表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

74/164

ep.73 雨予報の日、ギャルは傘を持っているふりをする

 朝から、空が低かった。


 駅へ向かう道の上には、まだ雨粒は落ちていない。けれど、雲の色は完全に降る気だった。灰色というより、もっと湿った色。空気も重い。制服の袖に、見えない水分がまとわりつくような朝だった。


 朝比奈湊は玄関を出る前に、鞄の中をもう一度確認した。


 折りたたみ傘。


 ちゃんと入っている。


 天気予報では、午後から本降りになると言っていた。朝のニュース番組の気象予報士が、妙に真剣な顔で「帰宅時間帯は強く降るところも」と言っていたので、さすがに無視できなかった。


 学校へ着くころには、教室の窓も薄暗かった。


 いつものざわめきの中に、どこか雨待ちの落ち着かなさが混じっている。誰かが「今日、部活外練無理じゃね?」と言い、別の誰かが「傘忘れた」とうめいている。


 窓際の席には、黒瀬琉衣奈がいた。


 茶髪をいつも通りに整えて、制服も少しだけ着崩している。日焼けした肌に、薄いリップの色がよく映える。朝の曇天なんて関係ないみたいな顔をしているのに、どこか少しだけ気怠げだった。


 湊が教室に入ると、黒瀬はすぐこちらを見た。


「……おはよ」


「おはよう」


 それは、もうずいぶん自然になった挨拶だった。


 自然になった、と思えること自体が、少し前なら考えられなかったけれど。


 隣の藤堂莉子がにやっと笑う。


「るいな、今日も言えたね」


「うざ」


「はいはい、朝の成長記録終了でーす」


「記録すんな」


 黒瀬が短く返す。


 その声はいつも通りだった。


 ただ、莉子がふと思い出したように窓の外を見た。


「そういえば、今日雨やばいらしいよ。るいな、傘持ってきた?」


 黒瀬の動きが、ほんの少しだけ止まった。


 本当に、一拍。


 たぶん、普通なら気づかない。


 でも、湊には見えた。


 そして、たぶん白瀬栞にも。


「……持ってるし」


 黒瀬はスマホを見たまま答えた。


 莉子が目を細める。


「ほんとに?」


「ほんと」


「どこに?」


「鞄」


「へえ」


「何その顔」


「いや、るいなってそういう時、だいたい忘れてるから」


「忘れてないし」


 黒瀬はそう言って、少しだけ顔を背けた。


 その視線が、窓ではなく机の端へ逃げる。


 嘘だ。


 湊はそう思った。


 黒瀬は傘を持っていない。


 断言できるほどの証拠はない。けれど、最近の黒瀬は、嘘をつく時にわずかに目が横へ逃げる。本人はたぶん気づいていない。気づいていないから、直せない。


「朝比奈くん、おはようございます」


 静かな声がして、湊は振り向いた。


 白瀬栞が立っていた。


「おはよう」


 栞はいつものように落ち着いている。メガネの奥の目は、もう黒瀬のほうを見ていた。


「今日、雨が強くなるそうですね」


「らしいな」


「朝比奈くんは、傘を?」


「一応、折りたたみ」


「さすがですね」


「いや、普通だろ」


「その普通ができない人もいますから」


 栞はそこで、ほんの少しだけ窓際を見る。


 湊もつられて見る。


 黒瀬は莉子と話しているふりをしているが、明らかにこちらの会話も拾っている。


 栞が小さな声で言った。


「黒瀬さん、たぶん傘を持っていません」


「だよな」


「はい。持っている時の顔ではありませんでした」


「そこまでわかるのか」


「最近、少しだけ」


 栞はそう言って、自分でも少し困ったように笑った。


 その笑い方が、妙に栞らしかった。


 昼休みになっても、雨はまだ降っていなかった。


 けれど空はさらに低くなっていた。窓の外の校庭は暗く、風が吹くたびに木の葉が裏返る。放課後まで持つかどうか、かなり怪しい。


 黒瀬はあくまで平然としていた。


 莉子に「ほんとに傘ある?」と何度か聞かれても、「しつこい」「あるって言ってるし」で押し切っている。


 でも、湊は気になっていた。


 放課後。


 チャイムが鳴った少しあと、雨は本格的に降り始めた。


 最初は窓を細かく叩く程度だったのに、帰りのホームルームが終わるころには、校舎の外からはっきり雨音が聞こえていた。


「うわ、終わった」


「傘あるやつ勝ち組じゃん」


「コンビニまで走るかー」


 教室が少しざわつく。


 黒瀬はスマホを見ながら、何でもない顔をしていた。


 だが、帰り支度の手が少し遅い。


 莉子が鞄を肩にかけながら言った。


「るいな、あたし今日ちょっと用事あるから先行くね。お母さん迎え来てるっぽい」


「ん。じゃあね」


「傘、ほんとにある?」


「あるってば」


「ないなら朝比奈くんに借りなよ」


「は?」


 黒瀬の声が跳ねた。


 湊まで少し固まる。


 莉子は、わざとらしく何でもない顔をした。


「いや、折りたたみ持ってそうじゃん」


「何で朝比奈限定なの」


「持ってそうだから」


「理由雑」


「雑でーす。じゃ、また明日」


 莉子は笑って教室を出ていった。


 黒瀬はしばらくその背中を睨んでいたが、すぐに視線を逸らした。


 下駄箱へ向かう廊下は、湿った空気で少し冷えていた。


 昇降口の外では、雨がかなり強くなっている。傘を差した生徒たちが次々に門のほうへ向かっていく。傘を忘れたらしい男子が、鞄を頭に乗せて走っている。


 黒瀬は下駄箱の前で立ち止まっていた。


 ローファーに履き替えたまま、外を見ている。


 鞄から傘を出す気配はない。


 湊は少し離れたところで、折りたたみ傘を取り出した。


 開く前に、黒瀬へ声をかける。


「黒瀬」


「……何」


「傘、持ってないだろ」


 黒瀬の肩がわずかに動いた。


「持ってるし」


「じゃあ出せば」


「……」


 沈黙。


 強い雨音だけが、その間を埋めた。


 黒瀬は顔を逸らし、小さく言う。


「家にある」


「それは持ってるって言わない」


「うるさい」


 湊は折りたたみ傘を開いた。


 それほど大きくない。二人で入るには、正直ぎりぎりだ。


 けれど駅までなら行ける。


「駅まで入るか?」


 黒瀬がこちらを見る。


 目が大きい。


 驚きと、迷いと、少しだけ期待が混ざった顔だった。


「……それ」


「うん」


「相合い傘じゃん」


「言い方」


「言い方じゃなくて、事実だし」


「じゃあ緊急避難」


「それ、前も使った気がする」


「便利だから」


 黒瀬は少しだけ口を尖らせた。


 でも、外を見た。

 雨は弱くなる気配がない。


 しばらくして、黒瀬は小さく息を吐いた。


「……駅まで」


「うん」


「変な距離取ったら濡れるから」


「傘が小さいだけだろ」


「傘のせいにすんな」


 そう言って、黒瀬は傘の下へ入ってきた。


 近い。


 思ったより近い。


 肩が触れそうになる。いや、歩き始めたらたぶん触れる。


 黒瀬もそれに気づいたのか、少しだけ体を固くした。


「……近い」


「傘が小さいんだよ」


「だから傘のせいにすんなって」


 昇降口から出ると、雨音が一気に近くなった。


 アスファルトに跳ねる水。

 傘の上を叩く音。

 濡れた土の匂い。


 二人で一つの傘に入って歩く道は、いつもの通学路なのに、全然違って見えた。


 黒瀬は少しだけ内側に寄る。


 髪の先が湊の袖に触れる。


 それだけで、湊の意識がそこに集中する。


「……見んな」


「見てない」


「見てた」


「今のは雨を見てた」


「下手すぎ」


 黒瀬はそう言いながら、傘の内側で少しだけ笑った。


 その笑い声は、雨音に紛れて、外にはほとんど届かない。


 二人だけに聞こえるくらいの音だった。


 校門を出るころ、風が吹いた。


 傘が少しあおられる。


 黒瀬が思わず湊の袖を掴んだ。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 けれど、指先の感触は残った。


「……今のなし」


「何も言ってない」


「言う前に言った」


「早いな」


「うるさい」


 黒瀬はすぐに手を離した。


 けれど、そのあと少しだけ、前より近い位置を歩いた。


 駅までの道は、普段より短く感じた。


 傘の中では、会話が途切れてもあまり気まずくなかった。雨音があるからだ。沈黙を雨が埋めてくれる。


 駅のロータリーが見えてくると、黒瀬がぽつりと言った。


「……ありがと」


「うん」


「今日のは、ほんとに助かった」


「珍しく素直だな」


「そういうこと言うから、素直に言いたくなくなる」


「悪い」


「悪いと思ってない」


「半分くらいは」


「また使った」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 駅の屋根の下に入ると、傘を閉じる。


 その瞬間、二人の距離が急に戻った。


 さっきまで近かった分、少し離れただけで変な感じがする。


 黒瀬も同じことを思ったのか、視線を落とした。


「……じゃ」


「うん」


「帰ったら、送る」


「わかった」


「あと」


「ん?」


「今日のこと、莉子に言ったら怒る」


「言わないよ」


「白瀬にも」


「言わない」


「……でも、聞かれたら?」


「緊急避難って言う」


 黒瀬は一瞬だけ固まって、それから小さく笑った。


「それでいいし」


 改札へ向かう黒瀬の背中を見送りながら、湊は閉じた傘を持ち直した。


 まだ傘の内側に、さっきの距離が残っている気がした。


 スマホが震えたのは、それから少ししてからだった。


『電車乗った』


 湊は返信する。


『気をつけて』


 すぐに返ってきた。


『親か』


 いつものやり取り。


 そのあと、少し間を置いて、もう一通。


『傘、ありがと』


 湊は画面を見て、少しだけ笑った。


『どういたしまして』


 既読。


 今度は少し長く間が空いた。


 そして。


『相合い傘じゃなくて緊急避難だから』


 湊は、駅のホームで一人笑いそうになった。


『はいはい、緊急避難』


『その言い方むかつく』


 雨はまだ降っている。


 けれど、その日の帰り道は、少しだけ明るく感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ