ep.75 雨に濡れた袖を、夜の部屋で乾かすだけ
その日の夜、雨はまた降り出した。
夕方までは持っていた空が、夜になって急に思い出したみたいに崩れた。窓の外では、細い雨が街灯に照らされて斜めに流れている。昨日ほどの強さではないが、風が混じっていて、傘を差しても濡れそうな雨だった。
朝比奈湊は、窓の外を見ながらスマホを確認した。
八時二十七分。
黒瀬琉衣奈からの連絡は、まだない。
来る日は八時半前後にだいたいメッセージが来る。
来ない日は、来ない。
それだけのことなのに、八時半が近づくと妙にスマホが気になるようになってしまった。
最初はインターホンだった。
九時前後に鳴るか、鳴らないか。
それだけだった夜が、今は少し早く始まる。
メッセージが来た時点で、もう黒瀬が部屋に向かってくる気配がする。
八時三十二分。
スマホが震えた。
『今日、行く』
短い。
でも、それだけで十分だった。
湊はすぐに返信する。
『雨だけど大丈夫か?』
既読がつく。
少しして、返事。
『平気。傘あるし』
昨日と違って、今度は本当に持っているらしい。
湊は少し笑いながら打つ。
『緊急避難はいらない?』
既読。
返事が数秒止まる。
怒らせただろうかと思ったところで、返信が来た。
『それ禁止』
『まだ禁止多いな』
『増える』
黒瀬らしい返事だった。
湊はカフェラテ用のカップを二つ出し、湯を沸かし始めた。
外では雨が少し強くなっている。
窓を叩く音が、昨日の傘の内側を思い出させた。
黒瀬の髪が袖に触れた感覚。
風で傘があおられた瞬間、彼女が湊の袖を掴んだこと。
駅の屋根の下に入った途端、急に距離が戻ってしまったこと。
あれを思い出すたび、少しだけ落ち着かなくなる。
九時少し前。
インターホンが鳴った。
湊がモニターを見ると、そこには黒瀬が立っていた。
傘を持っている。
ただ、髪の毛先と袖口が少し濡れていた。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように言った。
「……遅」
「今日は早かっただろ」
「気分の問題」
いつもの返し。
けれど、声に少しだけ寒さが混じっている気がした。
「濡れてるじゃん」
「ちょっとだけ」
「平気って言ってたのに」
「傘はあったし」
「風か」
「うん。横から来た。最悪」
黒瀬は靴を脱ぎながら、濡れた髪の先を指でつまんだ。
茶色い毛先に雨粒が少しだけ残っている。制服のカーディガンの袖も、手首のあたりが濃い色になっていた。
それを見て、湊はすぐ洗面所からタオルを取ってきた。
「使って」
「……ありがと」
黒瀬は素直に受け取った。
ソファに座ると、いつものようにクッションを抱える前に、タオルで髪を拭き始める。普段なら整っている髪が少し乱れていて、学校でも外でもない、雨に崩された黒瀬だった。
湊はキッチンへ向かおうとして、少しだけ足を止めてしまった。
見てしまう。
濡れた毛先。
タオルで押さえる指。
少しだけ伏せたまつげ。
冷えたせいか、いつもより薄く見える唇。
別に変なことは何もない。
ただ、いつもと少し違うだけだ。
なのに、その“少し違う”が妙に目に残る。
「……見すぎ」
黒瀬がタオルの陰から言った。
「悪い」
「髪濡れてるだけでそんな見る?」
「いつもと違うから」
言った瞬間、黒瀬の手が止まった。
タオルで半分隠れた顔が、ほんの少し赤くなる。
「そういうの、普通に言うなって」
「ごめん」
「謝るの早いし」
「白瀬さんみたいだな」
「そこで白瀬出す?」
「今のは悪かった」
「ほんと最低」
黒瀬は口ではそう言いながら、タオルで髪を拭く手つきは少しだけ柔らかくなっていた。
湊は今度こそキッチンへ行き、カフェラテを作った。
温かい湯気が立つカップを二つ持って戻ると、黒瀬は濡れた袖を少し気にしていた。
カーディガンの手首から肘にかけて、雨が染み込んでいる。
「袖、かなり濡れてるな」
「うん。ここだけ」
「寒くない?」
「……ちょっと」
黒瀬はそう言ってから、すぐに付け足す。
「でも平気」
「平気じゃないだろ」
「平気だし」
「昨日も傘持ってるって言ってたな」
「それ関係ない」
「嘘つく時の言い方が似てる」
「うるさい」
黒瀬はむっとする。
けれど、濡れた袖を握る指先は少し冷たそうだった。
湊は少し考えて、立ち上がった。
「待ってて」
「何」
「着替えじゃないけど、乾くまで羽織れるやつ持ってくる」
「は?」
黒瀬の声が一段跳ねた。
湊はクローゼットから大きめのパーカーを一枚出した。家で着る用の、少しゆったりしたグレーのものだ。
それを持って戻ると、黒瀬は明らかに身構えた顔をしていた。
「これ、借りるの?」
「濡れたままだと風邪ひくだろ」
「……男物じゃん」
「俺のだからな」
「それはわかってるし」
「嫌ならタオル巻くか?」
「それはそれで変でしょ」
「じゃあ、これ」
湊がパーカーを差し出すと、黒瀬はしばらくそれを見つめた。
手を伸ばしかけて、止める。
それから、少しだけ視線を逸らしたまま受け取った。
「……乾くまでだから」
「うん」
「変な意味ないから」
「わかってる」
「ほんと?」
「うん」
「……ほんとに?」
「そこまで疑う?」
黒瀬は返事をせず、パーカーを抱えたまま立ち上がった。
「洗面所、借りる」
「どうぞ」
黒瀬が洗面所へ入る。
ドアが閉まる。
湊はソファの横に立ったまま、妙に落ち着かない気持ちになった。
ただ濡れたカーディガンを脱いで、パーカーを羽織るだけだ。
それだけなのに、部屋の空気が少し変わる。
カフェラテの湯気が静かに揺れている。
数分もしないうちに、洗面所のドアが開いた。
黒瀬が戻ってくる。
湊は、思わず黙った。
グレーのパーカーは、黒瀬には少し大きかった。
肩が落ちて、袖が長い。手の甲どころか、指先まで少し隠れている。普段の制服姿の強いギャル感が薄れて、急に部屋の中の彼女になった。
それも、いつもの自分の服ではない。
湊の服を借りている黒瀬。
本人もそれをわかっているのか、ソファの前で立ち止まったまま、少しだけ睨んできた。
「……何」
「いや」
「似合わないとか言ったら怒る」
「似合ってる」
黒瀬は一瞬で固まった。
それから、長い袖で口元を少し隠す。
「だから言うなって……」
「言わなかったら怒るだろ」
「怒るけど」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬はソファに座った。
いつものクッションを抱えようとして、袖が余っているせいで少しもたつく。
それが妙に可愛くて、湊はまた見そうになった。
「見んな」
「まだ何も」
「顔が見てる」
「顔って便利だな」
「朝比奈がわかりやすいだけ」
黒瀬はクッションを膝に乗せ、パーカーの袖を指でいじった。
「……これ、あったかい」
「ならよかった」
「ちょっと大きい」
「そりゃ俺のだから」
「いちいち言うな」
「悪い」
「ほんと悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「またそれ」
黒瀬は少し笑った。
その笑いが、パーカーの袖に半分隠れているせいで、いつもより柔らかく見えた。
湊はカフェラテを渡す。
「はい」
「ん」
黒瀬は両手でカップを受け取った。
長い袖の先から指だけが出て、カップを包む。湯気が顔の近くまで上がる。
「……何か、今日変」
黒瀬がぽつりと言った。
「雨だから?」
「それもあるけど」
「パーカー?」
「言うな」
「じゃあ言わない」
「……でも、まあ、それもある」
黒瀬はカップを見つめたまま、小さく続けた。
「昨日は傘で、今日は服でしょ」
「うん」
「なんか、借りてばっか」
「別にいいだろ」
「よくない。借りっぱなし嫌」
「また洗って返す?」
「返すし」
「別に洗わなくていいって」
「洗う」
即答だった。
こういうところは本当に黒瀬らしい。
借りたものは、ちゃんと返したい。
消しゴムも、焼きそばパンも、傘のお礼も、本も、そして今度はパーカーも。
形にしないと落ち着かないのだろう。
「黒瀬って、そういうの律儀だよな」
「何が」
「借りたもの返すの」
「普通でしょ」
「普通だけど、黒瀬はちゃんと気にする」
「……気になるだけ」
黒瀬はクッションに頬を乗せた。
「返さないと、残る感じするし」
「昨日も似たこと言ってたな」
「うん。傘も、今日のこれも」
「お礼で返せてると思うけど」
「足りない時ある」
「何が?」
「気分的に」
その“気分的に”が、妙に黒瀬らしくて、湊は少し笑った。
「笑うな」
「ごめん」
「別に笑うとこじゃないし」
「いや、黒瀬らしいなって」
「……そういうの、また普通に言う」
黒瀬は少しだけ顔を背けた。
でも、嫌そうではなかった。
しばらく二人で動画を見ることになった。
今日は本ではなく、軽い動画。
ただ、黒瀬の姿がいつもと違うせいで、湊は何度も意識を持っていかれた。
パーカーの袖が余っている。
座った時に裾が少し広がる。
カップを持つ手元が隠れる。
髪の毛先がまだ少し湿っていて、首元に触れている。
何も特別なことは起きていない。
それでも、いつものソファの距離が少し違う。
「……朝比奈」
「ん?」
「今日、動画見てる?」
「見てる」
「嘘」
「半分」
「またそれ」
黒瀬はクッションを少し抱え直した。
「そんなに変?」
「変っていうか」
「うん」
「似合ってる」
「もう言った!」
「二回目」
「回数数えるな!」
黒瀬は真っ赤になって、クッションを顔の前に持ってきた。
そのクッション越しに、小さな声が聞こえる。
「……でも、変じゃないならいい」
「変じゃない」
「それでいい」
雨はまだ窓の外で降っていた。
昨日は傘の内側に閉じ込められていた雨音が、今日は部屋の外にある。
そのぶん、部屋の中は少しあたたかかった。
帰る時間が近づくと、黒瀬は洗面所でカーディガンの状態を確認した。
袖はまだ少し湿っていた。
「これ、まだ無理かも」
「そのまま着て帰ると寒いだろ」
「でもパーカー借りたまま帰るのも」
「いいよ。明日で」
「……いいの?」
「うん」
「ほんと?」
「うん」
黒瀬は少し迷ったあと、パーカーの袖を握った。
「じゃあ、借りる」
「うん」
「絶対洗って返す」
「わかった」
「あと、明日教室で変な顔したら怒る」
「難しいな」
「普通の顔して」
「努力する」
「努力じゃなくて、やって」
黒瀬はそう言ってから、少しだけ笑った。
玄関で靴を履く時、彼女は湊のパーカーを着たままだった。
制服の上から大きめのパーカー。
袖の余り。
少し濡れた髪。
夜の雨の中へ帰っていくには、少し危なっかしくて、少し目が離せない格好だった。
「気をつけて」
湊が言うと、黒瀬はいつものように少しむくれた。
「親か」
「今日は本当に寒そうだから」
「……うん」
素直に頷いた。
ドアの外へ出る前に、黒瀬はふと振り返る。
「朝比奈」
「何?」
「これ、あったかい」
「そっか」
「……ありがと」
それだけ言って、黒瀬はすぐ顔を逸らした。
ドアが閉まる。
湊はしばらく玄関に立ったままだった。
雨に濡れた袖を乾かすだけ。
ただそれだけのはずだった。
けれど、湊のパーカーを着た黒瀬の姿は、たぶんしばらく頭から離れない。




