ep.71 親友へのありがとうは、好きな相手より少しだけ照れくさい
翌朝、黒瀬琉衣奈はいつもより莉子を見ていた。
朝比奈湊は教室に入ってすぐ、それに気づいた。
斜め後ろの席に座る黒瀬は、いつものようにスマホを伏せ、机の上に文庫本を置き、そこに細長く折られたしおりを挟んでいる。
そこまでは昨日と同じだ。
違うのは、視線の向きだった。
黒瀬は湊を見る。
白瀬栞を見る。
そして、窓際の莉子を見る。
しかも莉子を見る時だけ、妙に言葉を探している顔になる。
昨夜、黒瀬は言った。
――莉子にも、そのうち言う。
――最近、空気読んでくれてありがとって。
その“そのうち”が、思ったより早く来ているのかもしれない。
「……おはよ」
黒瀬が小さく言う。
「おはよう」
湊が返すと、黒瀬は少しだけ頷いた。
それから、また莉子のほうを見る。
莉子はまだ気づいていない。スマホを片手に、隣の女子と動画の話をしている。
「今日、言うのか?」
湊が小声で聞くと、黒瀬はすぐ眉を寄せた。
「何を」
「そのうちって言ってたやつ」
「……覚えてなくていいし」
「覚えるだろ」
「夜のこと昼に持ってくるなって」
「最近それ、黒瀬もやってるけどな」
「うるさい」
黒瀬は少しだけ顔を赤くして、文庫本を机の端に寄せた。
その動きが落ち着かない。
「朝比奈くん、おはようございます」
栞が前方から声をかけてきた。
「おはよう」
湊が返すと、栞は黒瀬の様子を一目見て、静かに言った。
「黒瀬さん、今日は莉子さんに何か言いたそうですね」
「白瀬、朝から見抜きすぎ」
黒瀬が即座に反応する。
栞は少しだけ申し訳なさそうにした。
「すみません。視線がいつもよりわかりやすかったので」
「わかりやすいって言わないで」
「では、少しだけ伝わっていました」
「言い換えても同じ」
黒瀬はむくれたように言うが、本気で怒ってはいない。
そのやり取りを聞きつけた莉子が、窓際から顔を出した。
「何? るいな、あたしに言いたいことあるの?」
黒瀬の肩がぴくりと跳ねる。
「ない」
「即答が怪しい」
「ないって」
「えー、なになに。告白?」
「違う!」
教室の何人かが笑った。
黒瀬は真っ赤になって莉子を睨む。
「莉子、朝からほんと黙って」
「はいはい。黙りまーす」
もちろん、莉子は全然黙っていない顔だった。
一限目が始まっても、黒瀬の落ち着かなさは少し残っていた。
今日はメモも消しゴムも飛んでこない。
しおりも教科書に挟まったまま。
ただ、時々斜め後ろから小さなため息が聞こえる。
湊は黒板を見ながら、それを聞いていた。
親友にありがとうを言う。
文字にすれば簡単だ。
でも、黒瀬にとってはたぶんかなり難しい。
湊や栞には、夜や本やしおりという“きっかけ”があった。
けれど莉子は、黒瀬にとってずっと近くにいた友達だ。
近すぎる相手ほど、あらためて礼を言うのは照れくさい。
休み時間になると、莉子が案の定こちらへ来た。
「で、るいな。何?」
「何が」
「あたしに言いたいこと」
「ない」
「まだ言う」
「ないし」
黒瀬は机の上の文庫本を少しだけいじる。
しおりの端が見えた。
莉子はそれに気づいて、少し声をやわらげた。
「しおり、いい感じじゃん」
「……うん」
「白瀬さんに折ってもらったんだっけ?」
「うん」
「大事にしてるね」
からかう声ではなかった。
普通に、友達として言っている声だった。
それが黒瀬には効いたのだろう。
彼女は少しだけ黙ってから、小さく言った。
「……まあ、変な紙だったし」
「変な紙?」
「なんでもない」
「ふーん?」
莉子はにやにやしかけたが、途中でやめた。
そして、軽く黒瀬の机を指で叩く。
「ま、よかったじゃん。白瀬さんとも普通に話せるようになって」
「普通ってほどじゃないし」
「前よりは普通」
「それは……まあ」
黒瀬は否定しきれなかった。
莉子は満足そうに笑う。
「いいことじゃん」
「……うん」
また、素直に頷いた。
でも、ありがとうはまだ出ない。
湊はその横で見ていて、少しだけもどかしくなった。
けれど、口を挟むのは違う気がした。
昼休み。
今日は四人で集まる形になった。
湊の横に栞。
斜め後ろから椅子を寄せる黒瀬。
そして、莉子が「今日は空気読む係じゃなくて食べる係」と言いながら隣へ座った。
「それ、役職なのか」
湊が言うと、莉子は笑う。
「役職。最近あたし、るいな周辺の空気管理してるから」
「してない」
黒瀬が即座に否定する。
「してるって。るいなが暴走しそうな時止めたり、逆に背中押したり」
「頼んでないし」
「頼まれなくてもやるのが親友ってやつでしょ」
軽く言った莉子の言葉に、黒瀬が少しだけ固まった。
栞も、湊も、それに気づいた。
莉子だけが気づいていないふりをして、購買のサンドイッチを開けている。
「……親友って、自分で言う?」
黒瀬が小さく返す。
「言う言う。あたし、そういうの遠慮しないタイプだから」
「知ってる」
「るいなは言わないタイプだもんね」
「……うるさい」
その“うるさい”は、いつもよりずっと弱かった。
栞が静かに紅茶を飲む。
湊はパンを持ったまま、黒瀬を見る。
今だ、と言いたくなった。
でも、言わない。
黒瀬が自分で選ぶタイミングを、待つ。
そういうことを、最近少し覚えた気がした。
黒瀬はメロンパンの袋を握りしめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……莉子」
「ん?」
莉子が顔を上げる。
黒瀬は視線を逸らしたまま言った。
「最近、その……変に空気読んでくれるじゃん」
「変に?」
「変に」
「そこ強調する?」
「だって変だし」
莉子は笑いそうになったが、黒瀬の表情を見て少しだけ黙った。
黒瀬は続ける。
「でも、まあ」
「うん」
「助かってる時もある」
莉子の目が少し丸くなる。
黒瀬は耳まで赤くしながら、メロンパンの袋を見つめていた。
「だから……ありがと」
言った。
ものすごく小さな声だった。
けれど、ちゃんと届いた。
莉子は数秒、何も言わなかった。
そして、急ににやっと笑った。
「え、今の録音しとけばよかった」
「莉子!」
「ごめんごめん! でも今のは無理、かわいすぎ」
「言わなきゃよかった!」
「いやいや、嘘。ありがと、るいな」
莉子は笑いながらも、最後の声だけはちゃんと真面目だった。
「あたしも、るいなのこと見てるのけっこう楽しいし」
「見世物じゃないし」
「見世物じゃないよ。親友だから見てるの」
「またそれ言う」
「何回でも言う」
黒瀬は顔を赤くしたまま、黙ってメロンパンをかじった。
栞が小さく微笑んでいる。
湊も、少しだけ安心した。
ありがとうを言うだけ。
でも、それができたことで、昼休みの空気が少しだけ柔らかくなった。
「黒瀬さん」
栞が言う。
「今の、とてもよかったと思います」
「白瀬、追撃やめて」
「すみません。でも本当に」
「わかったから」
黒瀬は困ったように言いながらも、今度は怒らなかった。
莉子が横から笑う。
「白瀬さん、るいなの扱いだいぶ慣れてきたね」
「そうでしょうか」
「うん。褒めると照れる、でも謝ると突っ込まれる」
「なるほど」
「分析しないで」
黒瀬がむくれる。
その場に、自然な笑いが落ちた。
放課後。
黒瀬は少し疲れた顔で湊の机の横へ来た。
「朝比奈」
「言えたな」
「開幕それ?」
「言いたかった」
「……うん。言えた」
黒瀬は少しだけ視線を落とす。
「莉子、絶対調子乗る」
「乗るだろうな」
「でも、まあ」
「うん」
「言ってよかったかも」
「そっか」
黒瀬は小さく頷いた。
それから、しおりの挟まった文庫本を鞄にしまう。
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く。疲れたし」
「ありがとう言う日は疲れるな」
「ほんとそれ」
黒瀬は少しだけ笑った。
「でも、ちょっと軽くなる」
「ならよかった」
「……うん」
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。莉子に言えた日だから』
湊は返信する。
『お疲れ。カフェラテ?』
『当然』
『莉子さん喜んでたな』
『調子乗ってた』
『でも嬉しそうだった』
少し間が空いた。
『それは、まあ、よかった』
その文を見て、湊は少し笑った。
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように「遅」と言った。
けれど、顔は少しだけすっきりしていた。
「莉子にありがとう言えた日、お疲れ」
「だから読むなって」
「メッセージで来たから」
「言わなくていい」
黒瀬は靴を脱ぎ、ソファへ向かった。
今日は鞄から文庫本を出さなかった。
しおりも出さない。
ただクッションを抱えて、深く息を吐く。
「今日、疲れた」
「だろうな」
「好きな相手に何か言うより、親友にありがとう言うほうが照れるかも」
湊はカフェラテを置く手を止めた。
黒瀬も、自分で言ってから止まった。
部屋が一瞬、静かになる。
「……今のなし」
「無理だろ」
「無理じゃなくて」
「好きな相手って」
「そこ拾うな!」
黒瀬は顔を真っ赤にしてクッションに顔を埋めた。
「言葉の流れ! 一般論!」
「一般論か」
「一般論!」
必死だった。
湊は笑いそうになるのをこらえながら、カフェラテを渡す。
「はい」
「……ありがと」
黒瀬はクッションの陰からカップを受け取った。
そして小さく言う。
「今日は、ありがとう多い」
「いい日だな」
「疲れる日」
「でも軽くなる日?」
黒瀬は少しだけ黙ってから、頷いた。
「……うん。軽くなる日」
親友へのありがとうは、好きな相手より少しだけ照れくさい。
黒瀬がうっかり口にしたその言葉を、湊はしばらく忘れられそうになかった。




