ep.79 ギャルのファッション誌を、メガネっ娘が真面目に読む
翌朝、黒瀬琉衣奈はいつもより少し荷物が多そうだった。
朝比奈湊が教室に入ると、窓際の席にいる黒瀬の鞄から、雑誌の角が少しだけ見えていた。
普段の教科書やノートとは違う、少し光沢のある表紙。
昨日の夜、黒瀬はずっと悩んでいた。
白瀬栞に貸すファッション誌を、どれにするか。
「いつものやつでいい」と湊が言うと、黒瀬は「普通すぎない?」と返した。けれど栞が知りたいのは、その“普通”なのだと言うと、しばらく黙ってから「じゃあ、それにする」と頷いた。
その雑誌が、今、黒瀬の鞄に入っている。
ただそれだけなのに、黒瀬の顔はどこか落ち着かない。
「……おはよ」
「おはよう」
いつもの挨拶。
けれど、今日は黒瀬の視線が少しだけ泳いでいた。
莉子が横からすぐに気づく。
「るいな、持ってきたんだ?」
「何を」
「雑誌」
「……持ってきたけど」
「おー。白瀬さんに貸すやつ?」
「声でかい」
「普通の声だし」
「うざ」
黒瀬は鞄を足元に少し引き寄せた。
その仕草が、隠したいのか見せたいのかどちらともつかなくて、湊は少しだけ笑いそうになる。
もちろん、笑わない。
笑ったら怒られる。
最近の湊は、黒瀬の怒りそうなポイントをかなり覚えてきた。覚えたところで回避できるとは限らないのが問題だが。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が教室に入ってきた。
「おはよう」
栞はいつものように落ち着いた表情だったが、黒瀬の鞄に少しだけ視線を向けた。
何かを期待している顔ではない。
急かす顔でもない。
ただ、もし黒瀬が渡してくれるなら受け取る、という静かな待ち方だった。
黒瀬はその視線に気づいたらしい。
スマホを見るふりをして、ほんの少しだけ口を尖らせる。
莉子が小声で言った。
「今じゃない?」
「莉子」
「はいはい、保護者黙ります」
「保護者じゃない」
黒瀬は小さく息を吐いた。
それから、鞄から雑誌を取り出す。
表紙には明るい服を着たモデルが並んでいて、季節のコーディネート特集らしい見出しがいくつも載っている。黒瀬が普段読んでいるものだと思うと、妙に彼女らしい。
黒瀬は雑誌を片手に、栞の席へ向かった。
湊は思わず見てしまう。
黒瀬が栞の机の横で止まった。
「白瀬」
「はい」
「これ」
黒瀬は雑誌を差し出した。
「昨日言ってたやつ。ファッション誌」
栞は一瞬だけ目を明るくした。
それでも声は落ち着いている。
「ありがとうございます」
「別に。普通に読んでるやつだから」
「はい」
「だから、その……変な感想とか言わなくていいし」
「変な感想にならないように気をつけます」
「いや、そういう意味じゃなくて」
黒瀬が少し困った顔をする。
莉子が遠くで肩を震わせている。
笑いをこらえているのが丸わかりだった。
栞は雑誌を両手で受け取った。
本の時と同じように、丁寧に。
「大事に読みます」
「雑誌に大事とかある?」
「あります。黒瀬さんが選んでくれたものなので」
「……そういうの、普通に言うのやめて」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬はそう言いながらも、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
自分の普段見ている世界を、栞がちゃんと受け取った。
それが伝わったのだろう。
二限の休み時間。
栞は早速、雑誌を開いていた。
湊が通りかかると、思わず足を止めてしまう。
栞がファッション誌を読んでいる。
それは、それだけで少し不思議な光景だった。
いつも文庫本や参考書を読んでいる彼女が、真面目な顔で「春の好印象コーデ」「髪型で変わる雰囲気」「小物で抜け感」みたいなページを見ている。
しかも、かなり真剣に。
ページの端に指を置き、写真と解説文を交互に見比べている。
「……白瀬さん」
「はい」
「そんなに真面目に読むものなのか?」
「読んでみると、情報量が多いです」
「情報量」
「はい。服の色、髪型、表情、背景、小物、靴まで全部意味があるんですね」
「分析みたいになってる」
「つい」
栞は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「でも、面白いです」
「黒瀬が聞いたら喜ぶと思う」
「そうでしょうか」
「たぶん」
その黒瀬は、少し離れた席からこちらを見ていた。
いや、見ていないふりをしている。
しかし、視線は完全に栞の手元の雑誌へ向いている。
湊と目が合うと、黒瀬はすぐに顔を逸らした。
わかりやすい。
昼休み。
栞は雑誌を持ったまま、黒瀬の席へ向かった。
黒瀬は莉子と話していたが、栞が来ると少しだけ姿勢を正した。
「黒瀬さん」
「……何」
「このページのコーディネート、黒瀬さんに似合いそうです」
黒瀬が固まった。
莉子が「おっ」と小さく声を漏らす。
湊も近くでパンを開けながら聞いてしまった。
栞が開いているのは、淡い色のトップスに短めのジャケット、細身のパンツを合わせたページだった。派手すぎないが、黒瀬が着たら確かに似合いそうだ。
「……何でそんな普通に言うの」
黒瀬は困ったように言った。
栞は真顔で答える。
「本当にそう思ったので」
「それ、もう聞き慣れてきたけど、やっぱ強い」
「ありがとうございます」
「褒めてるかは半分」
「半分でも嬉しいです」
黒瀬は返事に困った。
莉子が我慢できずに笑う。
「るいな、その服絶対似合うじゃん」
「莉子まで乗るな」
「いや、これは似合う。てか今度着てみれば?」
「着ないし」
「着る顔してる」
「どんな顔」
「ちょっと気になってる顔」
「してない」
黒瀬は全力で否定したが、否定が早すぎる時点で少し怪しかった。
栞は雑誌を見ながら続ける。
「こちらのページも、黒瀬さんに合いそうです」
「まだあるの?」
「はい。髪を少し緩く下ろしている雰囲気が、この前の休日の黒瀬さんに近いと思いました」
黒瀬の顔が一気に赤くなる。
「それ言う!?」
「すみません」
「謝るの早いってば!」
湊も少しだけ動揺した。
休日の黒瀬。
駅前の本屋の前で待ち合わせた日の服。
学校でも部屋でもない感じ、と言って選んできた服。
その記憶が、栞の言葉で一気に戻ってくる。
黒瀬は湊の方を見た。
「……今、想像したでしょ」
「いや」
「した」
「……少し」
「認めるな!」
「嘘ついてもばれるだろ」
「それはそうだけど!」
黒瀬は顔を赤くしたまま、雑誌で顔を隠そうとした。
しかし、それは栞の持ち物なので、途中でやめる。
莉子が笑いながら言う。
「るいな、今度みんなで服見に行けば?」
教室の空気が、そこで一瞬止まった気がした。
黒瀬が固まる。
湊も固まる。
栞だけが少しだけ首をかしげた。
「みんなで、ですか?」
「そうそう。るいなと、白瀬さんと、あたしと、朝比奈くん」
「俺も入るのか」
湊が思わず言う。
莉子は当然のように頷いた。
「荷物持ちと男子目線」
「男子目線いらないし!」
黒瀬が即座に反応した。
しかし、耳が赤い。
栞は少し考えてから、静かに言う。
「でも、朝比奈くんの感想は参考になるかもしれません」
「白瀬まで何言ってんの!?」
黒瀬が完全に動揺する。
莉子は楽しそうに笑う。
「いいじゃん、みんなで。別にデートじゃないし」
「その言葉をわざわざ出すな!」
「るいな、声量」
「莉子のせい!」
教室の何人かがちらっとこちらを見る。
黒瀬は慌てて咳払いし、スマホを見るふりをした。
だが、顔は完全に赤い。
栞は雑誌を閉じ、少しだけ申し訳なさそうに言った。
「黒瀬さん、すみません。少し話が大きくなりました」
「白瀬は悪くない」
黒瀬は反射的に言った。
言ってから、自分でも驚いた顔をする。
栞も、ほんの少し目を丸くした。
莉子の口元が、またにやける。
「るいなー」
「何」
「白瀬さんは悪くないんだ?」
「……今のなし」
「無理でーす」
「朝比奈の真似すんな!」
黒瀬は完全に混乱していた。
湊は、笑わないようにするのが大変だった。
放課後。
黒瀬は雑誌を栞に貸したままだった。
栞は丁寧に鞄へ入れながら、黒瀬に言った。
「もう少し読んでから返します」
「急がなくていいし」
「ありがとうございます」
「あと」
「はい」
「変なページで感想言わなくていいから」
「変なページとは?」
「恋愛特集とか」
栞は少し考えた。
「読みますけど、感想は控えます」
「読むんだ」
「借りたので」
「真面目すぎ」
黒瀬は困った顔をしたが、少しだけ笑っていた。
湊が帰り支度をしていると、黒瀬が近づいてきた。
「朝比奈」
「何?」
「莉子のやつ」
「みんなで服見に行く話?」
「言うな」
「もう話題になってるだろ」
「なってないし。なかったことにするし」
「そうなのか」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから、視線を逸らす。
「……でも、もし行くなら」
「うん」
「来る?」
湊は少し驚いた。
黒瀬はすぐに付け足す。
「荷物持ちとかじゃなくて。いや、荷物持ちでもいいけど」
「どっちだよ」
「うるさい」
湊は少しだけ考えてから答えた。
「黒瀬が嫌じゃないなら行く」
黒瀬は一瞬だけ目を伏せた。
「……嫌とは言ってない」
「じゃあ、行くかもな」
「まだ決まってないし」
「うん」
「でも、変な感想言ったら怒る」
「服の?」
「そう」
「似合ってるとか?」
「それは……」
黒瀬は少し言葉に詰まった。
「言い方による」
「難しいな」
「難しいんだし」
いつもの返し。
けれど、声は少し楽しそうだった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『雑誌どうだった?』
『白瀬が真面目すぎた』
『喜んでた?』
『たぶん』
『ならよかったな』
少し間が空く。
『白瀬に似合いそうって言われた』
『よかったじゃん』
『そういう単純な話じゃない』
『難しいな』
『難しい』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように立っていた。
「……遅」
「今日はファッション誌回だったな」
「回とか言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファに座る。
湊がカフェラテを持ってくると、黒瀬はクッションを抱えながらため息をついた。
「白瀬、真面目に読みすぎ」
「いいことじゃないか」
「いいことだけど、怖い」
「何が?」
「こっちが普通に読んでるやつを、あんな真面目に受け取られるとさ」
「うん」
「なんか、ちゃんと選んでよかったって思うじゃん」
「思ったんだ」
「……思った」
素直だった。
黒瀬はカフェラテを飲み、少しだけ目を伏せる。
「あと、似合いそうって言われた」
「うん」
「朝比奈も想像した」
「したな」
「最低」
「ごめん」
「でも」
黒瀬はクッションに顔を半分埋める。
「変じゃなかった?」
「その服?」
「うん。白瀬が言ってたやつ」
「似合うと思う」
黒瀬の耳が赤くなる。
「……そういうの、夜でも普通に言うなって」
「昼じゃなければいいのかと」
「そういう問題じゃないし」
でも、黒瀬は逃げなかった。
クッションに顔を隠しながらも、ソファから立ち上がることはない。
「服見に行く話」
湊が言うと、黒瀬はびくっとした。
「それ今言う?」
「気になってるだろ」
「気になってないし」
「本当?」
「……半分」
「半分か」
「半分は、莉子が勝手に言っただけ」
「残り半分は?」
「……ちょっとだけ、気になる」
小さな声だった。
湊は頷く。
「じゃあ、もし行くなら行こう」
「まだ決まってない」
「うん」
「でも、行くなら」
「うん」
「変な顔しないで」
「またそれか」
「それ大事」
「努力する」
「努力じゃなくて、やって」
「やる」
黒瀬は少しだけ満足したように頷いた。
ギャルのファッション誌を、メガネっ娘が真面目に読む。
ただそれだけの出来事が、いつの間にか次の休日の話にまで広がっている。
黒瀬は困っている。
照れている。
でも、少しだけ楽しみにしている。
その全部が顔に出ていることを、たぶん本人だけがまだ知らない。




