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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.78 白瀬栞は、紙袋の中身を聞かない

 白瀬栞は、たぶん気づいていた。


 朝比奈湊は、朝の教室でそれを思った。


 昨日、黒瀬琉衣奈が白い紙袋を持ってきたこと。

 それを湊に渡したこと。

 その中に入っていたのが、雨の日に湊が貸したパーカーだったこと。


 栞は、直接聞かなかった。


 黒瀬に対しても、湊に対しても。


 ただ、昨日の昼に一言だけ言った。


 ――黒瀬さん、風邪はひいていませんか?


 それだけだった。


 踏み込まない。

 けれど、何も見ていないふりもしない。


 その距離感が、白瀬栞という子の強さなのだと、湊は最近よく思う。


 教室へ入ると、黒瀬はいつもの窓際の席にいた。


 茶髪を指で軽く払いながら、莉子と何か話している。昨日よりは落ち着いているが、湊が入ってきた瞬間、少しだけ視線がこちらへ動いた。


「……おはよ」


「おはよう」


 それだけで、昨日の夜のことまで少し思い出してしまう。


 パーカー。

 夜限定。

 寒かったら、また借りるかも。


 湊が余計なことを思い出していると、黒瀬が目を細めた。


「……何」


「いや、別に」


「今、何か思い出したでしょ」


「顔に出てた?」


「出てた」


「悪い」


「謝るの早い」


 黒瀬はむっとした顔をしたが、声はそこまで強くなかった。


 莉子が横からにやにやしている。


「るいな、朝から朝比奈くんの顔チェック厳しいね」


「莉子、黙って」


「はいはい。今日も保護者は黙ります」


「保護者じゃない」


 いつものやり取り。


 でも、その中にある黒瀬の表情は、少しだけ柔らかくなっている。


 そのことに、莉子も気づいているのだろう。


 ただ、今日は深くからかわなかった。


「朝比奈くん、おはようございます」


 横から静かな声がした。


 栞だった。


「おはよう」


 栞はいつものように教科書とノートを抱えている。

 けれど今日は、その上に小さな文庫本を二冊重ねていた。


「今日、少しだけ本の話をしてもいいですか?」


「もちろん」


 湊が答えると、栞は机の端に一冊を置いた。


 表紙は、夜のバス停を描いた短編集だった。


「これは貸すというより、紹介だけです」


「紹介?」


「はい。今すぐ読んでください、という意味ではなくて、こういう本もあります、という感じです」


「今回はしおりは?」


 湊が軽く聞くと、栞は少しだけ笑った。


 その笑い方は、いつもより少し照れているようにも見える。


「今回は、しおりはありません」


「珍しい」


「今は、黒瀬さんの番のような気がしたので」


 湊は返事に詰まった。


 栞は何でもないように言ったが、その言葉は軽くなかった。


 黒瀬の番。


 それは、湊のパーカーのことを指しているのか。

 夜の部屋のことを指しているのか。

 それとも、黒瀬が最近、昼の教室で少しずつ自分の距離を作っていることを指しているのか。


 たぶん、全部だ。


「……白瀬さん」


「はい」


「本当に、そういうところあるよな」


「どういうところですか?」


「引く時に、ちゃんと引くところ」


 栞は少しだけ目を伏せた。


「引いているつもりは、あまりないです」


「そうなのか?」


「はい。ただ、無理に同じ場所へ行くと、たぶん黒瀬さんも私も苦しくなるので」


 栞は文庫本の表紙を指でそっとなぞった。


「でも、待っているだけではありません」


 その声は静かだった。


 けれど、はっきりしていた。


「本の紹介も、そのひとつですか?」


「はい。朝比奈くんが、また何か読みたくなった時に思い出してもらえたらいいので」


 栞らしい。


 押しつけない。

 けれど、自分の場所はちゃんと残す。


 しおりの代わりに、今日は本の題名だけを置いていく。


 それが彼女の距離の取り方なのだろう。


 その時、窓際から黒瀬の視線が飛んできた。


 露骨ではない。


 でも、確実に見ている。


 栞もそれに気づいたらしい。


 少しだけ黒瀬のほうを見てから、湊に向き直る。


「それと、今日は黒瀬さんにも少し聞きたいことがあります」


「黒瀬に?」


「はい」


 栞は文庫本を鞄へ戻し、黒瀬の席のほうへ歩いていった。


 湊は思わず目で追ってしまう。


 黒瀬も、栞が自分へ向かってくるのを見て、少し身構えた。


「黒瀬さん」


「……何」


 黒瀬の返事は短い。


 けれど、以前のような完全な拒絶ではない。


 栞は机の横に立ち、少しだけ丁寧に言った。


「今度、おすすめの本ではなく、雑誌を教えてもらえませんか?」


 黒瀬は目を丸くした。


「……雑誌?」


「はい」


「何で?」


「黒瀬さんが普段見ているものを、少し知ってみたいと思ったので」


 あまりにも真っ直ぐな理由だった。


 黒瀬は完全に返答に困っていた。


 莉子が横で口元を押さえている。


 笑いをこらえている顔だ。


「白瀬さん、ファッション誌とか読むの?」


 莉子が聞くと、栞は素直に首を横へ振った。


「ほとんど読んだことがありません」


「え、じゃあ本気でるいなに教わるつもり?」


「はい」


 即答だった。


 黒瀬が眉を寄せる。


「いや、教わるってほどじゃないし。普通に読んでるだけだし」


「その普通を知りたいです」


「……そういうの、普通に言うのやめて」


「すみません」


「謝るの早い」


 いつもの流れになりかけて、黒瀬が少しだけ口元を緩めた。


 ほんの一瞬だったが、湊には見えた。


 たぶん栞にも見えている。


「ファッション誌とかでいいなら」


 黒瀬が視線を逸らしながら言った。


「はい。嬉しいです」


「嬉しいって言うな」


「本当なので」


「またそれ」


 黒瀬は困ったように息を吐く。


 でも、嫌そうではなかった。


「じゃあ、明日……いや、来週でいい?」


「急ぎません」


「そういうとこ」


「はい?」


「いや、何でもない」


 黒瀬はスマホへ視線を戻すふりをした。


 莉子がついに笑う。


「るいな、白瀬さんにファッション誌貸すんだ」


「別にいいでしょ」


「いいよ。めっちゃいい。なんか世界広がってる」


「何その言い方」


「いや、だってさ。ちょっと前のるいななら絶対『は? 何で?』で終わってたじゃん」


「今も言ったし」


「でも断ってないじゃん」


「……莉子、うるさい」


「はいはい」


 莉子は引いた。


 でも、目はかなり楽しそうだった。


 栞は黒瀬に軽く頭を下げる。


「ありがとうございます、黒瀬さん」


「まだ貸すって決めただけだし」


「はい。でも、ありがとうございます」


「……ん」


 黒瀬は小さく返事をした。


 それは、もう会話だった。


 敵対でもなく、単なる気遣いでもない。


 黒瀬と栞の間に、少しずつ別の線が引かれている。


 湊はそれを見て、妙に不思議な気持ちになった。


 昼休み。


 栞は湊の近くの席へ来た。


 今日は文庫本を開かず、昼食のパンだけを取り出している。


「黒瀬さん、受けてくれました」


「見てた」


「少し緊張しました」


「白瀬さんでも?」


「もちろんです。黒瀬さんに何かを頼むのは、まだ少し緊張します」


「そう見えなかった」


「見せないようにしました」


 栞が真顔で言う。


 その返しが少しおかしくて、湊は笑ってしまった。


「朝比奈くん?」


「いや、ごめん。黒瀬みたいなこと言うなって」


「そうですか?」


「うん。見せないようにしました、って」


 栞は少し考えてから、ほんの少しだけ笑った。


「黒瀬さんに影響されているのかもしれません」


「それ、黒瀬に言ったらどうなるかな」


「怒られそうです」


「たぶん」


 二人で小さく笑う。


 その空気を、黒瀬が遠くから見ていた。


 いつもなら少し棘が飛んでくる場面だ。


 でも今日は、黒瀬はすぐには来なかった。


 しばらく莉子と話して、それから少しだけ時間を置いて、湊の席へ来る。


「朝比奈」


「何?」


「あのメガネ、変な方向に強い」


 開口一番それだった。


 湊は笑いそうになる。


「ファッション誌?」


「うん。何であたしに聞くの」


「黒瀬が詳しそうだからじゃないか」


「詳しいっていうか、普通に読むだけだし」


「その普通を知りたいって言ってたな」


「それが強いんだって」


 黒瀬は少しだけ口を尖らせる。


「白瀬ってさ、本だけじゃないんだね」


「本だけ?」


「本の人だと思ってた」


「まあ、俺も最初はそう思ってた」


「でも、こっち側にも来るじゃん。雑誌とか、服とか」


 黒瀬は栞の席をちらっと見た。


「なんか、変」


「嫌?」


 湊が聞くと、黒瀬は少しだけ考えた。


「嫌じゃない」


 最近、この答えが増えた。


 嫌じゃない。


 黒瀬の中で、拒絶ではないけれど名前がつかないものが、少しずつ増えている。


「でも、あの子に雑誌貸すの、ちょっと緊張する」


「どうして?」


「変な反応されたら困るじゃん」


「栞ならちゃんと読むだろ」


「それが困る」


「ちゃんと読むと困るのか」


「だって、あの子、絶対ちゃんと感想言うし」


 黒瀬は小さく息を吐いた。


「ファッション誌の感想って何言うの」


「確かに」


「でしょ」


「でも、白瀬さんなら何か言いそうだな」


「そこが強い」


 またそこに戻る。


 湊は少し笑った。


 黒瀬に睨まれる。


「笑うな」


「ごめん」


「でも」


「うん」


「……ちょっと楽しみではある」


 小さな声だった。


 湊は聞こえなかったふりをしなかった。


「そっか」


「そこ拾うな」


「拾うだろ」


「ほんと最低」


 黒瀬はそう言いながら、そこまで嫌そうではなかった。


 放課後。


 黒瀬は帰り支度をしながら、鞄の中を少し探っていた。


 莉子が横から覗き込む。


「るいな、明日ファッション誌持ってくるの?」


「まだ決めてない」


「持ってくる顔してる」


「何その顔」


「あるじゃん。貸す雑誌どれにするか考えてる顔」


「ないし」


「あるある」


「莉子、ほんとうざい」


「でも白瀬さん、真面目に読むだろうね」


「それが怖いんだって」


「怖い?」


「何か、ちゃんと受け取られそうで」


 言ってから、黒瀬は少し黙った。


 自分の言葉に自分で気づいたような顔だった。


 莉子は少しだけ表情を柔らかくした。


「いいじゃん。ちゃんと受け取ってくれる人、貴重だよ」


「……まあ」


「るいなも、ちゃんと渡せば?」


「雑誌一冊に何をそんな」


「いや、雑誌一冊だからじゃん」


 莉子の言葉は軽いようで、たまに真ん中を刺す。


 黒瀬は返事に困って、湊のほうへ来た。


「朝比奈」


「何?」


「今日、行くかは送る」


「わかった」


「たぶん行く」


「たぶん確定待ち?」


「それ禁止」


「まだ禁止か」


「ずっと禁止」


 黒瀬はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「雑誌、どれがいいと思う?」


「俺に聞くのか」


「聞いてないし」


「今聞いたろ」


「独り言」


「じゃあ答えないほうがいい?」


「……少しだけなら」


 最近、似たようなやり取りが増えた気がする。


 湊は少し考えた。


「黒瀬がいつも読んでるやつでいいんじゃないか」


「普通すぎない?」


「栞が知りたいのは、その普通だろ」


 黒瀬は少し黙った。


 それから、小さく頷く。


「……それもそうか」


「うん」


「じゃあ、いつものやつにする」


「いいと思う」


「変なページあったらどうしよう」


「ファッション誌に変なページあるのか?」


「あるし。恋愛特集とか、モテ服とか」


「白瀬さん、普通に読むだろうな」


「だから怖いんだって」


 黒瀬は少しだけ顔を赤くして、教室を出ていった。


 夜八時半。


 スマホが震える。


『今日、行く』


 湊は返信した。


『たぶん確定』


『禁止』


『カフェラテ?』


『当然』


 少しして、もう一通。


『雑誌、いつものやつ持ってく』


『いいと思う』


『変じゃない?』


『変じゃない』


『ならいいし』


 九時。


 インターホンが鳴る。


 ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しだけむくれた顔で立っていた。


「……遅」


「今日は雑誌の話?」


「開幕で言うな」


「悪い」


「悪いと思ってない」


 黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座った。


 湊がカフェラテを持って戻ると、彼女はスマホをいじりながら、雑誌の電子版らしき画面を見ていた。


「予習?」


「どの号にするか見てるだけ」


「やっぱり真剣だな」


「真剣じゃないし」


「白瀬さんに貸すから?」


「……まあ」


 素直に認めた。


 黒瀬は画面をスクロールしながら言う。


「あの子、変なとこでちゃんと見るじゃん」


「うん」


「だから、適当に渡すのも違う気がして」


「うん」


「でも、気合い入れすぎるのも変」


「難しいな」


「難しい」


 黒瀬はカフェラテを飲み、少しだけ息を吐いた。


「本の時、白瀬はちゃんと貸してくれたじゃん」


「うん」


「あたしも、雑誌くらいちゃんと渡したい」


 その言葉に、湊は少しだけ胸が温かくなった。


 黒瀬は変わってきている。


 誰かに何かを渡すことを、前より大事に考えるようになっている。


 それは、消しゴムや焼き菓子やパーカーの延長にあるのだろう。


「黒瀬らしいやつでいいと思う」


「何それ」


「黒瀬が本当に読んでるやつ」


「……うん」


 黒瀬は少しだけ頷いた。


「じゃあ、それにする」


「栞、喜ぶと思う」


「それ言うと緊張する」


「でも本当だろ」


「本当だから緊張するんだって」


 黒瀬はクッションを抱え、少しだけ顔を隠した。


「明日、変な顔したら助けて」


「また雑なお願いだな」


「なんかして」


「わかった。なんかする」


「雑」


「どっちが」


 黒瀬は少し笑った。


 白瀬栞は、紙袋の中身を聞かなかった。


 その代わり、黒瀬琉衣奈の普段見ている世界を、少しだけ知ろうとした。


 そして黒瀬は、それを困りながらも、ちゃんと渡そうとしている。


 ただの雑誌一冊。


 でも、今の三人にとっては、たぶんそれだけでは済まない。

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