ep.82 席替え前夜、ギャルは祈らないふりをする
席替えは、まだ始まっていない。
ただ、来週やると告げられただけだ。
それなのに、教室の空気はもう少し変わっていた。
朝からあちこちで席の話が出る。
「次、絶対後ろがいい」
「窓際って冬寒くね?」
「いやでも寝やすいじゃん」
「先生の近くになったら終わり」
どうでもいいような話なのに、皆それなりに真剣だった。
高校生にとって席は小さな領地みたいなものだ。
どこに座るかで、見える景色も、話す相手も、休み時間の動きも変わる。
朝比奈湊も、それを今さら実感していた。
今の席に、特別な愛着があったわけではない。
でも、白瀬栞が斜め前にいる。
黒瀬琉衣奈の席が少し離れた列にある。
莉子が黒瀬の近くで、時々こちらをからかう。
その配置に慣れてしまっていた。
慣れてしまったから、変わると言われると落ち着かない。
教室に入ると、黒瀬は窓際の席でスマホを見ていた。
いつもの茶髪。
いつもの制服。
いつもの少し気怠げな顔。
けれど、机の端を指先でとん、とん、と軽く叩いている。
考え事をしている時の癖だ。
湊が入ってくると、黒瀬は顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
その短い挨拶のあと、黒瀬は一瞬だけ何か言いたそうにした。
けれど言わない。
たぶん、席替えのことだ。
莉子が横からその顔を見て、すかさず言う。
「るいな、神頼みする?」
「は?」
「席替え。朝比奈くんの近くになりますようにって」
「しないし」
「じゃあ祈らないの?」
「席なんてどこでもいいって昨日も言った」
「どこでもいい人の顔じゃないんだよねえ」
「莉子、朝からうるさい」
「はいはい」
莉子は笑いながら引いた。
けれど、黒瀬の机を指でとんとんする動きは止まらなかった。
湊は席に着きながら、なるべく見ないふりをした。
すると、斜め前から静かな声が届く。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞だった。
「おはよう」
栞はいつも通り落ち着いている。
ただ、昨日より少しだけ静かだった。
机に置かれたノートは開かれているのに、シャーペンは動いていない。
「席替え、明日でしたよね」
「うん」
「少し、落ち着きませんね」
「白瀬さんでも?」
「はい」
栞は素直に頷いた。
「席が離れても、距離がなくなるわけではないと思います」
「……そうだな」
「でも、今の席で話すことに慣れていたので」
その一言は、思っていたよりも素直だった。
湊は返事に困る。
栞はすぐに微笑んだ。
「大丈夫です。席が離れても、話しに来ますから」
「昨日も言ってたな」
「はい。大事なことなので」
静かな声なのに、妙に強い。
その強さが、また黒瀬のほうへ届いていたらしい。
窓際の黒瀬が、ちらっとこちらを見る。
目が合いそうになって、すぐ逸らす。
見ていないふり。
聞いていないふり。
でも、たぶん全部聞いている。
二限の休み時間。
黒瀬が湊の席へ来た。
手ぶらだ。
最近はもう、用事がなくても来る。
それだけで、昔よりずっと変わった。
「朝比奈」
「何?」
「明日、席替え」
「うん」
「……運だよね」
「まあ、くじなら」
「運って最悪」
「そこまで?」
「そこまで」
黒瀬は少しだけ唇を尖らせた。
「自分で選べるなら、まだいいけど」
「どこ選ぶんだ?」
「それは……」
黒瀬は言いかけて止まる。
湊を見る。
栞の席を見る。
莉子の席を見る。
そして、少しだけ小さな声で言った。
「……今と同じくらい」
「今と同じくらい?」
「近すぎず、遠すぎず」
昨日の夜にも似たことを言っていた。
近すぎると意識する。
遠すぎると話しにくい。
黒瀬にとって、ちょうどいい距離はかなり繊細らしい。
「難しい注文だな」
「知ってる」
「でも、もし遠くなっても」
「うん」
「黒瀬なら来るだろ」
黒瀬は少しだけ固まった。
「……簡単に言う」
「昨日、たぶん行くって言ってた」
「夜の話を昼に持ってくるな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ、もう禁止」
「禁止多いな」
「増えるって言った」
黒瀬は少しむくれた。
けれど、顔は昨日より軽い。
湊が「来るだろ」と言ったことを、嫌がってはいないように見えた。
昼休み。
教室の話題は、まだ席替え一色だった。
莉子が黒瀬の机に肘をついて、何か紙に座席表っぽいものを描いている。
「はい、理想配置」
「何これ」
「るいなここ、朝比奈くんここ、白瀬さんここ、あたしここ」
「勝手に配置すんな」
「だってこの四角関係、配置重要じゃん」
「四角関係って言うな」
「じゃあ何?」
「知らない」
黒瀬が呆れたように言う。
莉子は笑いながら、座席表に適当な丸を描き足す。
「まあでもさ、遠くなっても大丈夫じゃない?」
「何が」
「るいな、最近ちゃんと動くし」
「ちゃんとって何」
「朝比奈くんのとこ行くでしょ。白瀬さんとも話すでしょ。雑誌貸したし。本の感想も言ったし」
「……まあ」
「前よりずっと柔らかい」
「それまた言う」
「言うよ。事実だし」
莉子の声は、いつもより少しだけ優しかった。
黒瀬は返事に困ったように視線を落とす。
「変わったって言われるの、まだ変」
「悪い意味じゃないって」
「それは、まあ、わかるけど」
「ならいいじゃん」
「よくない。慣れない」
黒瀬はそう言って、窓の外を見た。
天気は晴れている。
でも黒瀬の顔は、少しだけ曇っていた。
放課後。
席替えの予告は、いよいよ明日の現実になりかけていた。
担任が帰り際に、
「明日のホームルームでやるから、今の席の私物は片付けておけよ」
と念押ししたせいで、教室がまたざわついた。
黒瀬は机の中を少し片付けながら、何度もため息をついていた。
湊が鞄を持って立ち上がると、彼女が近づいてくる。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「席替え前夜の文句?」
「うん」
「了解」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
黒瀬は少しだけ間を置いてから続けた。
「……近くじゃなくてもいいけど」
「うん」
「遠すぎるのは嫌」
昨日よりも、はっきりした声だった。
湊は頷く。
「うん」
「それだけ」
「わかった」
「……ほんとにわかってる?」
「たぶん」
「たぶんか」
「黒瀬の気持ち、全部はわからないから」
黒瀬は少しだけ目を丸くした。
それから、視線を逸らした。
「そういう正直なの、ずるい」
「今日はずるい?」
「うん」
黒瀬は小さく言って、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『席替え前夜』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通来た。
『神頼みはしない』
湊は思わず笑った。
『莉子さんに言われた?』
『言われた。しないし』
『でも気にはしてる?』
既読。
少し長い沈黙。
やがて。
『してる』
素直な二文字だった。
湊は返信する。
『俺もしてる』
今度はすぐ既読がついた。
返事は少し遅れた。
『そういうの夜に言って』
湊は画面を見て少し笑う。
『今も夜だろ』
『まだ部屋じゃない』
『じゃああとで』
『うん』
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しだけむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「部屋なら言っていいんだっけ」
「開幕でそれ言う?」
「悪い」
「悪いと思ってない」
黒瀬は靴を脱ぎ、もう慣れた動きで部屋へ上がった。
ソファに座る。
クッションを抱える。
それが当然みたいになっている。
湊はカフェラテを二つ作って戻った。
黒瀬はカップを受け取り、少しだけほっとした顔をする。
「明日かあ」
「席替え」
「うん」
「そんなに嫌?」
「嫌っていうか……落ち着かない」
黒瀬はカップを両手で包む。
「今の席、なんだかんだ慣れてたし」
「うん」
「窓際だし。莉子の声近いし。白瀬も見えるし」
「俺は?」
聞いてから、少し意地悪だったと思った。
黒瀬は一瞬だけ固まった。
「……見えるし」
「そっか」
「言わせた」
「ごめん」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ禁止だってば」
黒瀬はクッションを抱え直した。
その仕草が少しだけ照れ隠しに見える。
「朝比奈は?」
「俺?」
「席、どこがいいの」
「そうだな」
湊は少し考えた。
あまり正直に言うと、黒瀬を困らせるかもしれない。
でも、変にごまかすのも違う気がした。
「黒瀬とも、白瀬さんとも、普通に話せる距離」
黒瀬が黙った。
カフェラテの湯気が、二人の間を静かに上がる。
「……欲張り」
「そうかも」
「でも」
「うん」
「あたしも、ちょっとそう思う」
意外なほど素直だった。
黒瀬は視線を落としたまま続ける。
「白瀬と近すぎるのは、それはそれで気まずいけど」
「うん」
「遠いのも、なんか違う」
「仲良くなったな」
「仲良くはないし」
即答だった。
けれど、すぐに小さく付け足す。
「嫌いじゃないだけ」
「その言い方、ずいぶん増えたな」
「便利だから」
「半分と同じか」
「うん」
黒瀬は少しだけ笑った。
そのあと、カップを置いてクッションに顎を乗せる。
「明日、近くになったらなったで、たぶん無理」
「無理なのか」
「意識する」
「遠くなったら?」
「嫌」
「近すぎず遠すぎず」
「そう」
「難しいな」
「運って最悪」
黒瀬は本気でため息をついた。
その姿が少し可笑しくて、でも可愛くて、湊は笑いそうになる。
黒瀬がすぐに睨む。
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「顔」
「顔か」
「顔」
いつものやり取り。
それだけで、少しだけ空気が軽くなる。
しばらく動画を流した。
けれど黒瀬はあまり集中していなかった。
何度かスマホを見て、また伏せる。
席替えのことを考えているのが丸わかりだった。
「神頼みしないのか?」
湊が聞くと、黒瀬はすぐに睨んだ。
「しない」
「莉子さんに言われたやつ」
「しないって言ったし」
「じゃあ何頼む?」
「頼まない」
「もし頼むなら」
「……遠すぎない席」
答えてから、黒瀬はクッションに顔を埋めた。
「今のなし」
「無理」
「無理じゃなくて」
「今日は特に無理」
「最低」
声は弱い。
湊は少しだけ笑って、カフェラテを飲んだ。
帰る時間になっても、黒瀬は少し名残惜しそうだった。
玄関で靴を履きながら、彼女は振り返る。
「朝比奈」
「何?」
「明日、席替え終わったら」
「うん」
「変な顔しないで」
「どんな結果でも?」
「そう」
「難しいな」
「やって」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「やる」
黒瀬は小さく頷いた。
それから、少しだけ声を落とす。
「でも、もし遠かったら」
「うん」
「夜、文句言うから」
「カフェラテ用意しとく」
「当然」
ドアが閉まる。
湊は部屋に戻り、ソファに残ったクッションの沈みを見た。
席はまだ変わっていない。
けれど、明日には変わる。
その前夜、黒瀬は祈らないふりをして、ちゃんと気にしていた。
近くじゃなくてもいい。
でも、遠すぎるのは嫌。
そのわがままで正直な願いが、夜の部屋にしばらく残っていた。




