ep.80 みんなで服を見に行く案は、デートより厄介
翌朝、教室に入った瞬間から、黒瀬琉衣奈は少しだけ警戒していた。
理由はわかっている。
昨日、莉子が余計なことを言ったからだ。
――今度みんなで服見に行けば?
あれから、黒瀬はずっとその言葉を引きずっている。
朝比奈湊も、正直に言えば少し引きずっていた。
黒瀬と服を見に行く。
しかも二人きりではなく、莉子と白瀬栞も一緒。
なら普通の買い物だ。
デートではない。
昨日、莉子もそう言っていた。
けれど、だから気楽かと言われると、まったくそんなことはなかった。
むしろ厄介だ。
二人きりなら、まだ「焼き菓子を買いに行くだけ」と言い張れた。
でも四人になると、黒瀬の照れも、栞の静かな強さも、莉子のからかいも、全部同じ場所に集まってしまう。
想像しただけで疲れる。
教室の窓際で、黒瀬はスマホを見ていた。
茶髪も制服もいつも通り。
けれど、湊が入ってきた瞬間、少しだけ目が合う。
「……おはよ」
「おはよう」
その挨拶はもう普通になってきた。
ただ今日は、そのあと黒瀬がすぐに莉子を見た。
警戒の視線だった。
莉子は当然、それを見逃さない。
「るいな、朝から何その顔」
「別に」
「昨日のこと気にしてる?」
「何のこと」
「服見に行くやつ」
「気にしてないし」
即答だった。
即答すぎて、気にしているのが丸わかりだった。
莉子がにやりと笑う。
「じゃあ決定でいい?」
「何でそうなるの」
「気にしてないなら、別にいいじゃん」
「そういう問題じゃないし」
「じゃあ、気にしてるんじゃん」
「莉子、朝からうざい」
「はいはい」
莉子は笑って引いた。
引いたように見せて、絶対に引いていない顔だった。
湊は聞こえないふりをして席へ向かった。
すると、横から静かな声がした。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞だった。
「おはよう」
栞はいつものように落ち着いている。
けれど、今日は手に昨日のファッション誌を持っていた。
「黒瀬さんの雑誌、もう少し読ませてもらっています」
「真面目に読んでるな」
「はい。思ったより面白いです」
栞は本当にそう思っている顔だった。
「色の組み合わせや、髪型の作り方など、かなり勉強になります」
「勉強って言い方が白瀬さんらしいな」
「そうでしょうか」
「うん」
湊が笑うと、栞も少しだけ笑った。
その時、黒瀬がこちらを見た。
また見ている。
そして今日は、見ているだけでは終わらなかった。
黒瀬が席を立って、湊と栞の近くへ来る。
「白瀬」
「はい」
「雑誌、無理に読まなくていいから」
「無理ではありません」
「ほんと?」
「はい。楽しいです」
「……そういうの、普通に言うのやめて」
「すみません。でも、本当なので」
「それも聞いた」
黒瀬は困ったように目を逸らした。
栞は雑誌を閉じ、少し考えるように言った。
「黒瀬さんが普段見ているものを知れるのは、嬉しいです」
「だから、そういうの」
「はい。すみません」
「謝るの早い」
黒瀬はいつものように言いながらも、少しだけ嬉しそうだった。
その横で、莉子が椅子を引いて近づいてくる。
「で、どうする?」
黒瀬が一瞬で警戒する。
「何が」
「服見に行く話」
「まだその話するの?」
「するよ。白瀬さん、雑誌読んでるし。るいなも服好きだし。朝比奈くんもいるし」
「最後いらない」
黒瀬が即座に言った。
湊は思わず口を開く。
「俺、やっぱりいらないよな」
「いらないっていうか」
黒瀬は言葉に詰まった。
莉子がすかさず言う。
「いるいる。荷物持ちと男子目線」
「荷物持ちはまだわかるけど、男子目線いらないし」
「いや大事でしょ。ほら、るいなが試着した時に『似合ってる』って言う係」
「殺す気?」
「褒められて死ぬの?」
「莉子!」
黒瀬の声が少し大きくなる。
近くの数人がちらっとこちらを見た。
黒瀬は慌てて咳払いする。
栞が静かに言った。
「でも、朝比奈くんの感想は参考になるかもしれません」
「白瀬まで何言ってんの」
黒瀬は栞を見た。
湊も思わず栞を見る。
栞は真面目だった。
真面目な顔で、とんでもないことを言っている。
「自分たちだけだと、似合う服の方向が偏るかもしれません。朝比奈くんの視点があると、別の見え方があるのではないかと」
「白瀬さん、それを真顔で言うの強いな」
湊が言うと、栞は少しだけ首をかしげた。
「そうですか?」
「そう」
黒瀬が小さく言った。
「強すぎ」
莉子は楽しそうに手を叩いた。
「じゃあ決まりじゃん。四人で駅前のショッピングモール行こ」
「決まってない」
「じゃあ仮決定」
「仮でも決めるな」
「るいな、嫌なの?」
莉子が少しだけ声を変えた。
からかいではなく、確認するような声。
黒瀬はすぐに答えなかった。
視線を逸らして、雑誌の表紙を見る。
「……嫌っていうか」
「うん」
「公開処刑じゃん」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないし」
黒瀬は少しだけ頬を赤くした。
「服見て、試着して、感想言われるとか、無理」
「でも、るいな普段から服見られてるじゃん」
「それとこれとは違う」
「朝比奈くんに見られるから?」
「莉子」
低い声。
莉子は「はいはい」と笑ったが、今度は追撃しなかった。
栞も黒瀬を見て、静かに言う。
「無理に行く必要はありません」
「……」
「ただ、私は少し行ってみたいです。黒瀬さんがどんなふうに服を見るのか、実際に知ってみたいので」
黒瀬はまた返答に困った。
こういう時の栞は、本当に強い。
押しつけないのに、まっすぐ言ってくる。
断る余地はちゃんとあるのに、断りにくいほど誠実だ。
「……考える」
黒瀬はようやく言った。
莉子が笑う。
「お、前向き」
「考えるって言っただけ」
「るいな語ではかなり前向き」
「勝手に翻訳すんな」
教室にチャイムが鳴った。
話は一度そこで終わった。
けれど、終わっただけで消えたわけではない。
むしろ、教室の中に置きっぱなしになった。
昼休み。
湊が購買のパンを食べていると、黒瀬が来た。
今日は栞も近くにいる。
莉子は少し離れた席で、誰かと話しながらも明らかにこちらを気にしていた。
「朝比奈」
「何?」
「もし」
「うん」
「もし行くなら」
黒瀬は少しだけ声を落とした。
「来る?」
昨日も似たようなことを聞かれた。
けれど、今日のほうが少し真剣だった。
湊はパンの袋を閉じる。
「黒瀬が嫌じゃないなら」
「またそれ」
「それしか言えないだろ」
「……嫌とは言ってない」
「じゃあ、行く」
黒瀬が少しだけ目を大きくする。
「軽」
「重く言ったほうがいいのか?」
「それはそれで無理」
「だろ」
黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
けれど、嫌そうではなかった。
「荷物持ちだから」
「はいはい」
「男子目線はいらないから」
「じゃあ何か聞かれても黙ってる」
「それはそれで腹立つ」
「難しすぎる」
「必要な時だけ言って」
「例えば?」
「……変じゃない、とか」
「似合ってる、は?」
黒瀬が固まった。
栞が近くで少しだけ目を伏せた。笑いをこらえているようにも見える。
黒瀬は湊を睨んだ。
「それは言い方による」
「昨日も言ってたな」
「覚えてるな」
「大事そうだったから」
「そういう返しがずるい」
黒瀬は顔を赤くして、視線を逸らした。
そこへ莉子が戻ってくる。
「はいはい、話まとまった?」
「まとまってない」
「るいな語では?」
「莉子語に翻訳すんな」
「じゃあ来週の土曜とか?」
「勝手に日程出すな」
「でも仮で決めないと流れるじゃん」
莉子の言うことは正しい。
黒瀬は嫌そうな顔をしながらも、完全には拒否しなかった。
栞が手帳を開く。
「来週の土曜なら、私は午後が空いています」
「白瀬、準備早」
「予定を確認しただけです」
「その時点で強い」
黒瀬はため息をついた。
湊もスマホで予定を確認する。
「俺も午後なら大丈夫」
莉子がにやっとする。
「はい、三人確保。るいなは?」
「……」
「るいな?」
「……午後なら」
「決まり」
「まだ決まりじゃない!」
「仮決まりね」
「仮なら……まあ」
黒瀬は小さく言った。
その瞬間、莉子が満足そうに頷く。
「よし。みんなで服見に行く会、仮決定」
「会って言うな」
「じゃあ何て言うの」
「知らないけど」
湊は苦笑した。
ただ服を見に行くだけの話が、なぜここまで大ごとになるのか。
でも、黒瀬にとっては大ごとなのだろう。
湊に服を見られること。
栞に雑誌を真面目に読まれること。
莉子にからかわれること。
全部が重なっている。
放課後。
黒瀬は帰り支度をしながら、何度もスマホを見ていた。
たぶん、来週の土曜の予定を考えている。
湊が鞄を持って立ち上がると、黒瀬が近づいてきた。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「もう確定?」
「文句言うから」
「また莉子さん?」
「莉子もだし、白瀬もだし、朝比奈も」
「俺も?」
「来るって言った」
「聞かれたから答えたんだけど」
「それが問題」
「どうしろと」
「知らない」
黒瀬は少しだけむくれた。
「夜に言う」
「はい」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
そう言って、黒瀬は教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『文句の続き?』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
『服見に行くの、仮決定でいいのか?』
少し間が空いた。
『仮』
『了解』
『まだ本決まりじゃないから』
『わかった』
『でも予定は空けといて』
湊は画面を見て少し笑った。
『了解』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように少し不機嫌そうな顔で立っていた。
「……遅」
「今日は公開処刑の話か」
「開幕それ?」
「黒瀬がそう言ってたから」
「言ったけど、言うな」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座るなり、クッションを抱えた。
「服見に行くとか、ほぼ公開処刑じゃん」
「でも莉子さんと白瀬さんもいるだろ」
「だから余計むずい」
「二人きりより?」
「二人きりは……」
黒瀬はそこで止まった。
湊も止まる。
部屋の空気が一瞬変わった。
「……今のなし」
「無理」
「無理じゃなくて」
「今日も無理多いな」
「うるさい」
黒瀬はクッションを抱きしめた。
湊はカフェラテを作って戻り、彼女の前に置く。
「二人きりだと何?」
「言わない」
「じゃあ四人のほうが?」
「それも違う」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬はカップを両手で持ち、少しだけ考え込んだ。
「二人だと、なんか……逃げ場ないじゃん」
「うん」
「四人だと、莉子がうざいし、白瀬が強いし、朝比奈が変な感想言うかもしれない」
「俺への信頼低くないか?」
「服が絡むと低い」
「なるほど」
「でも」
黒瀬はカップを見つめる。
「みんななら、行けるかもって思った」
その声は小さかった。
湊は黙って聞いた。
「白瀬がいると、変な方向にちゃんとするし。莉子がいると、うざいけど空気軽くなるし」
「うん」
「朝比奈がいると……」
「うん」
黒瀬は少し言葉を探した。
それから、視線を逸らしたまま言う。
「見てほしい気もする」
湊は返事を間違えないように、一瞬だけ息を止めた。
黒瀬はすぐに顔を赤くした。
「……服をね!」
「わかってる」
「変な意味じゃなくて!」
「うん」
「でも、変な顔したら怒る」
「わかった」
「似合ってるとかも、タイミング考えて」
「そこまで指定するのか」
「する」
黒瀬はクッションに顔を半分埋める。
「でも、言わないのも嫌」
「本当に難しい」
「だから難しいって言ってるじゃん」
湊は少し笑った。
黒瀬が睨む。
「笑うな」
「ごめん。でも、黒瀬らしいなと思って」
「それ、便利に使ってない?」
「少し」
「最低」
けれど、黒瀬も少しだけ笑った。
その笑いは、照れと不安と期待が混ざったものだった。
湊はカフェラテを飲みながら、ふと思う。
みんなで服を見に行く案は、デートより厄介だ。
二人きりではないから安全、というわけではない。
むしろ、それぞれの距離が見えてしまう。
黒瀬が何に照れるのか。
栞が何を真面目に受け取るのか。
莉子がどこでからかい、どこで引くのか。
そして湊が、黒瀬の服を見てどんな顔をするのか。
全部、隠しきれない。
「……朝比奈」
「ん?」
「来週、ほんとに来る?」
「行くよ」
「荷物持ちで?」
「必要なら」
「男子目線は?」
「必要なら」
「似合ってるは?」
「必要なら」
「……その返し、ずるい」
「今日はずるい多いな」
「多い」
黒瀬はカフェラテを飲み、少しだけ息を吐いた。
「でも、来て」
その一言は、今日一番まっすぐだった。
湊は頷く。
「うん。行く」
黒瀬は小さく頷き、クッションに顎を乗せた。
「なら、仮じゃなくて……ほぼ決まり」
「ほぼ?」
「まだ心の準備がある」
「了解」
「笑うな」
「笑ってない」
「顔」
「顔か」
黒瀬は少しだけ笑った。
みんなで服を見に行く案は、デートより厄介だ。
けれど黒瀬は、厄介だと言いながらも、少しだけ前を向いていた。




