ep.77 夜に文句を言いに来たギャルは、結局パーカーの話をする
黒瀬琉衣奈は、文句を言うために来た。
少なくとも、本人はそう言い張った。
九時少し前。
インターホンが鳴って、朝比奈湊がドアを開けた瞬間、黒瀬はいつもの「遅」ではなく、いきなりこう言った。
「莉子、ほんと無理」
第一声がそれだった。
湊は少しだけ笑いそうになった。
「予告通りだな」
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「顔」
「また顔か」
「顔が笑ってる」
黒瀬はむくれたように言いながら、靴を脱いで部屋へ上がった。
昨日とは違って、今日は制服の上に自分のカーディガンを着ている。もちろん、湊のパーカーではない。
それなのに、湊の頭には昨日の姿が一瞬浮かんだ。
袖が余って、指先だけが出ていた黒瀬。
パーカーの襟元に顔を少し埋めるようにして、カフェラテを飲んでいた黒瀬。
「これ、あったかい」と小さく言った黒瀬。
思い出すなと言われても、無理なものは無理だ。
ソファへ向かいかけた黒瀬が、ふと足を止めて振り返る。
「……今、思い出したでしょ」
「何を」
「パーカー」
「……顔に出てた?」
「出てた」
「悪い」
「謝るの早い」
「じゃあ、謝らない」
「それはそれでむかつく」
「正解がない」
黒瀬は少しだけ口元を緩めた。
それから、いつもの位置に座り、クッションを抱えた。
その動きはもう完全に慣れている。湊の部屋なのに、黒瀬の定位置ができてしまっていることに、今さらながら少し変な気分になる。
「カフェラテ?」
「それ」
「文句言いに来たわりに、そこは通常運転だな」
「文句言うにも飲み物いるし」
「なるほど」
湊はキッチンへ向かった。
湯を沸かしながら、背中越しに聞く。
「で、莉子さんに何言われたんだ?」
「聞く?」
「聞いてって言ったの黒瀬だろ」
「言ったけど」
黒瀬はクッションを抱えたまま、大きく息を吐いた。
「今日一日、ずっと紙袋のこと言ってきた」
「服ねー、って?」
「そう! その言い方!」
黒瀬の声が少し大きくなる。
「朝も『服?』でしょ。昼も『服ねー』でしょ。帰り際なんか『るいな、洗濯上手じゃん』とか言ってきたし」
「洗濯上手」
「笑うな!」
「ごめん、ちょっと無理だった」
「無理じゃないし」
湊は笑いをこらえながら、カフェラテを作った。
たしかに莉子は見抜いていたのだろう。
黒瀬が湊に何かを返したこと。
紙袋の中身が、ただの私物ではないこと。
そして、それを黒瀬が必死に隠したがっていること。
悪意はない。
ただ、面白がっている。
そしてたぶん、少しだけ見守っている。
カップを二つ持って戻ると、黒瀬はまだむくれていた。
「はい」
「ん」
黒瀬はカップを受け取り、両手で包むように持った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「そういう普通の返しも、たまにむかつく」
「何でだよ」
「何でも」
黒瀬はカフェラテを一口飲んで、少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、文句を言うために尖っていた空気が、ほんの少し柔らかくなる。
湊は向かいに座った。
「でも、紙袋渡せてよかったじゃん」
「よかったけど」
「返したかったんだろ?」
「うん」
そこは素直だった。
黒瀬はカップを見つめたまま言う。
「借りたまま学校にいるの、落ち着かなかったし」
「夜でもよかったのに」
「夜まで持ってるの嫌だった」
「そんなに?」
「そんなに」
短い答え。
黒瀬らしい。
借りたものは返したい。
でも、ただ返すだけではなくて、洗って、畳んで、紙袋に入れて返す。
その律儀さを本人は「普通」と言うのだろうが、湊には少し特別に見えた。
「パーカー、ありがとな」
湊が言うと、黒瀬は目を細めた。
「あたしが借りた側なんだけど」
「洗って返してくれたし」
「借りたから洗っただけ」
「でも、いい匂いだった」
言った瞬間、黒瀬が固まった。
カップを持ったまま、完全に止まる。
「……今の、なし」
「何で」
「言い方」
「変だった?」
「変っていうか……何か変」
「変なら悪い」
「謝るのも変」
「どうすればいいんだよ」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
「柔軟剤だから」
「うん」
「家のやつだから」
「うん」
「別に、あたしの匂いとかじゃないし」
言ってから、黒瀬は自分で顔を赤くした。
湊も返答に困った。
部屋に、妙な沈黙が落ちる。
外はもう雨ではない。
けれど、窓の外にはまだ湿った夜の空気がある。
「……その説明が一番危ない気がする」
湊が言うと、黒瀬はクッションを投げかけた。
「言うな!」
「悪い」
「ほんと最低」
けれど、黒瀬は本気で怒ってはいなかった。
むしろ、照れている。
それを隠すために怒っているだけだ。
湊はカップを手に取り、少しだけ視線を逸らした。
これ以上見ていると、また「見すぎ」と言われる。
黒瀬はしばらくクッションに顔を埋めていたが、やがてぽつりと言った。
「……あれ」
「ん?」
「パーカー」
「うん」
「ちょっと楽だった」
昨日も似たようなことを言っていた。
けれど、今日はもう少し言葉が続きそうだった。
湊は黙って待つ。
「大きいやつって、なんかさ」
「うん」
「落ち着く」
「そうなのか」
「うん。袖余るのは邪魔だけど」
「邪魔なんだ」
「邪魔。でも、あったかい」
黒瀬はカップを両手で包む。
「あと、何か……外じゃない感じする」
「外じゃない?」
「学校でも、駅前でもなくて」
「部屋?」
「……そう」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「ここで借りたやつだからかも」
その一言が、やけに静かに響いた。
湊の部屋で借りたパーカー。
濡れた袖を乾かすためだけに羽織ったもの。
でも、黒瀬にとっては、ただの服以上に何かが残ったのかもしれない。
「寒い時、また貸す?」
湊は昨日と同じようなことを言った。
黒瀬は昨日と同じように固まった。
けれど、今回は少しだけ違った。
すぐには否定しない。
しばらく黙ってから、小さく言う。
「……簡単に言うなって」
「嫌なら貸さない」
「嫌とは言ってない」
昨日と同じ答え。
でも、声は昨日より少し柔らかい。
湊は少しだけ笑ってしまった。
「同じこと言った」
「言ってない」
「言った」
「記憶力いいのむかつく」
「そこは普通に覚えてるだろ」
「普通に覚えるな」
「無理だろ」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めたまま、こちらを睨む。
「……学校では絶対無理だから」
「それも昨日言ってた」
「また覚えてる」
「夜限定?」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ目を伏せた。
昨日は「今は」と言った。
今日はどう答えるのか。
湊は、自分で聞いたくせに少し緊張した。
黒瀬はカフェラテを一口飲んでから、ぽつりと言った。
「今は、夜限定」
「そっか」
「でも」
「うん」
「寒い時は……まあ、借りるかも」
かなりの前進だった。
湊はうっかり顔に出した。
黒瀬がすぐに気づく。
「今、嬉しそうな顔した」
「したかも」
「認めるな」
「無理」
「ほんと最低」
そう言いながら、黒瀬の声も少しだけ楽しそうだった。
その後、二人は動画を見ることにした。
黒瀬は「今日は軽いやつ」と言った。
本も読まない。勉強もしない。莉子の文句も一通り言った。
あとはただ、いつもの夜に戻るだけ。
けれど、完全には戻らなかった。
動画の画面では芸人が大げさに転んでいて、黒瀬はそれを見て笑っている。
でも湊は時々、昨日のパーカー姿を思い出す。
黒瀬もそれに気づくたび、じろっと睨む。
「また思い出した」
「何を」
「パーカー」
「顔に出てた?」
「出てた」
「ほんとわかるな」
「あたしも、最近ちょっとわかるようになった」
「何が?」
「朝比奈の顔」
黒瀬は何でもないふりで言った。
けれど、その言葉は結構大きい。
湊が何か返そうとすると、黒瀬はすぐに視線を逸らした。
「今のなし」
「無理だな」
「今日、無理多くない?」
「多い」
「最低」
黒瀬はそう言って、クッションを抱え直した。
少しして、彼女が小さくあくびをした。
「眠い?」
「眠くない」
「それ眠い時のやつだろ」
「違うし」
「じゃあ動画もう一本?」
「……半分だけ」
「動画の半分って何だよ」
「眠くなったら帰る」
そう言いながら、黒瀬はソファの背に少し体を預けた。
クッションを抱えたまま、湊との距離がほんの少し近くなる。
意図的ではない。
たぶん、眠気のせいだ。
けれど、湊の心臓にはよくない。
黒瀬の肩が、ほんの少しだけ湊の腕に触れた。
二人とも固まる。
動画だけが流れ続ける。
「……今の」
黒瀬が小さく言う。
「うん」
「なし」
「無理」
「早い」
「今日は全部無理」
「ほんと最低」
黒瀬はすぐに離れようとした。
でも、完全には離れなかった。
肩が触れない程度の距離。
でも、さっきより近い。
それが今の黒瀬の限界で、今の黒瀬の精一杯なのだろう。
しばらくそのまま動画を見た。
何を見ているのか、湊は半分くらいしか覚えていない。
黒瀬もたぶん同じだ。
帰る時間になると、黒瀬は立ち上がって、少しだけ伸びをした。
「今日、思ったより文句言った」
「莉子さんの?」
「うん。あとパーカーの話も」
「結局そっちのほうが長かったな」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「もうそれ禁止」
「禁止増えた」
「増えるって言ったでしょ」
玄関で靴を履きながら、黒瀬はふと振り返った。
「朝比奈」
「何?」
「また寒かったら」
そこで一度、言葉を止める。
少しだけ迷ってから、黒瀬は視線を逸らした。
「……借りるかも」
「うん」
「だから、変な顔すんな」
「今?」
「今も、次も」
「難しいな」
「やって」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「やる」
黒瀬は満足したのか、小さく頷いた。
そして、いつものように少しだけむくれた顔で言う。
「じゃ」
「気をつけて」
「親か」
ドアが閉まる。
湊は部屋に戻って、ソファを見た。
黒瀬が座っていた場所のクッションが、少しだけ沈んでいる。
夜に文句を言いに来たギャルは、結局パーカーの話をした。
そして、そのパーカーは“夜限定”という言葉と一緒に、また少しだけ二人の距離を近づけた。




