ep.73 雨予報の日、ギャルは傘を持っているふりをする
朝から、空が低かった。
駅へ向かう道の上には、まだ雨粒は落ちていない。けれど、雲の色は完全に降る気だった。灰色というより、もっと湿った色。空気も重い。制服の袖に、見えない水分がまとわりつくような朝だった。
朝比奈湊は玄関を出る前に、鞄の中をもう一度確認した。
折りたたみ傘。
ちゃんと入っている。
天気予報では、午後から本降りになると言っていた。朝のニュース番組の気象予報士が、妙に真剣な顔で「帰宅時間帯は強く降るところも」と言っていたので、さすがに無視できなかった。
学校へ着くころには、教室の窓も薄暗かった。
いつものざわめきの中に、どこか雨待ちの落ち着かなさが混じっている。誰かが「今日、部活外練無理じゃね?」と言い、別の誰かが「傘忘れた」とうめいている。
窓際の席には、黒瀬琉衣奈がいた。
茶髪をいつも通りに整えて、制服も少しだけ着崩している。日焼けした肌に、薄いリップの色がよく映える。朝の曇天なんて関係ないみたいな顔をしているのに、どこか少しだけ気怠げだった。
湊が教室に入ると、黒瀬はすぐこちらを見た。
「……おはよ」
「おはよう」
それは、もうずいぶん自然になった挨拶だった。
自然になった、と思えること自体が、少し前なら考えられなかったけれど。
隣の藤堂莉子がにやっと笑う。
「るいな、今日も言えたね」
「うざ」
「はいはい、朝の成長記録終了でーす」
「記録すんな」
黒瀬が短く返す。
その声はいつも通りだった。
ただ、莉子がふと思い出したように窓の外を見た。
「そういえば、今日雨やばいらしいよ。るいな、傘持ってきた?」
黒瀬の動きが、ほんの少しだけ止まった。
本当に、一拍。
たぶん、普通なら気づかない。
でも、湊には見えた。
そして、たぶん白瀬栞にも。
「……持ってるし」
黒瀬はスマホを見たまま答えた。
莉子が目を細める。
「ほんとに?」
「ほんと」
「どこに?」
「鞄」
「へえ」
「何その顔」
「いや、るいなってそういう時、だいたい忘れてるから」
「忘れてないし」
黒瀬はそう言って、少しだけ顔を背けた。
その視線が、窓ではなく机の端へ逃げる。
嘘だ。
湊はそう思った。
黒瀬は傘を持っていない。
断言できるほどの証拠はない。けれど、最近の黒瀬は、嘘をつく時にわずかに目が横へ逃げる。本人はたぶん気づいていない。気づいていないから、直せない。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声がして、湊は振り向いた。
白瀬栞が立っていた。
「おはよう」
栞はいつものように落ち着いている。メガネの奥の目は、もう黒瀬のほうを見ていた。
「今日、雨が強くなるそうですね」
「らしいな」
「朝比奈くんは、傘を?」
「一応、折りたたみ」
「さすがですね」
「いや、普通だろ」
「その普通ができない人もいますから」
栞はそこで、ほんの少しだけ窓際を見る。
湊もつられて見る。
黒瀬は莉子と話しているふりをしているが、明らかにこちらの会話も拾っている。
栞が小さな声で言った。
「黒瀬さん、たぶん傘を持っていません」
「だよな」
「はい。持っている時の顔ではありませんでした」
「そこまでわかるのか」
「最近、少しだけ」
栞はそう言って、自分でも少し困ったように笑った。
その笑い方が、妙に栞らしかった。
昼休みになっても、雨はまだ降っていなかった。
けれど空はさらに低くなっていた。窓の外の校庭は暗く、風が吹くたびに木の葉が裏返る。放課後まで持つかどうか、かなり怪しい。
黒瀬はあくまで平然としていた。
莉子に「ほんとに傘ある?」と何度か聞かれても、「しつこい」「あるって言ってるし」で押し切っている。
でも、湊は気になっていた。
放課後。
チャイムが鳴った少しあと、雨は本格的に降り始めた。
最初は窓を細かく叩く程度だったのに、帰りのホームルームが終わるころには、校舎の外からはっきり雨音が聞こえていた。
「うわ、終わった」
「傘あるやつ勝ち組じゃん」
「コンビニまで走るかー」
教室が少しざわつく。
黒瀬はスマホを見ながら、何でもない顔をしていた。
だが、帰り支度の手が少し遅い。
莉子が鞄を肩にかけながら言った。
「るいな、あたし今日ちょっと用事あるから先行くね。お母さん迎え来てるっぽい」
「ん。じゃあね」
「傘、ほんとにある?」
「あるってば」
「ないなら朝比奈くんに借りなよ」
「は?」
黒瀬の声が跳ねた。
湊まで少し固まる。
莉子は、わざとらしく何でもない顔をした。
「いや、折りたたみ持ってそうじゃん」
「何で朝比奈限定なの」
「持ってそうだから」
「理由雑」
「雑でーす。じゃ、また明日」
莉子は笑って教室を出ていった。
黒瀬はしばらくその背中を睨んでいたが、すぐに視線を逸らした。
下駄箱へ向かう廊下は、湿った空気で少し冷えていた。
昇降口の外では、雨がかなり強くなっている。傘を差した生徒たちが次々に門のほうへ向かっていく。傘を忘れたらしい男子が、鞄を頭に乗せて走っている。
黒瀬は下駄箱の前で立ち止まっていた。
ローファーに履き替えたまま、外を見ている。
鞄から傘を出す気配はない。
湊は少し離れたところで、折りたたみ傘を取り出した。
開く前に、黒瀬へ声をかける。
「黒瀬」
「……何」
「傘、持ってないだろ」
黒瀬の肩がわずかに動いた。
「持ってるし」
「じゃあ出せば」
「……」
沈黙。
強い雨音だけが、その間を埋めた。
黒瀬は顔を逸らし、小さく言う。
「家にある」
「それは持ってるって言わない」
「うるさい」
湊は折りたたみ傘を開いた。
それほど大きくない。二人で入るには、正直ぎりぎりだ。
けれど駅までなら行ける。
「駅まで入るか?」
黒瀬がこちらを見る。
目が大きい。
驚きと、迷いと、少しだけ期待が混ざった顔だった。
「……それ」
「うん」
「相合い傘じゃん」
「言い方」
「言い方じゃなくて、事実だし」
「じゃあ緊急避難」
「それ、前も使った気がする」
「便利だから」
黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
でも、外を見た。
雨は弱くなる気配がない。
しばらくして、黒瀬は小さく息を吐いた。
「……駅まで」
「うん」
「変な距離取ったら濡れるから」
「傘が小さいだけだろ」
「傘のせいにすんな」
そう言って、黒瀬は傘の下へ入ってきた。
近い。
思ったより近い。
肩が触れそうになる。いや、歩き始めたらたぶん触れる。
黒瀬もそれに気づいたのか、少しだけ体を固くした。
「……近い」
「傘が小さいんだよ」
「だから傘のせいにすんなって」
昇降口から出ると、雨音が一気に近くなった。
アスファルトに跳ねる水。
傘の上を叩く音。
濡れた土の匂い。
二人で一つの傘に入って歩く道は、いつもの通学路なのに、全然違って見えた。
黒瀬は少しだけ内側に寄る。
髪の先が湊の袖に触れる。
それだけで、湊の意識がそこに集中する。
「……見んな」
「見てない」
「見てた」
「今のは雨を見てた」
「下手すぎ」
黒瀬はそう言いながら、傘の内側で少しだけ笑った。
その笑い声は、雨音に紛れて、外にはほとんど届かない。
二人だけに聞こえるくらいの音だった。
校門を出るころ、風が吹いた。
傘が少しあおられる。
黒瀬が思わず湊の袖を掴んだ。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
けれど、指先の感触は残った。
「……今のなし」
「何も言ってない」
「言う前に言った」
「早いな」
「うるさい」
黒瀬はすぐに手を離した。
けれど、そのあと少しだけ、前より近い位置を歩いた。
駅までの道は、普段より短く感じた。
傘の中では、会話が途切れてもあまり気まずくなかった。雨音があるからだ。沈黙を雨が埋めてくれる。
駅のロータリーが見えてくると、黒瀬がぽつりと言った。
「……ありがと」
「うん」
「今日のは、ほんとに助かった」
「珍しく素直だな」
「そういうこと言うから、素直に言いたくなくなる」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「また使った」
黒瀬は少しだけ笑った。
駅の屋根の下に入ると、傘を閉じる。
その瞬間、二人の距離が急に戻った。
さっきまで近かった分、少し離れただけで変な感じがする。
黒瀬も同じことを思ったのか、視線を落とした。
「……じゃ」
「うん」
「帰ったら、送る」
「わかった」
「あと」
「ん?」
「今日のこと、莉子に言ったら怒る」
「言わないよ」
「白瀬にも」
「言わない」
「……でも、聞かれたら?」
「緊急避難って言う」
黒瀬は一瞬だけ固まって、それから小さく笑った。
「それでいいし」
改札へ向かう黒瀬の背中を見送りながら、湊は閉じた傘を持ち直した。
まだ傘の内側に、さっきの距離が残っている気がした。
スマホが震えたのは、それから少ししてからだった。
『電車乗った』
湊は返信する。
『気をつけて』
すぐに返ってきた。
『親か』
いつものやり取り。
そのあと、少し間を置いて、もう一通。
『傘、ありがと』
湊は画面を見て、少しだけ笑った。
『どういたしまして』
既読。
今度は少し長く間が空いた。
そして。
『相合い傘じゃなくて緊急避難だから』
湊は、駅のホームで一人笑いそうになった。
『はいはい、緊急避難』
『その言い方むかつく』
雨はまだ降っている。
けれど、その日の帰り道は、少しだけ明るく感じた。




