。
一限が終わった。
新しい席で受ける授業は、やっぱり少し集中しづらかった。
先生の立ち位置も、板書の見え方も、周囲で聞こえる筆記音も違う。今まで隣や後ろにいた声が遠くなり、別の声が近くなっている。
黒瀬は授業中、何度かこちらを見た。
いや、湊の方というより、湊の机の上に置かれたプリントを見ていたのかもしれない。
たぶん。
たぶん、ということにしておく。
休み時間になると、黒瀬はすぐには立たなかった。
机の上で配られたプリントを見て、少し考える。
シャーペンを持つ。
置く。
もう一度プリントを見る。
そして、立った。
莉子が遠くから目を細める。
「るいな、行くの?」
「別に」
「どこに?」
「プリント」
「何その目的地」
「うるさい」
黒瀬は少しだけ莉子を睨んでから、湊の席へ歩いてきた。
前なら、窓際からまっすぐ来ればよかった。
今は机と机の間を通らなければならない。途中でクラスメイトに少し道を譲ってもらう必要もある。
その数歩が、黒瀬にとってはやけに長く見えた。
「朝比奈」
「何?」
「さっきのプリント、見せて」
湊は自分の机の上にあるプリントを見る。
同じものが配られているはずだ。
でも、黒瀬の手元にもプリントはある。
それでも湊は何も言わなかった。
「いいよ」
プリントを渡すと、黒瀬は受け取って、湊の机の横に立ったまま目を通した。
「ここ、先生なんて言ってた?」
「ああ、次の小テストの範囲。たぶんこの辺まで」
「ふーん」
「黒瀬も同じの持ってるだろ」
湊が少しだけ言うと、黒瀬はプリントから目を離さずに答えた。
「持ってるけど」
「けど?」
「……確認」
「確認か」
「確認」
黒瀬はそう言って、プリントの端を指で少し折りかけて、慌てて戻した。
湊のプリントだからだろう。
そういうところが、妙に律儀だ。
少しだけ沈黙が落ちた。
周りでは、席替え後の新しい距離に慣れようとする会話が飛び交っている。
莉子の笑い声も少し遠くから聞こえた。
栞は斜め前の席で、ノートをまとめている。
黒瀬はプリントを見たまま、小さく言った。
「……席、遠い」
湊は一瞬だけ返事が遅れた。
黒瀬が昼の教室で、それを言った。
昨日の夜ではなく。
メッセージでもなく。
湊の部屋でもなく。
教室で。
「まあ、前よりは」
「うん」
「でも、来れば話せるし」
黒瀬が言った。
湊が言う前に。
彼女はプリントから目を離して、湊を見た。
「だから来た」
短い言葉だった。
それだけなのに、湊の胸の奥に妙に残った。
遠くなった。
でも来れば話せる。
だから来た。
昨日の「あたしも行くから」が、今日ちゃんと形になっている。
「そっか」
湊はそれだけ返した。
黒瀬は少しだけ目を細める。
「それだけ?」
「いや、ちゃんと来たなって思った」
「言うな」
「よかったと思う」
「だから言うなって」
黒瀬はプリントを返してきた。
頬が少し赤い。
「ありがと」
「うん」
「……また来るかも」
「うん」
「毎回じゃないし」
「わかってる」
「でも、来る時は来る」
「うん」
黒瀬はそれで少しだけ満足したように頷いた。
戻ろうとして、斜め前の栞と目が合う。
栞は静かに見ていた。
黒瀬は少し身構えたが、栞は何もからかわなかった。
ただ、小さく言った。
「黒瀬さん、ちゃんと来ましたね」
黒瀬の足が止まる。
「……見てたの」
「見えました」
「そういうの、いちいち言わなくていい」
「すみません。でも、よかったと思ったので」
「また普通に言う」
黒瀬は困ったように視線を逸らした。
けれど、嫌そうではなかった。
「白瀬」
「はい」
「近いからって、ずっと見てるの禁止」
「ずっとは見ていません」
「ほんと?」
「はい。半分くらいです」
黒瀬が固まった。
湊も思わず栞を見た。
栞は真顔だった。
黒瀬は数秒だけ黙ってから、湊の方を見た。
「……朝比奈のやつ、使われた」
「半分?」
「うん」
「白瀬さんまで」
栞は少しだけ口元を緩めた。
「使いやすかったので」
「このクラス、影響されすぎ」
黒瀬はそう言いながら、自分の席へ戻っていった。
その背中は、来る時よりも少し軽く見えた。
昼休み。
湊が購買で買ったパンを食べていると、栞がいつものように少しだけ振り返った。
近くなったとはいえ、彼女は必要以上にこちらへ体を向けない。
その控えめさが、今の栞らしい。
「黒瀬さん、ちゃんと来ましたね」
「さっきも言ってたな」
「はい。嬉しかったので」
「白瀬さんが?」
「少し」
栞は正直に頷いた。
「席が離れたことで、黒瀬さんが来なくなってしまうのではなく、ちゃんと自分で距離を作ろうとしたので」
「本当に、黒瀬のことよく見てるな」
「はい」
栞は否定しない。
「最近は、黒瀬さんを見るのが少し楽しいです」
「楽しい?」
「はい。表情が変わるので」
「本人に言ったら怒りそうだな」
「怒られそうですね」
栞は少しだけ笑った。
その時、黒瀬からメッセージが来た。
同じ教室にいるのに。
『白瀬、何話してる?』
湊は思わず黒瀬の席を見る。
黒瀬はスマホを持ったまま、そっぽを向いている。
完全にこちらを見ていないふりだ。
湊は返信する。
『黒瀬がちゃんと来たって話』
すぐ既読。
『言うなって言った』
『俺じゃなくて白瀬さんが言った』
『朝比奈も同じ顔してた』
『顔?』
『顔』
湊は少し笑った。
栞が気づく。
「黒瀬さんですか?」
「うん」
「同じ教室でメッセージですね」
「席が離れたからかな」
「黒瀬さんらしいです」
栞はそう言って、少しだけ窓際ではない黒瀬の新しい席を見る。
「私も、負けていられません」
湊は返事に困った。
「負ける?」
「はい」
「何に?」
「黒瀬さんの前進に」
栞は静かに言った。
「黒瀬さんが来るなら、私も待っているだけではいられません」
声は穏やかだった。
でも、そこには確かに意志があった。
湊はパンを持ったまま、少しだけ固まる。
栞はそんな湊を見て、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「……少し、言い方が強かったですね」
「いや」
「でも、本音です」
「うん」
その言葉が、どこか胸に残った。
放課後。
新しい席での一日が終わるころには、教室も少しだけ落ち着いていた。
机の位置が変わったことに、全員が少しずつ慣れてきた。
誰がどこにいるのかも、だいたい把握し始めている。
黒瀬は帰り支度をしてから、湊の席へ来た。
今日二回目。
いや、プリントを借りに来たのと、これを合わせると二回目だ。
「朝比奈」
「何?」
「今日は来た」
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
「……変じゃなかった?」
「全然」
「ほんと?」
「うん。自然だった」
「自然って言われると、それはそれでむずい」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬は少しだけ笑った。
けれどすぐに、栞の方を見る。
「白瀬、なんか言ってた?」
「黒瀬がちゃんと来たって」
「それは聞いた」
「あと、負けていられませんって」
「……は?」
黒瀬の目が少し大きくなる。
「何それ」
「黒瀬の前進に、だって」
黒瀬はしばらく黙った。
それから、小さく言う。
「強すぎ」
「今日も出たな」
「出るし」
黒瀬は少しだけ唇を尖らせた。
「でも、そういうの言われると、こっちも逃げにくい」
「嫌?」
「嫌じゃない」
即答だった。
最近、本当にこの返事が増えた。
「嫌じゃないけど、疲れる」
「それはわかる」
「白瀬といると、ちゃんとしなきゃってなる」
「うん」
「朝比奈といると……」
黒瀬はそこで止まった。
湊は待つ。
黒瀬は少しだけ顔を赤くして、視線を逸らした。
「……文句言える」
「いいことなのか?」
「いいこと」
即答だった。
それが少し嬉しかった。
「今日、行く?」
湊が聞くと、黒瀬は頷いた。
「行く。今日も文句ある」
「席の?」
「席と、白瀬と、朝比奈」
「俺もか」
「いる」
「了解」
「カフェラテ」
「当然」
黒瀬は満足したように頷いて、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『文句三点セット?』
『何それ』
『席、白瀬さん、俺』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しだけむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日はプリント作戦の日だったな」
「作戦って言うな」
「違うのか?」
「確認」
「プリント確認?」
「席の距離確認」
言ってから、黒瀬は自分で少し固まった。
湊も固まる。
「……今のなし」
「無理だな」
「無理じゃなくて」
「席の距離確認って、かなり正確だった」
「最低」
黒瀬は靴を脱ぎ、逃げるように部屋へ上がった。
ソファに座ると、クッションを抱えて顔を隠す。
湊はカフェラテを作って戻った。
「はい」
「ん」
黒瀬はクッションから少しだけ顔を出してカップを受け取る。
「今日、来れたな」
「うん」
「教室で」
「うん」
「どうだった?」
湊が聞くと、黒瀬は少し考えた。
「遠かった」
「うん」
「でも、行けた」
「うん」
「行ったら、話せた」
「うん」
「……だから、たぶん大丈夫」
最後の言葉は、自分に言い聞かせているみたいだった。
湊は静かに頷いた。
「大丈夫だと思う」
「朝比奈がそう言うと、ちょっと大丈夫な気がする」
黒瀬はカフェラテを見つめながら言った。
すぐに顔を赤くする。
「……今のなし」
「今日も無理」
「無理多い」
「多いな」
「最低」
けれど、黒瀬は逃げなかった。
そのままソファに座り、カフェラテを飲んだ。
「白瀬もさ」
「うん」
「負けていられませんって何」
「そのままじゃないか」
「強すぎ。ほんと強すぎ」
「でも嫌じゃない」
「嫌じゃないけど、疲れる」
「さっきも言ってたな」
「何回でも言う。あの子、ちゃんと見てくるから」
「うん」
「逃げられない」
「でも逃げなかった」
黒瀬は少しだけ黙った。
「……そうかも」
「今日の黒瀬、結構頑張ってた」
「そういうの、普通に言うなって」
「夜ならいいかと」
「夜でもむずい」
「じゃあいつなら?」
「……カフェラテ飲んでる時なら、ちょっとマシ」
「今だな」
「だから言うな」
黒瀬は顔を赤くしながら、カップに口をつけた。
遠くなったギャルは、わざとプリントを借りに来た。
でも、それはただの言い訳ではなかった。
席が遠くなっても、ちゃんと来れば話せる。
そのことを、自分で確かめるための小さな一歩だった。
そして、その一歩はちゃんと届いた。




