ep.81 席替えの予告で、教室の距離がざわつく
来週の土曜に、みんなで服を見に行く。
まだ“ほぼ決まり”だった。
黒瀬琉衣奈はそう言い張った。
仮決定でもなく、本決まりでもなく、ほぼ決まり。
その曖昧な言い方がいかにも黒瀬らしくて、朝比奈湊は翌朝になっても少しだけ思い出していた。
――来て。
昨夜、黒瀬はそう言った。
荷物持ちで。
男子目線は必要なら。
似合ってるはタイミングを考えて。
いろいろ条件をつけたあとで、最後だけやけに素直に。
その一言が、朝の教室まで残っている。
教室へ入ると、黒瀬は窓際の席にいた。
いつもの茶髪。
いつもの制服。
いつもの気怠げな表情。
けれど、湊が入ってきた瞬間、彼女の視線は少しだけ早く動いた。
「……おはよ」
「おはよう」
それだけ。
でも、その一瞬の中に、昨夜の続きがある気がしてしまう。
黒瀬もそれに気づいたのか、すぐにスマホへ視線を落とした。
隣の莉子が、もちろん見逃さない。
「るいな、今日も顔うるさい」
「朝から何」
「情報量多いってこと」
「何の情報」
「来週の土曜」
「莉子」
黒瀬の声が低くなる。
だが、莉子は楽しそうに笑っていた。
「まだ何も言ってないじゃん」
「言ってるし」
「服見に行くの楽しみ?」
「楽しみじゃない」
「じゃあ嫌?」
「……嫌とも言ってない」
「はい、出ました。るいな語の前向き」
「翻訳すんな」
黒瀬は莉子の腕を軽く叩いた。
そのやり取りを横目に見ながら、湊は自分の席へ向かう。
席替えしてから、湊の席は教室の中央寄りになった。
黒瀬の席は少し離れた列。
栞は湊の斜め前。
最初は少し変な感じがしたが、最近はこの配置にも慣れてきていた。
黒瀬は少し離れたところからでも話しかけに来るようになったし、栞は近い分だけ前より少し遠慮する。莉子はその全体を面白がりながら見ている。
この距離感も、少しずつ日常になりつつあった。
そう思っていた。
朝のホームルームで、担任が出席簿を閉じながら言った。
「そういえば、来週、席替えするぞ」
教室が一瞬ざわついた。
湊は思わず顔を上げる。
席替え。
その言葉だけで、教室の空気が少し動く。
「またですかー?」
「先生、前もしたばっかじゃないですか」
「前って言っても、もう結構経ってるだろ。視力とか希望もあるし、一回シャッフルする」
担任は軽い調子で言った。
教室のあちこちから、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がる。
湊は、反射的に黒瀬の方を見た。
黒瀬もこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬だったが、その中にいろいろなものが詰まっていた。
今の距離が変わる。
黒瀬が湊のところへ来る理由。
栞が斜め前から話す時間。
莉子が黒瀬をからかう位置。
全部、来週には変わるかもしれない。
黒瀬はすぐに目を逸らした。
けれど、いつものように平然とはしていなかった。
莉子が小声で言う。
「るいな、朝比奈くんの近くになるといいね」
「別に」
返事は早かった。
早すぎた。
「別にって顔じゃないけど」
「どんな顔だし」
「今のは、まあまあ気にしてる顔」
「してない」
「してるって」
「席なんてどこでもいいし」
「ほんと?」
「ほんと」
黒瀬はそう言いながら、シャーペンを指で回そうとして落としかけた。
莉子がにやにやする。
「どこでもいい人の動揺じゃないなあ」
「莉子、うるさい」
湊は前を向き直る。
斜め前の栞は静かだった。
彼女は担任の話を聞いたあと、少しだけ手元のノートに視線を落としていた。
表情はいつも通り。
でも、どこか一拍だけ沈んだように見えた。
一限が終わった休み時間。
栞が湊の机の横に来た。
「朝比奈くん」
「うん」
「席替え、するんですね」
「らしいな」
「前の席ではなくなるかもしれませんね」
それは、ものすごく当たり前のことだった。
でも栞の口から出ると、少しだけ重く聞こえた。
正確には、前の席ではない。
今は斜め前だ。
けれど、いつでも話しかけられる距離にいることには変わりない。
それがなくなるかもしれない。
「まあ、席替えだからな」
湊はそう返した。
それ以上、何と言えばいいかわからなかった。
栞は少しだけ笑った。
「でも、席が変わっても話しに来ます」
静かな宣言だった。
湊は一瞬、返事が遅れる。
「……うん」
「黒瀬さんも、きっと来ると思います」
「どうだろう」
「来ますよ」
栞は不思議なくらいはっきり言った。
「黒瀬さんは、以前よりずっと自分で動くようになりましたから」
湊は窓際を見る。
黒瀬は莉子と話しているふりをしながら、こちらを少しだけ見ていた。
たぶん、今の栞の言葉を半分くらい聞いている。
聞こえていないふりをしているけれど。
「……白瀬さん、黒瀬のことよく見てるな」
「はい」
栞は否定しなかった。
「最近は、見ています」
「前は?」
「前も見ていました。でも、少し違う見方でした」
「違う?」
「はい。前は、朝比奈くんと黒瀬さんの距離を見ていた気がします」
「今は?」
栞は少しだけ窓際を見た。
「黒瀬さん自身を見ています」
その答えに、湊は少しだけ黙った。
栞は本当に変わった。
黒瀬も変わった。
たぶん、自分も。
席替えというただの学校行事が、その変化を急に見える形にしてしまった。
昼休み。
席替えの話題は、まだ教室のあちこちで続いていた。
「次、窓際がいい」
「黒板前だけは無理」
「後ろならどこでも神」
「先生の視界外がいい」
軽い会話のはずなのに、湊には少しだけ落ち着かない。
黒瀬が来た。
今日も手ぶらだ。
けれど、用事がないのに来ることは、もうそれほど不自然ではなくなっている。
「朝比奈」
「何?」
「席替え」
「うん」
「どう思う」
「どうって」
「席、変わるじゃん」
「そうだな」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「今の席、まあまあ悪くなかったのに」
「黒瀬、窓際好きだもんな」
「それもあるけど」
言いかけて、黒瀬は止まった。
それもあるけど。
その続きは、たぶん湊との距離だ。
湊はそう思ったが、言わなかった。
言ったら、黒瀬は逃げる。
「次も窓際になるといいな」
無難に返すと、黒瀬は少しだけ目を細めた。
「……そういう返し、逃げてない?」
「逃げてるかも」
「認めるな」
「嘘ついてもばれるだろ」
「ばれる」
黒瀬は小さく息を吐いた。
「遠すぎるのは嫌」
ぽつりと言った。
昼の教室で。
湊は一瞬、言葉を失った。
黒瀬も自分で言ってから、少しだけ驚いた顔をした。
けれど、取り消さなかった。
「……黒瀬」
「何」
「今の、かなり素直だったな」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「また使った」
黒瀬はむくれた。
でも、その表情は少しだけ軽くなっていた。
そこへ莉子がやって来る。
「るいな、遠すぎるの嫌なんだ?」
「聞こえてたの!?」
「聞こえたの。るいなの声、最近ちょいちょい通るよね」
「最悪」
黒瀬は真っ赤になった。
莉子は笑いながらも、少しだけ優しい目をしている。
「大丈夫だよ。遠くなっても、るいななら行くでしょ」
「簡単に言うな」
「だって最近行ってるじゃん。プリントとか、本とか、雑誌とか」
「理由があったから」
「理由なんて作ればいいじゃん」
莉子は軽い。
でも、たまに真ん中を突く。
黒瀬は言い返せず、少しだけ唇を尖らせた。
「……うざ」
「はいはい」
莉子は笑って去っていった。
栞は近くでそのやり取りを見ていた。
何も言わない。
でも、少しだけ嬉しそうだった。
放課後。
席替えの話題はまだ残っていた。
担任が言っただけで、実際に席が変わるのは来週だ。
それなのに、教室の空気はもう少し変わっている。
人は、変化の予告だけで落ち着かなくなる。
湊が帰り支度をしていると、栞が来た。
「朝比奈くん」
「ん?」
「席が離れても、今日みたいに話しに来てもいいですか?」
「もちろん」
湊がすぐ答えると、栞は少しだけ安心したように笑った。
「ありがとうございます」
「わざわざ聞かなくても」
「一応、聞いておきたかったので」
栞らしい。
そのやり取りを、黒瀬は少し離れたところから見ていた。
顔に出ている。
面白くない。
でも、栞のことを嫌だとは言えない。
そんな顔だった。
黒瀬が湊の席へ来る。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「もう確定?」
「うん。席替えの文句言う」
「俺に?」
「聞いて」
「わかった」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
黒瀬はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「……白瀬、席替えしても来るって?」
「言ってた」
「強すぎ」
「黒瀬も来ればいいだろ」
湊が言うと、黒瀬は一瞬だけ目を丸くした。
それから、視線を逸らす。
「昼の教室でそう簡単に行けないし」
「今、来てるけど」
「今は今」
「来週は来週?」
「そう」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬は少しだけむくれて、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震える。
『今日、行く』
湊は返信する。
『席替えの文句?』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『遠くなったら最悪』
湊はその文面を見て、少し手を止めた。
昼に言った言葉と似ている。
遠すぎるのは嫌。
湊は返信する。
『遠くなっても話せるだろ』
既読。
しばらく返事がない。
そして、短く来た。
『そういう問題じゃない』
湊は少し笑った。
でも、その言葉の意味はわかる気がした。
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつもより少し不満げな顔で立っていた。
「……遅」
「今日は文句の日だな」
「うん」
黒瀬は迷いなく部屋へ上がり、いつものソファに座った。
湊がカフェラテを用意して戻ると、黒瀬はクッションを抱えていた。もう完全に文句を言う体勢だ。
「席替え、ほんと最悪」
「まだ席決まってないけどな」
「決まってないから最悪」
「どういうことだ」
「決まるまで落ち着かない」
「それはわかる」
「でしょ」
黒瀬はカフェラテを受け取り、両手で包んだ。
「今の席、別に最高ってわけじゃないけど」
「うん」
「窓際だし、莉子近いし、朝比奈の席も見えるし」
言ってから、黒瀬は固まった。
湊も止まる。
今のは、かなり自然に出た。
朝比奈の席も見えるし。
黒瀬はゆっくりクッションを持ち上げ、顔を隠した。
「……今のなし」
「無理」
「無理じゃなくて」
「今日は無理だろ」
「最低」
声は弱い。
湊は少しだけカップに視線を落とした。
「見えてたんだな」
「……見える位置だっただけ」
「うん」
「別に、ずっと見てるわけじゃないし」
「うん」
「たまに」
「うん」
「……けっこう」
「正直だな」
「言わせるな!」
黒瀬はクッションの陰から睨んできた。
湊は笑いそうになって、何とかこらえた。
「白瀬さんも、席が変わっても来るって言ってた」
「聞いた」
「黒瀬も来ればいいだろ」
「簡単に言う」
「夜はこんなに来るのに」
「それは別」
「メッセージもある」
「それも別」
「昼の距離は昼の距離?」
湊が言うと、黒瀬は少しだけ黙った。
それから、小さく頷いた。
「……そう」
その声は、かなり素直だった。
「夜に来るのと、メッセージ送るのと、教室で話すのは違う」
「うん」
「全部、別」
「そうだな」
「だから、席遠いと困る」
黒瀬はクッションを抱えたまま、少しだけ視線を落とす。
「近すぎるのも、それはそれで無理だけど」
「わがままだな」
「うるさい」
「でも、わかる」
「わかるんだ」
「うん。近すぎると意識するし、遠すぎると話しにくい」
黒瀬は少しだけ目を上げた。
「それ」
「うん」
「ちょうどいい距離がいい」
「席替えでそれを引けるかは運だな」
「そこが最悪」
黒瀬は大きく息を吐いた。
それから、カフェラテを一口飲む。
「……でも」
「うん」
「遠くなっても、行くかも」
「うん」
「かもだから」
「わかった」
「絶対じゃない」
「うん」
「でも、たぶん行く」
「それ、ほぼ行くやつだな」
「言うな」
黒瀬はクッションに顔を埋めた。
席替えの予告だけで、教室の距離がざわついた。
席はまだ変わっていない。
でも、黒瀬が何を大事にしているのか、少しだけ見えた。
夜の部屋も。
メッセージも。
教室で話せる距離も。
どれか一つで代わりになるものではない。
黒瀬にとって、それぞれが別々に大事な場所になっていた。
「朝比奈」
「ん?」
「来週、席替え終わったら」
「うん」
「文句言いに来る」
「もう決定なんだ」
「絶対来る」
「了解。カフェラテ用意しとく」
「当然」
黒瀬は少しだけ笑った。
その笑い方は、不安が全部消えたものではなかったけれど、少なくとも少しだけ軽くなっていた。




