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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.72 うっかり出た「好きな相手」は、翌朝の教室でまだ消えていない

 翌朝、朝比奈湊は教室のドアの前で一度だけ立ち止まった。


 理由はわかっている。


 昨夜の黒瀬琉衣奈の一言が、頭から離れなかったからだ。


 ――好きな相手に何か言うより、親友にありがとう言うほうが照れるかも。


 あの瞬間、部屋の空気は明らかに止まった。


 黒瀬はすぐに「今のなし」「一般論」と言い張った。

 クッションに顔を埋めて、耳まで赤くして、湊がそこを拾おうとすると全力で怒った。


 だから湊も、それ以上は踏み込まなかった。


 踏み込まなかったが、忘れられるわけがない。


 好きな相手。


 その言葉を、黒瀬が自分の口で言った。


 たとえ一般論だとしても。

 たとえ勢いだとしても。

 たとえ本人が「なし」と言ったとしても。


 なかったことにはならない。


「……普通にしろ」


 湊は小さく自分に言い聞かせ、教室のドアを開けた。


 いつもの朝のざわめき。


 席替え後の配置にも、クラスはもうだいぶ慣れてきている。机の並びも、誰がどこに座っているかも、昨日より少しだけ自然に見えた。


 黒瀬は斜め後ろの席にいた。


 机の上にはスマホ。

 文庫本。

 例のしおり。


 そして、黒瀬本人はというと――明らかにこちらを見ないようにしていた。


 湊が席に近づく。


 黒瀬はスマホを見ているふりをする。


 近い。


 だから余計に、見ないふりがわかる。


 湊が席に着くと、ようやく黒瀬が小さく言った。


「……おはよ」


「おはよう」


 その声が少し硬い。


 いつもの朝の挨拶なのに、昨夜の言葉が間に挟まっている。


 湊はなるべく普通に鞄を置いた。


 すると、斜め後ろから低い声が来る。


「……昨日のこと、忘れて」


 いきなりだった。


 湊は振り向きすぎないように、少しだけ首を傾ける。


「どれ?」


「それがもう忘れてないじゃん」


「いや、どれのことか確認しただけで」


「好きとか言ったやつ」


 自分で言って、黒瀬が固まった。


 湊も固まった。


 朝の教室で、何を言っているのか。


 幸い、周りはまだざわついている。

 莉子は窓際で別の女子と話しているし、白瀬栞もまだ自分の席で鞄を整理している。


 聞かれてはいない。


 たぶん。


「……今のもなし」


 黒瀬が小さく言った。


「今日、なし多いな」


「朝比奈が忘れてないのが悪い」


「無理だろ」


「無理じゃなくて」


「いや、さすがに無理」


 湊がそう言うと、黒瀬は机に額をつけそうな勢いでうつむいた。


「最悪……」


 声が完全に弱い。


 からかうのは簡単だった。


 けれど、湊はしなかった。


 黒瀬が本当に困っているのがわかったからだ。


「……別に、変なふうには受け取ってない」


 湊が言うと、黒瀬は少しだけ顔を上げた。


「ほんと?」


「うん」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶんやめて」


「悪い。ほんと」


 黒瀬はまだ疑うようにこちらを見ていたが、少しだけ肩の力を抜いた。


「一般論だから」


「うん」


「親友へのありがとうは照れるって話」


「うん」


「それだけ」


「わかった」


 湊が頷くと、黒瀬はようやくスマホを手に取った。


 ただ、画面はほとんど見ていない。


 耳がまだ赤かった。


「朝比奈くん、おはようございます」


 前方から白瀬栞がやってきた。


 湊の心臓が一瞬跳ねる。


 栞はいつもの落ち着いた顔だった。

 けれど、黒瀬の様子を一目見て、ほんの少しだけ首をかしげる。


「黒瀬さん、今日は朝から少し赤いですね」


「白瀬、朝からそれ言う?」


「すみません。見えたので」


「見えなくていい」


 黒瀬が文句を言う。


 けれど声は昨日よりずっと弱い。


 栞は少しだけ不思議そうに湊を見る。


「何かありました?」


「何もない」


 黒瀬が即答した。


 早すぎる。


 湊は心の中で頭を抱えた。


 栞はその即答を聞いて、少しだけ目を細める。


「そうですか」


 それ以上聞かなかった。


 聞かなかったが、何かは察した顔だった。


 やっぱり強い。


 一限目。


 今日は黒瀬からメモも消しゴムも来なかった。


 咳払いもない。


 ただ、斜め後ろから時々ため息が聞こえる。


 湊は黒板を見ながら、なるべく背中を普通に保とうとした。

 昨日よりはうまくできていると思う。


 ただ、背中が普通でも、頭の中は普通ではなかった。


 好きな相手。


 その言葉だけが何度も戻ってくる。


 授業が終わると、黒瀬がすぐ小声で言った。


「背中、今日はまし」


「その採点まだ続くのか」


「続く」


「厳しいな」


「昨日より変じゃなかった」


「ありがとう」


「……それ、今言う?」


「背中褒められたから」


「褒めてないし」


 黒瀬は少しだけ口を尖らせる。


 けれど、さっきよりは落ち着いていた。


 莉子がそこへ来る。


「るいな、今日なんか朝から妙に静かじゃない?」


「普通」


「普通じゃないね。昨日あたしにありがとって言って燃え尽きた?」


「燃え尽きてない」


「え、でもあれ可愛かったよ」


「蒸し返すな!」


 黒瀬が顔を赤くする。


 莉子は楽しそうに笑うが、今日はそれ以上深追いしなかった。


 昨日の“ありがとう”を、茶化しすぎないようにしているのだろう。


「まあでも、ありがとね」


 莉子が軽く言う。


 黒瀬は一瞬だけ止まった。


「……何が」


「昨日言ってくれて」


「……別に」


「別に、じゃないじゃん」


「うるさい」


 黒瀬はそっぽを向いた。


 でも、その顔は少しだけ嬉しそうだった。


 湊はそれを見て、昨日の一言を少しだけ横に置くことができた。


 黒瀬は、今いろいろなものを言葉にしようとしている。


 親友へのありがとう。

 栞への感謝。

 湊への夜のメッセージ。


 その途中で、少し危ない言葉がこぼれることもある。


 それをすぐに拾いすぎると、たぶん黒瀬はまた引っ込んでしまう。


 昼休み。


 今日も自然と四人が近くに集まった。


 湊の横に栞。

 斜め後ろから椅子を少し寄せる黒瀬。

 窓際からやって来る莉子。


 もう、この形もだいぶ見慣れてきた。


「今日はしおり会じゃないの?」


 莉子が言う。


「そんな会はない」


 黒瀬が即答する。


「じゃあ、読書会?」


「それも今日はない」


「じゃあ何会?」


「昼ご飯食べるだけの会」


「普通だ」


「普通でいいし」


 黒瀬はメロンパンを開ける。


 湊は購買のサンドイッチ。

 栞は小さな弁当箱。

 莉子は焼きそばパン。


 焼きそばパンを見た瞬間、黒瀬が少しだけ目を細めた。


「莉子、それわざと?」


「何が?」


「焼きそばパン」


「え、普通に食べたかっただけだけど」


「絶対うそ」


「半分ほんと」


「半分うそじゃん」


 莉子はけらけら笑う。


 黒瀬は呆れたようにため息をついた。


 それでも、前ほど焦らない。


 焼きそばパンも、消しゴムも、しおりも、少しずつ過去の小さな出来事になっている。

 からかわれると照れるけれど、もう完全に隠さなければいけないものではなくなってきているのかもしれない。


 栞が黒瀬のしおりに目を向けた。


「しおり、今日は教科書に挟んでいましたね」


「見てたの?」


「少しだけ」


「白瀬の少しだけは、ほんと信用できない」


「今回は本当に少しだけです」


「でも見てるじゃん」


「はい」


「そこは否定して」


 栞は小さく笑った。


「大事に使ってくれていて、嬉しかったので」


 黒瀬はまた困ったように顔を赤くする。


「そういうの、ほんと普通に言う……」


「すみません」


「謝るの早い」


 莉子が横から言う。


「るいな、もうそのやり取り定番になってるよね」


「莉子まで言うな」


「でも、白瀬さんと普通に話せるようになってよかったじゃん」


「……まあ」


 黒瀬は少しだけ黙ったあと、ぽつりと言う。


「前よりは」


 栞が微笑む。


「私も、前より話しやすいです」


「そういうのもすぐ言う」


「はい」


「そこは認めるんだ」


 黒瀬は呆れたように笑った。


 湊はその会話を聞きながら、少し不思議な気持ちになっていた。


 昨日までは、黒瀬が莉子にありがとうを言うだけで大事件だった。


 今日はその余韻が残りながらも、四人で普通に昼を食べている。


 関係が変わる時は、何か劇的なことが起きるわけではないのかもしれない。


 ただ、昨日言えなかったことが今日少し言えるようになって、今日照れたことが明日には少し日常になる。


 その積み重ねなのだろう。


 放課後。


 黒瀬は帰り支度をしながら、湊の机の横へ来た。


「朝比奈」


「何?」


「今日、朝のやつ」


「うん」


「忘れて」


「また?」


「また」


 黒瀬は少しだけ顔を赤くしている。


「一般論だから」


「わかってる」


「好きとか、そういうの」


 また自分で言ってしまい、黒瀬は口を閉じた。


 湊は今度は笑わなかった。


「無理に消さなくていいんじゃないか」


「……は?」


「いや、言葉自体をなかったことにしなくても、黒瀬が言いたい時に言えばいいし、言いたくないならそのままでいいっていうか」


「何それ」


「返せる時でいい、みたいな」


 黒瀬は一瞬、黙った。


 その言葉は、例の本の中の一文だ。


 黒瀬がしおりを挟んだページ。


「……ずる」


「悪い」


「それ言われると、怒りづらい」


「怒ってもいいけど」


「怒らない」


 黒瀬は少しだけ視線を落とす。


「でも、今はまだ無理」


「うん」


「だから、昨日のは一般論」


「うん」


「でも」


 黒瀬は少しだけ声を小さくした。


「いつか、ちゃんと言うかも」


 湊は息を止めた。


 黒瀬はすぐに顔を逸らす。


「……何をとは言ってない」


「うん」


「絶対勘違いしないで」


「うん」


「でも、忘れなくてもいい」


 それだけ言って、黒瀬は鞄を持ち直した。


「今日、行くかは送る」


「わかった」


「たぶん行く」


「今日は何の反省会?」


「朝のこと」


「忘れろって言ったのに?」


「忘れさせるために行く」


「無理がある」


「うるさい」


 黒瀬はそう言って、少しだけ笑った。


 夜八時半。


 スマホが震える。


『今日、行く。朝の件は一般論』


 湊は返信する。


『了解。カフェラテ?』


『当然』


『忘れなくてもいいって言ってたな』


 既読。


 少し間が空く。


『そこは覚えてていい』


 さらにもう一通。


『でも言うな』


 湊は笑って返信した。


『わかった』


 九時。


 インターホンが鳴る。


 ドアを開けると、黒瀬はいつもより少しだけむくれた顔で立っていた。


「……遅」


「一般論の日、お疲れ」


「それ言うな」


「悪い」


「悪いと思ってない」


「半分くらいは」


「それ、あたしのやつ」


 黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。


 ソファに座ると、今日はクッションを抱える前に、小さく息を吐いた。


「今日、ずっと変だった」


「昨日のこと?」


「うん」


「忘れてって言うわりに、自分で何回も言ってたな」


「だから最悪なの」


 黒瀬はクッションに顔を半分埋める。


「でも、朝比奈が変にからかわなかったから、ちょっと助かった」


「からかったら逃げるだろ」


「逃げる」


 即答だった。


「でも、逃げたくない時もある」


 小さな声。


 湊はカフェラテを置いた。


「そっか」


「うん」


 黒瀬はカップを受け取る。


「好きとか、そういうのはまだ無理」


「うん」


「でも、全部なしにするのも、ちょっと違う気がした」


「うん」


「だから、一般論として保留」


「便利な箱に入れたな」


「保留箱」


「名前つけた」


「気分の問題」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 その笑いに、昼の照れも、朝の混乱も、夜の安心も、全部少しずつ混じっていた。


 うっかり出た「好きな相手」は、翌朝の教室でまだ消えていなかった。


 でも、消えないままでもよかった。


 言葉は、返せる時でいい。


 黒瀬はたぶん、その意味を少しずつ自分のものにし始めている。

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