ep.74 相合い傘は、思ったより教室に残る
翌朝、雨は上がっていた。
昨日あれだけ強く降っていたのが嘘みたいに、空は薄く晴れている。道路の端にはまだ水たまりが残っていて、車が通るたびに細い水音がした。校門の横の植え込みも濡れていて、朝の光を受けた葉がやけに鮮やかに見える。
けれど、朝比奈湊の中には、昨日の雨音がまだ残っていた。
折りたたみ傘の内側で響いていた音。
隣にいた黒瀬琉衣奈の髪の匂い。
肩が触れそうになる距離。
風で傘があおられた時、黒瀬が一瞬だけ湊の袖を掴んだ感触。
――相合い傘じゃなくて緊急避難だから。
昨夜のメッセージまで含めて、全部がしつこく頭に残っている。
だから、教室のドアを開ける前から少し嫌な予感はあった。
こういう時の教室は、だいたい何かを拾う。
ドアを開ける。
いつもの朝のざわめき。
机を動かす音。
窓を開ける音。
昨日の雨で濡れた傘を乾かすために、何人かが教室の後ろに傘を立てかけている。
窓際に黒瀬はいた。
茶髪はいつも通り整っている。制服もいつも通り少し着崩している。けれど、湊が入ってきた瞬間、黒瀬の視線は少しだけ跳ねた。
目が合う。
一秒。
いや、昨日より少し短い。
その短さだけで、黒瀬が昨日のことをかなり意識しているのがわかった。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶は普通。
でも、黒瀬はすぐにスマホへ視線を落とした。
逃げた、というほどではない。けれど、顔には少しだけ“昨日を思い出すな”と書いてある。
隣の莉子は、もちろん見逃さなかった。
「るいな、今日なんか目そらすの早くない?」
「は? 普通」
「普通じゃないって。昨日なんかあった?」
「何もないし」
「ふーん」
莉子の“ふーん”は危険だ。
黒瀬もそれをわかっているのか、露骨に眉を寄せる。
「何その顔」
「いや、昨日雨すごかったじゃん」
「雨が何」
「るいな、結局どう帰ったの?」
来た。
湊は自分の席へ鞄を置きながら、聞こえないふりをした。
聞こえないふりは、最近かなり上達している。上達したくはなかったが、必要だった。
黒瀬はスマホをいじる指を止めずに答える。
「普通に」
「普通にって?」
「駅まで」
「一人で?」
「……一人」
ほんの少しだけ間があった。
莉子がにやりとする。
「へえ」
「何」
「いや、昨日さ、あたし先に帰ったじゃん」
「うん」
「るいな、傘なかったよね?」
「……あったし」
「家に?」
「莉子」
黒瀬の声が低くなった。
莉子は笑いながら、両手を軽く上げる。
「はいはい。これ以上は朝からやめとく」
「最初からやめて」
「でも、昨日のるいな、ちょっと機嫌よかった気がするんだよね」
「してない」
「髪ちょっと濡れてたのに?」
「雨だったから」
「それはそう」
莉子はそこまで言って、ちらっと湊を見た。
湊は机の中に教科書をしまうふりを続けた。
絶対に反応してはいけない。
黒瀬もそれに気づいているのか、さらにスマホへ顔を近づけた。
その耳が、ほんの少し赤い。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声が横から届いた。
白瀬栞だった。
「おはよう」
栞はいつものように落ち着いた顔で立っていた。けれど、視線だけは一瞬、黒瀬の方へ向く。
「昨日は雨、大丈夫でしたか?」
普通の質問。
普通すぎて、少し怖い。
「まあ、折りたたみあったし」
「そうですか」
栞は少しだけ頷いた。
「黒瀬さんも、無事に帰れたようでよかったです」
その言葉に、窓際の黒瀬がぴくりと反応した。
湊も反応しそうになった。
栞は深追いしない。
ただ、わかっている。
その感じが、いつもの栞だった。
一限前、栞は湊の斜め前の席に座った。
席替え以降、前ほど真ん前ではないが、それでも話しやすい位置だ。彼女はノートを開きながら、小さな声で言った。
「昨日、傘でしたか?」
湊は観念して頷いた。
「駅まで」
「そうですか」
「……何でわかった?」
「黒瀬さんが、昨日より少し柔らかい顔をしていたので」
「柔らかい?」
「はい。あと、莉子さんに聞かれた時の否定が少し弱かったです」
そこまで見ているのかと思う。
いや、今さら驚くことでもない。
「白瀬さん、ほんと何でも見えるな」
「何でもではありません」
「だいたい見えてる」
「だいたいは、見えてしまいます」
栞は少しだけ困ったように笑った。
それから、声を落とす。
「黒瀬さん、嬉しかったんだと思います」
湊は一瞬、窓際を見た。
黒瀬は莉子と話している。
でも、さっきより少しだけ落ち着かない。
「そうかな」
「はい」
「でも、本人は緊急避難って言ってた」
「それも、黒瀬さんらしいですね」
栞は静かに笑った。
その笑い方には、からかいではなく、少しだけ温かいものがあった。
昼休み。
雨は完全に止み、窓の外には薄い日が差していた。
校庭の端に水たまりが残っている。体育館へ向かう生徒たちが、それを避けながら歩いていた。
湊が購買のパンを開けようとした時、黒瀬が来た。
今日は手ぶらだった。
いや、手ぶらというより、用事を持ってこなかった。
それでも来た。
最近の黒瀬は、用事がなくても来ることが増えている。
そのことにクラスの何人かはもう慣れてきているようで、露骨に見たりはしない。
ただ、莉子だけは遠くから面白そうに見ていた。
「朝比奈」
「何?」
黒瀬は少しだけ視線を横に逃がした。
「昨日の傘」
「ああ」
「ありがと」
短い。
でも、教室で言った。
湊は少しだけ驚いた。
黒瀬はすぐに付け足す。
「別に、相合い傘とかじゃないし。緊急避難だから」
「はいはい、緊急避難」
「その言い方むかつく」
「昨日も言われたな」
「今日も言うし」
黒瀬は唇を尖らせる。
でも、声は弱い。
本気で怒っていない。
湊は少しだけ笑いそうになって、こらえた。
「駅までだったしな」
「そう。駅まで」
「濡れなかった?」
「ちょっとだけ」
「肩?」
「……髪」
黒瀬はそう言って、髪の毛先を指で軽くいじった。
昨日、傘の中で湊の袖に触れた髪。
それを思い出してしまい、湊は一瞬だけ言葉に詰まる。
黒瀬がすぐ気づいた。
「今、思い出したでしょ」
「何を」
「傘の中」
「……まあ」
「認めるな」
「いや、嘘ついてもしょうがないだろ」
「そういうとこ」
黒瀬は顔を赤くして、少しだけ湊の机から離れた。
そこへ、最悪のタイミングで莉子の声が飛んできた。
「緊急避難ねー」
黒瀬が固まる。
湊も固まる。
莉子はパンを片手に、にやにやしていた。
「聞こえてたのかよ」
湊が思わず言うと、莉子は肩をすくめる。
「聞こえたの。るいなの声、意外と通るし」
「莉子!」
「はいはい、ごめん。でもよかったじゃん。緊急避難できて」
「その言い方やめろし!」
黒瀬は完全に赤くなっていた。
その様子を見て、教室の数人が少し笑う。
ただ、からかいというより、いつもの莉子と黒瀬のやり取りとして流れている。
それが救いだった。
栞は近くでその様子を見ていた。
微笑んでいる。
でも、その笑みは少しだけ複雑だった。
黒瀬はそれに気づいたのか、少しだけ咳払いした。
「……白瀬」
「はい」
「昨日のこと、深読み禁止」
栞は瞬きをしたあと、静かに頷いた。
「わかりました」
「早」
「でも、黒瀬さんが無事に帰れてよかったです」
「そういうのは……まあ、いい」
黒瀬は視線を逸らした。
栞が少し笑う。
「では、そこだけにしておきます」
「うん」
それだけの会話。
けれど、少し前なら成立しなかった気がした。
放課後。
黒瀬は帰り支度をしながら、何度か窓の外を見ていた。
雨は降っていない。
今日は傘の出番はない。
湊が鞄を持って立ち上がると、黒瀬が近づいてきた。
「朝比奈」
「何?」
「今日、傘いらないね」
「そうだな」
「……昨日だけだから」
「何が」
「緊急避難」
「わかってる」
「ほんと?」
「うん」
黒瀬は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、変に思い出すな」
「無理だろ」
「何で」
「覚えてるから」
言ってから、少しだけ踏み込みすぎた気がした。
黒瀬も一瞬、固まる。
「……そういうの、昼に言うなって」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ、あたしの」
いつものやり取り。
けれど、黒瀬の頬は少し赤いままだった。
「今日、行くかは送る」
「わかった」
「たぶん行く」
「たぶん確定待ち」
「それ禁止って言った」
「まだ禁止だったか」
「ずっと禁止」
黒瀬はむくれた顔で教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『たぶん確定』
すぐ既読。
『禁止』
『カフェラテ?』
『当然』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように立っていた。
雨は降っていないのに、湊は一瞬、昨日の傘の下を思い出してしまった。
黒瀬も同じだったのか、目が合った瞬間に少しだけむくれる。
「……今、思い出したでしょ」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「顔か」
「顔」
黒瀬は靴を脱ぎながら言う。
「ほんと、昨日のこと引きずりすぎ」
「黒瀬もだろ」
「……半分」
「半分なんだ」
「半分は、莉子がうざかっただけ」
「残り半分は?」
「言わない」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座った。
湊がカフェラテを持って戻ると、彼女はクッションを抱えて、少しだけ視線を落としていた。
「今日、教室でありがとって言えたな」
湊が言うと、黒瀬は小さく頷く。
「言わないと、なんか残るし」
「残る?」
「うん。借りっぱなしみたいな感じ」
傘に入っただけなのに。
黒瀬にとっては、それも何かを借りたようなものだったのかもしれない。
「返せた?」
「半分」
「また半分」
「だって、傘は返せないじゃん。借りたわけじゃないし」
「うん」
「だから、お礼だけ」
「十分だろ」
「……ならいい」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
それから、ぽつりと言う。
「昨日の傘、ちょっと変だった」
「変?」
「雨の音で、外なのに外じゃない感じ」
湊は少し驚いた。
同じようなことを思っていたからだ。
「わかる」
「わかるんだ」
「うん。傘の中だけ、少し別だった」
黒瀬は目を逸らした。
「そういうの、言葉にするなって」
「悪い」
「でも、まあ……そう」
黒瀬はクッションに顎を乗せる。
「ちょっとだけ、嫌じゃなかった」
小さな声だった。
湊はすぐには返せなかった。
返すと、きっと黒瀬は逃げる。
だから、少しだけ間を置いてから言った。
「俺も」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
「……最低」
「何で」
「そういう返し、ずるい」
「でも本当だし」
「本当なら余計ずるい」
黒瀬はそう言って、カフェラテをもう一口飲んだ。
雨の日の相合い傘は、思ったより教室に残った。
そして夜の部屋にも、まだ少しだけ雨音の余韻を残していた。




