ep.70 ありがとうを言うだけの日に、ギャルは朝から少し忙しい
翌朝、黒瀬琉衣奈は明らかに落ち着かなかった。
朝比奈湊が教室に入った瞬間、それはすぐにわかった。
斜め後ろの席。
机の上には、昨日と同じ文庫本。
その間には、白瀬栞に折ってもらった細長いしおりが挟まっている。
ただ、それだけではない。
黒瀬はいつもより早くスマホを伏せていた。髪もメイクもいつも通りなのに、指先だけが少し忙しい。しおりの端を触っては離し、教科書をずらしては戻し、ちらりと栞の席を見ては目を逸らす。
今日、黒瀬がやろうとしていることは、たぶん一つだ。
白瀬栞に、もう一度ちゃんと礼を言う。
昨夜、湊の部屋で黒瀬は言った。
――明日、白瀬にもう一回ありがとって言う。
あの時は少し誇らしそうだった。
でも朝の教室に来てみると、それが思ったより難しいことに気づいたのだろう。
「……おはよ」
黒瀬が小さく言った。
「おはよう」
湊が返すと、黒瀬は一瞬だけこちらを見て、すぐにしおりへ視線を戻した。
「今日、言うのか?」
湊が小声で聞くと、黒瀬は少しだけ眉を寄せた。
「……何を」
「昨日言ってたやつ」
「言うし」
「緊張してる?」
「してない」
即答だった。
もちろん、している。
湊が黙っていると、黒瀬は少しだけ唇を尖らせた。
「……タイミング見てるだけ」
「そっか」
「変な顔しないで」
「してない」
「してる」
いつものやり取り。
でも、今日の黒瀬はその後すぐに栞の方を見た。
栞は自分の席で教科書を出していた。こちらに気づいているのかいないのか、まだ顔を上げない。
黒瀬は立ち上がりかけて、やめた。
「今じゃない」
「何も言ってない」
「顔が言ってた」
「俺も顔に出るようになったな」
「前から」
黒瀬はそう言って、少しだけ息を吐いた。
そこへ、莉子がやって来た。
「るいな、朝からしおり見すぎ」
「見てない」
「見てるって。昨日から読書ギャルになってるし」
「その呼び方やめて」
「じゃあ、しおりギャル?」
「もっとやめて」
莉子はけらけら笑った。
それから、黒瀬の机の上の文庫本をちらっと見る。
「それ、白瀬さんに折ってもらったやつ?」
「……うん」
黒瀬は小さく答えた。
湊は少し驚いた。
否定しなかった。
隠さなかった。
莉子も少しだけ目を丸くしたあと、にやっと笑った。
「よかったじゃん」
「うん」
また、素直に頷いた。
黒瀬自身も、自分で頷いたあとに少しだけ驚いた顔をした。
でも、すぐに顔を戻す。
「……あとで、ちゃんと言うし」
「誰に?」
「白瀬に」
「お礼?」
「うん」
「えら」
「子ども扱いすんな」
「いや、普通にえらいって」
莉子の声は、からかい半分、友達としての優しさ半分だった。
黒瀬は照れくさそうに目を逸らす。
「莉子に言われると腹立つ」
「ひど」
そんな会話をしているうちに、栞がこちらへ来た。
「おはようございます、朝比奈くん。黒瀬さん」
いつもの静かな声。
黒瀬が一瞬、背筋を伸ばした。
「……おはよ」
「おはようございます」
栞は微笑む。
そこで少し沈黙ができた。
黒瀬が手元の文庫本を見る。
しおりを見る。
栞を見る。
湊も莉子も、妙に黙った。
莉子に至っては、珍しく余計なことを言わない。空気を読んでいるのか、面白くて見守っているのかはわからない。
黒瀬は小さく息を吸った。
「……白瀬」
「はい」
「昨日の、しおり」
「はい」
「ありがと。ちゃんと使えた」
言えた。
短いけれど、ちゃんと言えた。
栞の表情がふっとやわらかくなる。
「よかったです」
「あと、折り方」
「はい」
「なんか、それっぽくなった」
「それはよかったです」
「……それだけ」
黒瀬は照れ隠しのように文庫本を机の端へ寄せた。
栞はそれ以上、過剰に喜ばなかった。
ただ、丁寧に頷く。
「こちらこそ、見せてくれてありがとうございました」
「何で白瀬が礼言うの」
「黒瀬さんが大事にしているものを、預けてくれたので」
黒瀬は固まった。
莉子が横で「おお」と小さく声を漏らしかけ、黒瀬に睨まれて口を閉じた。
「……そういうの、普通に言うのやめて」
「すみません」
「謝るの早い」
「はい」
「そこ返事しなくていい」
お決まりのやり取り。
けれど今朝のそれは、今までより少しだけ柔らかかった。
一限目。
黒瀬からメモは来なかった。
消しゴムも転がってこなかった。
その代わり、湊の斜め後ろから、小さなページの音が一度だけした。
授業中に文庫本を開いたわけではない。
黒瀬が教科書に挟んでいたしおりを、別のページへ移したのだ。
ちらりと横目で見ると、しおりの端だけが教科書から少し覗いていた。
あのメモだった紙が、今は授業用の教科書に挟まっている。
背中、固い。
見すぎ。
見えるし。
そんなくだらない会話が、英語の教科書の間に挟まっている。
その事実が妙に可笑しくて、湊は今度こそ笑いをこらえた。
後ろから、小さな咳払い。
黒瀬だ。
見るな、という合図だろう。
湊は背筋を伸ばし、黒板へ向き直った。
休み時間になると、黒瀬がすぐ言った。
「さっき、見た」
「見えた」
「あたしのやつ取らないで」
「便利すぎる」
「使いやすいから」
「それ、俺の返し」
「元はあたしの」
黒瀬は少しだけ得意げだった。
しおりにしたことで、昨日の紙がただの恥ずかしいメモではなくなったらしい。
それでも、見られるのはまだ恥ずかしい。
その中途半端さが、黒瀬らしかった。
昼休み。
今日は自然と四人になった。
湊の近くに栞。
斜め後ろから椅子を寄せる黒瀬。
そして、莉子が「今日は見学じゃなくて参加」と言って空いた椅子を引っ張ってきた。
「見学って何だよ」
湊が言うと、莉子は笑う。
「読書会とかしおり会とか、最近あんたたち独自文化すぎるんだもん」
「しおり会って何」
黒瀬が顔をしかめる。
「るいなが白瀬さんにしおり折ってもらって、ちゃんとお礼まで言う会」
「莉子」
「はい黙ります」
言いながら、莉子は全然黙らない顔をしていた。
栞は少しだけ笑っている。
「でも、黒瀬さんが使ってくれて嬉しかったです」
「白瀬、ここで追撃しないで」
「追撃のつもりは」
「ある。今のはある」
「すみません」
「謝るの早い」
莉子が横でにやにやする。
「るいな、白瀬さん相手だと毎回同じこと言ってるよね」
「うるさい」
「でも前より仲良くなったよね」
「なってない」
即答。
けれど、その声は弱かった。
栞が静かに首を傾げる。
「なっていませんか?」
「……なってないっていうか」
黒瀬はメロンパンの袋をいじりながら、言葉を探した。
「まだ、よくわかんない」
「はい」
「でも、前よりは話しやすい」
それはかなり素直な言葉だった。
莉子が一瞬だけ茶化しそうになって、やめた。
栞は小さく頷く。
「私もです」
「そういうの、すぐ言う」
「はい」
「そこで肯定しないで」
黒瀬は困ったように言いながらも、どこか嬉しそうだった。
湊はその様子を見ながら、少しだけ安心していた。
関係は複雑だ。
黒瀬も栞も、それぞれに湊との距離を持っている。
莉子は黒瀬の友達として、その周りを軽く笑いながら見ている。
でも、少なくとも今日の昼休みは悪くなかった。
奇妙で、少しぎこちなくて、でもちゃんと居場所があった。
放課後。
栞が先に教室を出ようとした時、黒瀬が小さく呼び止めた。
「白瀬」
「はい」
「……また、折り方教えて」
栞の目が少しだけ明るくなる。
「しおりですか?」
「うん。別の紙でも、できるやつ」
「もちろんです」
「でも、変に喜ばないで」
「難しいです」
「そこは頑張って」
栞は少し笑った。
「わかりました。なるべく普通に喜びます」
「普通に喜ぶって何」
「嬉しいのは隠せないので」
「ほんと強い」
黒瀬は呆れたように言って、でも少し笑った。
栞が教室を出ていく。
その背中を見送ってから、黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、言えた」
「うん。ちゃんと言えてた」
「莉子にも見られた」
「見られてたな」
「でも、まあ……いいかって感じ」
「それ、大きいな」
「言うな」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く。しおりの件で疲れたし」
「しおりで疲れるのか」
「疲れる。人にありがとう言うのって、けっこう疲れる」
「でも言えたな」
「……うん」
黒瀬は小さく頷いた。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。ありがとう言えた日だから』
湊は少し笑って返信した。
『お疲れ。カフェラテ?』
『当然』
『しおりも持ってくる?』
『持っていく』
少し間が空いて、もう一通。
『今日は見せないけど』
『了解』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は少し疲れた顔で立っていたが、どこかすっきりしていた。
「……遅」
「ありがとう言えた日、お疲れ」
「それ読むな」
「メッセージで来たから」
「言わなくていい」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座った。
鞄から文庫本を取り出し、テーブルの上に置く。
しおりは挟まったままだ。
湊はカフェラテを出した。
「今日は見せないんだろ」
「うん」
「じゃあ何で出した?」
「置きたかっただけ」
「そっか」
黒瀬はカップを両手で包む。
「今日、白瀬にありがとって言ったら、なんか軽くなった」
「よかったな」
「うん。でも、ちょっと疲れた」
「慣れてないから?」
「たぶん」
黒瀬はしおりの挟まった本を見た。
「でも、次はもう少し普通に言えるかも」
「いいな」
「うん」
それから、少しだけ笑う。
「莉子にも、そのうち言う」
「何を?」
「最近、空気読んでくれてありがとって」
「おお」
「でも、今はまだ無理」
「そのうち?」
「そのうち」
黒瀬の“そのうち”は、以前より少しだけ明るかった。
ありがとうを言うだけの日に、ギャルは朝から少し忙しかった。
けれど夜になる頃には、その忙しさもちゃんと小さな達成感に変わっていた。
そして、しおりになったメモは今日も本の間に挟まって、言葉にならないものを静かに残していた。




