ep.83 席替え当日、近くなったのは白瀬栞だった
席替え当日の朝、黒瀬琉衣奈は明らかに普通ではなかった。
本人は、普通の顔をしているつもりなのだろう。
窓際の席に座って、スマホを見て、莉子に何か言われるたびに「うざ」と返している。茶髪も制服も、いつも通り。机の上には教科書と筆箱。足元には鞄。
何も変わらない朝。
でも、朝比奈湊にはわかってしまった。
黒瀬は、めちゃくちゃ席替えを気にしている。
スマホを見ているようで、画面はほとんど動いていない。
シャーペンを持っては置き、置いてはまた持つ。
莉子の話にも返事が一拍遅い。
そして湊が教室に入った瞬間、黒瀬はいつもより早くこちらを見た。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶はした。
でも、その後の視線が少しだけ長かった。
昨日の夜、黒瀬は湊の部屋で言った。
――近くじゃなくてもいいけど、遠すぎるのは嫌。
その言葉が、まだ湊の中にも残っている。
席替えなんて、ただの学校行事だ。
くじを引いて、机を動かして、終わり。
けれど今日だけは、ただの席替えではなかった。
「るいな、顔うるさい」
莉子が言った。
「朝から何」
「席替え前の顔」
「そんな顔ないし」
「あるある。今のるいな、ずっと『遠すぎるの嫌』って顔してる」
「莉子」
「はいはい、怒らない怒らない」
莉子は笑いながらも、少しだけ優しい顔をしていた。
「まあ、どこになっても何とかなるって」
「簡単に言う」
「だって、るいな最近ちゃんと動くじゃん」
「……」
「朝比奈くんのところにも、白瀬さんのところにも」
「言わなくていい」
「はいはい」
黒瀬はむくれている。
けれど否定しない。
たぶん自分でもわかっているのだ。
少し前の黒瀬なら、席が離れただけで距離も離れた気になっていたかもしれない。
でも今は違う。
歩いて行くこともできる。
メッセージを送ることもできる。
夜に文句を言いに来ることもできる。
それでも。
昼の教室の距離は、昼の教室の距離として大事なのだ。
「朝比奈くん、おはようございます」
斜め前から、白瀬栞の声がした。
「おはよう」
栞も、いつもより少し静かだった。
彼女はノートを開いているが、ページはまだ白い。シャーペンも持っていない。
「今日ですね」
「席替え?」
「はい」
「白瀬さんも気にしてる?」
「少し」
栞は素直に頷いた。
「でも、席が変わっても話しに来ます」
「昨日も言ってた」
「はい。何度でも言います」
静かな宣言。
その声は強いのに、どこか柔らかい。
湊が返事に迷っていると、栞が少しだけ微笑んだ。
「黒瀬さんも、きっと来ますよ」
「そうかな」
「来ます」
「断言するな」
「はい」
栞は窓際の黒瀬を一度見た。
「黒瀬さんは、もう前の黒瀬さんではありませんから」
その言葉は、湊に言ったのか、黒瀬に聞こえるように言ったのか、少しだけわからなかった。
けれど黒瀬は、たぶん聞いていた。
スマホを持つ手が一瞬止まったからだ。
ホームルームの時間。
担任が教卓に紙箱を置いた瞬間、教室がざわついた。
「はい、席替えするぞー」
歓声。
悲鳴。
机を叩く音。
誰かの「終わった」という早すぎる嘆き。
担任は箱を軽く振った。
「くじ引きな。前が見えにくいとか事情あるやつは後で言え。基本は引いた番号の席」
黒瀬が窓際で小さく息を吐いた。
湊も、自分の番を待つ間、妙に落ち着かなかった。
何が出ても、ただ受け入れるしかない。
それだけなのに、心臓に悪い。
順番にくじを引いていく。
莉子が引いて、顔をしかめた。
「あー、微妙」
黒瀬が引いて、紙を開く。
その顔からは読み取れなかった。
いや、読み取れないようにしているだけだ。
栞が引く。
目元が少しだけ動いた。
最後の方で、湊も箱に手を入れた。
紙を開く。
番号を見る。
新しい座席表に目を移す。
湊の席は、教室の中央より少し前。窓際ではない。後ろでもない。
そして、斜め前に白瀬栞の名前があった。
前ほど近すぎない。
でも、話そうと思えば十分話せる距離。
「……また近くですね」
席を確認した栞が、静かに言った。
「そうだな」
湊はそう返した。
声は普通だったと思う。
けれど、その瞬間、少し離れた場所から視線を感じた。
黒瀬だ。
黒瀬の新しい席は、湊から見て少し離れた列だった。
遠すぎるわけではない。
教室の端と端ではないし、歩いて来られない距離でもない。目を向ければ見える。
けれど、今までより話しにくい。
そして莉子とも少し離れた。
黒瀬は一瞬だけ、座席表を見たまま動かなかった。
それから、何でもない顔を作った。
「るいな、どう?」
莉子が聞く。
「別に」
「別にって顔じゃないけど」
「別にだから」
「朝比奈くんとはちょっと遠いね」
「莉子」
「でも遠すぎではないよ?」
「そういう問題じゃない」
黒瀬はそこで口を閉じた。
言ってしまってから、自分でしまったと思ったのだろう。
莉子は少しだけ目を丸くしたあと、深追いせずに笑った。
「ま、行けばいいじゃん」
「簡単に言うな」
「言うだけなら簡単」
「ほんとうざい」
けれど、黒瀬の声に本気の怒りはなかった。
机を動かす時間になった。
教室全体ががたがたと騒がしくなる。
机と椅子を持って移動する生徒たち。
荷物をまとめる音。
床を擦る脚の音。
誰かの「そこ俺の席!」という声。
湊も机を動かした。
新しい席に着くと、視界が変わった。
黒板が少し近い。窓はやや遠い。
そして斜め前に栞がいる。
栞は机を整え、ノートと筆箱をきれいに並べていた。
その動きはいつも通り丁寧だ。
ふと、彼女が振り返る。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
それだけのやり取りだった。
でも、近さははっきりあった。
黒瀬の方を見る。
黒瀬は少し離れた席で、机の中に教科書を入れていた。
莉子とは斜め後ろくらいの距離。話せないわけではないが、今までより少し遠い。
黒瀬は顔を上げた。
湊と目が合う。
一秒。
それから、黒瀬は小さく視線を逸らした。
その顔は、平然としているように見えて、少しだけ拗ねていた。
昼休み。
新しい席での最初の昼は、教室全体がまだ落ち着かなかった。
いつも一緒に食べる相手の場所が変わったせいで、移動する生徒が多い。
机を少しずらす人。
椅子だけ持って移動する人。
自分の席で食べることにした人。
栞は湊の斜め前に座ったまま、静かにパンの袋を開けていた。
「黒瀬さん、少し離れましたね」
栞が言った。
「うん」
「でも、遠すぎではありません」
「そうだな」
「……ただ、黒瀬さんにとっては少し大きいかもしれません」
湊は黒瀬の方を見た。
黒瀬は莉子の席へ少しだけ体を向けて話している。
でも、時々こちらを見る。
たぶん、来るタイミングを探している。
けれど今日はまだ来ない。
席替え直後で、教室の空気が落ち着かないからかもしれない。
それとも、湊の近くに栞がいるからかもしれない。
しばらくして、栞が小さく言った。
「私、今日は少し控えますね」
「え?」
「近くなったので、近づきすぎないように」
その言葉に、湊は一瞬何も言えなかった。
栞は本当に、そういうところがある。
近くなったら、さらに近づこうとするのではない。
近くなったからこそ、一歩引く。
それが黒瀬を追い詰めないように。
「白瀬さんって、ほんと強いな」
「強いですか?」
「うん」
栞は少しだけ困ったように笑った。
「強いというより、怖いだけです」
「怖い?」
「近くなったからといって、何でも許されるわけではないので」
静かな言葉だった。
それが本音なのだとわかった。
放課後。
黒瀬は帰り支度をしていた。
湊が鞄を持って立ち上がると、彼女がこちらへ歩いてきた。
少しだけ早足。
でも、教室の中ではあくまで普通の速度に見せようとしている。
「朝比奈」
「何?」
「席、よかったじゃん」
第一声がそれだった。
少し棘がある。
「よかったって?」
「白瀬、近いし」
「ああ」
「斜め前って何。強すぎ」
「俺が決めたわけじゃないだろ」
「それはそうだけど」
黒瀬は少し唇を尖らせた。
「黒瀬も遠すぎるわけじゃないだろ」
湊が言うと、黒瀬の目が細くなった。
「そういう問題じゃない」
昨夜のメッセージと同じ言葉。
湊は少し黙った。
黒瀬は、すぐに言いすぎたと思ったのか、視線を逸らす。
「……まあ、最悪ではないけど」
「うん」
「でも、前より行きにくい」
「来ればいいだろ」
「簡単に言う」
「でも、来たじゃん」
今も。
そう言いたかったが、湊は言葉にしなかった。
黒瀬は少しだけ黙る。
「……今日は来た」
「うん」
「次は知らない」
「そっか」
「でも」
黒瀬は小さく息を吸った。
「あたしも行くから」
はっきり言った。
昼ではなく、放課後の教室。
人はまだいる。
莉子も、栞もいる。
それでも言った。
湊は頷く。
「うん。待ってる」
言ってから、少しだけ近かったかと思った。
黒瀬も同じことを思ったのか、目を丸くしたあと、顔を赤くする。
「……そういうの、教室で言うなって」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ禁止」
「禁止増えすぎだろ」
「増える」
黒瀬は少しだけ笑いそうになって、すぐに顔を戻した。
「今日、行く」
「席替えの文句?」
「もちろん」
「カフェラテ?」
「当然」
そのやり取りを、斜め前の席で栞が静かに聞いていた。
何も言わない。
ただ、少しだけ微笑んでいる。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『席替えの文句大会?』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『斜め前って何』
湊は思わず笑った。
『くじだからな』
『強すぎ』
『白瀬さんが?』
『席が』
さらに少し間が空いて。
『白瀬も』
湊はその文を見て、少しだけ黙った。
『でも、黒瀬も来るんだろ』
既読。
少し長く止まる。
『行くし』
短い返事。
それだけで、十分だった。
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつもより少しだけむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日はかなり文句ありそうだな」
「ある」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座るなり、クッションを抱えた。
「斜め前って何」
「さっきもメッセージで言ってた」
「何回でも言う。斜め前って何」
「偶然だろ」
「偶然なのが余計むかつく」
「白瀬さんも引いてたぞ」
「そこが強いんだって!」
黒瀬はクッションを抱えたまま、少し前のめりになった。
「あの子、近くなったのに控えるとか言ってたでしょ」
「聞いてたのか」
「聞こえたの」
「うん」
「普通、近くなったらそのまま来るじゃん」
「黒瀬なら?」
「……行く」
「正直」
「うるさい」
黒瀬は少しだけ顔を赤くする。
「でも白瀬は引く。近くなったからって、近づきすぎないようにします、みたいな顔する」
「実際そんなこと言ってた」
「強すぎ」
「黒瀬も強かったけどな」
「何が」
「放課後、あたしも行くからって言った」
黒瀬が固まった。
クッションを抱えた手が止まる。
「……言うな」
「よかったと思う」
「だから言うなって」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止!」
黒瀬はクッションで顔を隠した。
けれど、その耳が赤い。
湊はカフェラテを置いた。
黒瀬はクッションから少しだけ顔を出して、カップを受け取る。
「……でも」
「うん」
「言わないと、負けた感じした」
「白瀬さんに?」
「席に」
「席に負けるのか」
「うるさい」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
「席が遠くなったから行けない、ってなるのが嫌だった」
「うん」
「だから、行くって言った」
「そっか」
「でも、毎回は無理」
「うん」
「タイミング見る」
「うん」
「変な顔しないで」
「またそれ」
「大事」
黒瀬は少しだけ真剣な顔で言った。
「昼の教室、まだ難しいから」
「わかってる」
「ほんと?」
「うん」
黒瀬は湊の顔をじっと見た。
たぶん、嘘かどうかを見ている。
それから、小さく頷いた。
「ならいい」
しばらく動画を流したが、黒瀬はやっぱり席替えの話を何度も蒸し返した。
「莉子とも離れたし」
「でも話せる距離だろ」
「話せるけど、前よりツッコミに行きにくい」
「そこも大事なのか」
「大事。莉子うざいけど、近いと便利」
「便利扱い」
「本人には言わない」
「言ったら喜びそうだけど」
「それがうざい」
そう言いながらも、黒瀬は少し笑っていた。
莉子と離れたことも、彼女にとっては少し寂しいのだろう。
湊と離れたこと。
栞が近くなったこと。
莉子と少し離れたこと。
全部まとめて、今日の黒瀬を落ち着かなくさせている。
「朝比奈」
「ん?」
「新しい席、見える?」
「黒瀬の?」
「うん」
「見える」
「ほんと?」
「うん。前よりは遠いけど、見える」
黒瀬はカップを見つめた。
「……なら、まあ」
「うん」
「最悪ではない」
今日、二度目の“最悪ではない”。
それが黒瀬の中での精一杯の受け入れなのだろう。
湊は頷いた。
「最悪じゃなくてよかった」
「でも文句は言う」
「どうぞ」
「斜め前って何」
「戻った」
黒瀬は少しだけ笑った。
席替え当日、近くなったのは白瀬栞だった。
黒瀬は拗ねた。
栞は一歩引いた。
湊はその間で少し困った。
けれど最後に黒瀬は、自分で言った。
あたしも行くから。
それだけで、新しい席の距離は、まだ終わりではないと思えた。




