ep.76 パーカーを返すだけなのに、ギャルは朝から落ち着かない
翌朝、朝比奈湊は教室に入った瞬間、まず窓際を見た。
雨は上がっている。
空はまだ少し曇っていたが、昨日のような湿った風はもうない。校舎の窓には薄い光が差していて、廊下の床も乾き始めていた。
だから、黒瀬琉衣奈が昨日の夜みたいに濡れていることはない。
当然だ。
わかっている。
それでも湊は、窓際の席を見てしまった。
黒瀬はもう来ていた。
茶髪も制服もいつも通り。日焼けした肌に、少し気怠げな表情。隣では莉子がスマホを片手に何かを話している。
ただ、黒瀬の足元に紙袋が置かれていた。
白い無地の紙袋。
中身は、たぶん昨日のパーカーだ。
湊のパーカー。
昨日、雨で袖を濡らした黒瀬に貸したもの。
その記憶が戻ってきた瞬間、湊は少しだけ視線を逸らした。
大きめのグレーのパーカーを着た黒瀬。
袖から指先だけを出して、カフェラテのカップを包んでいた黒瀬。
「これ、あったかい」と小さく言った黒瀬。
思い出すなと言われても、無理がある。
湊が席に着くと、黒瀬がこちらを見た。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶はいつも通り。
けれど、黒瀬の視線はすぐに紙袋へ落ちた。
そして、また湊を見る。
その動きだけで、彼女が朝からずっと落ち着いていないのがわかった。
莉子も当然気づいている。
「るいな、それ何?」
莉子が紙袋を指さした。
黒瀬の肩が、わずかに跳ねる。
「別に」
「別にって中身あるじゃん」
「あるけど」
「何?」
「……服」
言った瞬間、黒瀬自身が少し後悔した顔をした。
湊も内心で頭を抱える。
それは答えとして、かなり危ない。
莉子の目が、わかりやすく光った。
「服?」
「そう」
「誰の?」
「……あたしの」
「へえ。紙袋に入れて学校持ってくる自分の服?」
「そういう日もあるし」
「どんな日?」
「莉子、朝からうざい」
「はいはい」
莉子は笑って引いた。
引いたけれど、絶対に納得していない顔だった。
黒瀬はスマホを見ているふりをしている。
けれど、指先が画面をほとんど動かしていなかった。
完全に動揺している。
「朝比奈くん、おはようございます」
横から静かな声。
白瀬栞だった。
「おはよう」
栞はいつも通り落ち着いた顔をしていたが、黒瀬の足元の紙袋に一度だけ視線を落とした。
それだけ。
何も聞かない。
けれど、何かを察しているのは明らかだった。
湊は少しだけ気まずくなる。
栞はそんな湊の顔を見て、小さく言った。
「昨日の雨、少し大変だったみたいですね」
「……まあ、少し」
「黒瀬さん、風邪をひいていないといいのですが」
その声は、本当に心配している声だった。
湊は窓際を見る。
黒瀬は聞こえていないふりをしていたが、たぶん聞こえている。
耳が少しだけ赤い。
一限前、黒瀬は紙袋を机の下へ押し込んでいた。
できれば誰にも見られたくない。
でも湊には渡さなければいけない。
そんな葛藤が、姿勢に出ていた。
二限の休み時間になっても、黒瀬は動かなかった。
三限前も動かない。
湊としては、夜でもいいのではと思った。どうせ今日も来るつもりなのだろうし、教室で渡すよりそのほうが安全だ。
けれど黒瀬は、借りたものを持ったまま一日過ごすのが嫌なのだろう。
昼休み前の短い休み時間。
ついに黒瀬が紙袋を持って立ち上がった。
莉子が即座に反応する。
「あ、服?」
「見んな」
「見てない見てない」
「見てるし」
「で、それどこ持ってくの?」
「……返す」
また危ない言い方をした。
莉子の口元が上がる。
「誰に?」
「莉子、ほんと黙って」
「はいはい」
黒瀬は莉子を睨んでから、紙袋を抱えるように持って湊の席へ来た。
教室の空気は普通だ。
誰も大きく注目しているわけではない。
でも黒瀬の顔は、まるで公開処刑でも受けているみたいだった。
「朝比奈」
「何?」
「……昨日の」
紙袋を差し出される。
湊は受け取った。
袋越しに、洗濯した布の柔らかい感触がした。
「ありがとう。洗ってくれたのか」
「濡れたまま返すの嫌だったし」
「助かる」
「別に、借りたのあたしだし」
黒瀬は視線を逸らした。
それから、小さく付け足す。
「柔軟剤の匂い、変だったら言って」
「いや、たぶん大丈夫」
「たぶんって何」
「まだ開けてないから」
「……今開けないで」
「わかった」
「絶対」
「わかったって」
黒瀬は少しだけ安心したように息を吐いた。
そのタイミングで、栞が近くを通った。
黒瀬の背中がほんの少し固まる。
湊も少しだけ身構えた。
栞は紙袋を見て、それから黒瀬を見た。
何かを聞くのかと思った。
けれど、栞はただ静かに言った。
「黒瀬さん、風邪はひいていませんか?」
黒瀬が目を丸くした。
「……平気」
「ならよかったです」
それだけ。
本当にそれだけだった。
紙袋の中身には触れない。
昨日何があったのかも聞かない。
ただ、黒瀬の体調だけを聞く。
黒瀬は一瞬、返し方を見失ったような顔をした。
それから、少しだけ小さな声で言う。
「……ありがと」
栞は柔らかく頷いた。
「いえ」
そのやり取りを見ていた莉子が、遠くからにやにやしている。
「服ねー」
黒瀬が振り向いた。
「莉子!」
「いや、何も言ってないじゃん。服ねーって言っただけ」
「それがもう言ってる!」
「はいはい、ごめん」
莉子は笑っている。
黒瀬は顔を赤くして、湊へ小声で言った。
「今日、夜に文句言う」
「俺に?」
「莉子の文句」
「俺が聞くのか」
「聞いて」
即答だった。
湊は少し笑いそうになった。
黒瀬はむっとする。
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「顔が笑ってる」
「また顔か」
「顔」
黒瀬はそう言って、自分の席へ戻っていった。
紙袋は湊の机の横に残った。
昼休み。
栞がいつものように近くの席へ来た。
「黒瀬さん、ちゃんと返せたんですね」
「うん」
「安心している顔でした」
「黒瀬が?」
「はい。少しだけ」
栞は紙パックの紅茶を手にしたまま、窓際の黒瀬を見る。
黒瀬は莉子にまだ何かからかわれているらしく、顔をしかめていた。
けれど、紙袋を抱えていた時の緊張はもう消えている。
「聞かないんだな」
湊が言うと、栞は少しだけ首をかしげた。
「何をですか?」
「紙袋の中身」
「黒瀬さんが言いたくなったら聞きます」
「白瀬さんらしいな」
「そうでしょうか」
「うん。待つのうまい」
栞は少しだけ目を伏せた。
「待つのがうまいというより、無理に聞いても、その人の言葉にはならない気がするので」
その言葉に、湊は少し黙った。
黒瀬も栞も、最近よく“待つ”ことを口にする。
急かさない。
返せる時でいい。
言える時でいい。
そうやって少しずつ進むから、きっと今の関係は壊れずに続いている。
放課後。
湊は紙袋を鞄へしまった。
黒瀬はそれをちらっと確認して、少しだけほっとした顔をした。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「もう確定?」
「うん。文句言うから」
「莉子の?」
「うん」
「了解」
「あと」
黒瀬は少しだけ声を落とした。
「パーカー、変な匂いしないか確認しといて」
「今?」
「家で」
「わかった」
「……変だったら言って」
「たぶんいい匂いだと思う」
言った瞬間、黒瀬が固まった。
「……今の、なし」
「何で」
「何か変」
「洗ってくれたんだろ」
「そうだけど」
「じゃあ、ありがとう」
黒瀬は顔を背けた。
「そういう返し、ずるい」
「今日はずるい?」
「今日も」
そう言って、彼女は教室を出ていった。
夜。
湊は帰宅してから紙袋を開けた。
中には、綺麗に畳まれたグレーのパーカーが入っていた。
湊が貸した時よりも、むしろ丁寧になって返ってきている。
ほのかに柔軟剤の匂いがした。
甘すぎない、少しだけやわらかい匂い。
昨日の夜、黒瀬が着ていた姿がまた浮かぶ。
湊はすぐに紙袋へ戻した。
これは危ない。
何が危ないのか、自分でもよくわからないが、とにかく危ない。
八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。莉子の文句言う』
湊は笑って返信する。
『カフェラテも?』
『当然』
『パーカーありがとう』
少し間が空く。
『匂い変じゃなかった?』
『大丈夫だった』
『ほんと?』
『うん。ちゃんと洗ってくれてありがとう』
既読。
しばらく沈黙。
そして。
『そういうの普通に言うな』
いつもの返しが来た。
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は開口一番、こう言った。
「莉子、ほんと無理」
「予告通りだな」
「ほんと無理。服って言ったあたしも悪いけど、絶対わかってた」
「まあ、莉子さんは勘いいからな」
「勘いいっていうか、うざい」
黒瀬は靴を脱いで、いつものようにソファへ向かう。
昨日とは違い、今日は自分のカーディガンを着ている。
それなのに、湊は一瞬だけ昨日のパーカー姿を思い出してしまった。
黒瀬が振り返る。
「……今、思い出したでしょ」
「何を」
「パーカー」
「……顔に出てた?」
「出てた」
「悪い」
「謝るの早い」
「また白瀬さんみたいか」
「そこで出すなって」
黒瀬はむくれながらソファに座った。
湊がカフェラテを出すと、黒瀬は両手でカップを包む。
「パーカー、ありがとね」
「こっちこそ洗ってくれてありがとう」
「借りたから」
「うん」
「……あれ、ちょっと楽だった」
「パーカー?」
「うん。大きいやつ」
黒瀬はカップを見つめたまま言った。
「袖、長いし。あったかいし。なんか、変に落ち着く」
湊は少しだけ言葉を選んだ。
「寒い時、また貸す?」
黒瀬が固まった。
カップを持つ手まで止まる。
「……そういうの、簡単に言うな」
「嫌なら貸さない」
「嫌とは言ってない」
即答。
それから黒瀬は、自分で言った言葉に気づいたのか、顔を赤くした。
「……今のなし」
「無理」
「無理じゃなくて」
「今日は無理が多いな」
「うるさい」
黒瀬はクッションを抱え、顔を半分隠した。
「でも、学校では絶対無理」
「パーカー?」
「そう」
「夜限定?」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ黙った。
それから、クッション越しに小さく言う。
「……今は」
その二文字で、湊の胸が少し鳴った。
今は。
それは、いつか変わるかもしれないという言葉だった。
黒瀬はすぐに顔を上げて、睨んできた。
「変な顔すんな」
「してた?」
「してた」
「悪い」
「謝るの早い」
「もう正解がわからない」
黒瀬は少し笑った。
その笑いが、昨日のパーカー姿を思い出させるくらい柔らかかった。
パーカーを返すだけなのに、ギャルは朝から落ち着かなかった。
そして夜になると、その落ち着かなさは少しだけ本音に変わっていた。




