ep.69 しおりになったメモは、昼の教室で思ったより目立つ
翌朝、黒瀬琉衣奈はいつもより少しだけ慎重だった。
朝比奈湊が教室に入ってすぐ、それはわかった。
斜め後ろの席。
机の上には教科書と筆箱。
スマホは伏せられている。
そして、その横に一冊の文庫本が置かれていた。
昨日まで読んでいた白瀬栞の本ではない。別の本だ。表紙には夕暮れの街路樹が描かれている。黒瀬が自分で持ってきたものらしい。
ただ、湊が気になったのは本そのものではなかった。
本の上から、ほんの少しだけ紙片が覗いていた。
小さく折られた紙。
昨日の授業中にやり取りしたメモ。
――背中、固い。
――見すぎ。
――見えるし。
黒瀬は本当に、しおりにしたらしい。
「……おはよ」
黒瀬が小さく言った。
「おはよう」
湊が返す。
それだけならいつもの朝だ。
けれど、湊の視線が本に向かった瞬間、黒瀬はぴくりと反応した。
「……何」
「いや」
「今、見たでしょ」
「見えた」
「見ないで」
「机の上に置いてるのに?」
「見ない努力して」
「無茶言うな」
黒瀬は唇を尖らせた。
耳が少し赤い。
しおりにしたことを見られたくないのなら、鞄にしまっておけばいい。
でも、机に置いている。
つまり、少しは見てほしいのだ。
たぶん本人は認めないだろうけれど。
「朝比奈くん、おはようございます」
少し前の席から、白瀬栞が声をかけてきた。
「おはよう」
栞の視線も、当然のように黒瀬の机の本へ向いた。
黒瀬がすぐに本を隠そうとする。
だが、遅かった。
「黒瀬さん、しおりにしたんですね」
栞が静かに言った。
「……見た?」
「少しだけ」
「白瀬の少しだけ、信用できないんだけど」
「今回は本当に少しだけです」
「余計怖い」
黒瀬は本を机の端へ寄せた。
それでも、紙片は少しだけ見えている。
栞はそれ以上近づかなかった。
ただ、やわらかく言う。
「捨てるより、いいと思います」
黒瀬は一瞬だけ黙った。
「……そう?」
「はい。残したいものを、読んでいる途中の場所に挟むのは、自然だと思います」
「そういうこと言うから、白瀬って強いんだよ」
「褒め言葉ですか?」
「半分」
「ありがとうございます」
「半分でも喜ぶのやめて」
そのやり取りに、湊は少しだけ笑ってしまった。
黒瀬がすぐ睨む。
「朝比奈も笑うな」
「悪い」
「絶対悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ、あたしのやつ」
いつもの会話。
けれど、そこにしおりになったメモが一枚あるだけで、朝の空気は少しだけ変だった。
一限目。
今日は黒瀬からメモも消しゴムも飛んでこなかった。
湊は少し安心した。
だが、安心したらしたで、今度は斜め後ろの静けさが気になった。
黒瀬が何もしてこない。
それはそれで落ち着かない。
昨日までなら、机の端に小さな紙が滑ってきた。
消しゴムが転がってきた。
そのたびに危ないと思いながらも、どこかで待っていた自分がいる。
今日は何も来ない。
その代わり、後ろからページをめくる小さな音がした。
授業中に本を読んでいるわけではない。たぶん教科書だ。
でも、湊の頭には机の上に置かれていた文庫本と、そこに挟まったメモがちらついていた。
教師の声が遠い。
ノートを取る手が止まる。
その瞬間、斜め後ろから小さな咳払いが聞こえた。
黒瀬だ。
湊は背筋を伸ばす。
メモは来ない。
でも、咳払いで注意された。
これはこれで、かなり近い。
休み時間になると、黒瀬がすぐ言った。
「さっき、集中してなかった」
「見てたのか」
「見えるし」
「またそれか」
「今日はメモ送ってないからセーフ」
「咳払いしてきただろ」
「あれは自然現象」
「自然現象で注意するな」
黒瀬は少しだけ笑った。
その笑い方が、昨日よりも気楽に見える。
机の上の本へ視線を向けると、彼女はすぐに本を少し引き寄せた。
「だから見ないで」
「しおり、使ってるんだなと思って」
「使ってるけど」
「どの本?」
「家にあったやつ」
「読んでるのか?」
「……ちょっとだけ」
黒瀬は視線を逸らす。
「白瀬の本読んでから、なんか本屋で買ったやつも開いてみた」
「いいじゃん」
「そういうの普通に言うなって」
「言うだろ。いいことだし」
「読書キャラみたいにされるのは嫌」
「そこまでは言ってない」
「でも莉子に見られたら絶対言われる」
黒瀬がそう言った瞬間、窓際の方から声が飛んできた。
「るいな、読書キャラになるの?」
「莉子!」
やっぱり聞いていた。
莉子は楽しそうに笑いながら近づいてくる。
「いやー、机に本あるから珍しいなと思って」
「別に普通」
「普通じゃないでしょ。前までスマホかパンしか置いてなかったのに」
「パンは置いてない」
「置いてたよ。焼きそばパン時代」
「その時代名やめろし」
教室の何人かが笑う。
黒瀬は顔を赤くして莉子を睨んだが、莉子はいつもの調子で受け流した。
「で、そのしおり何?」
空気が一瞬止まった。
黒瀬の手が本の上に乗る。
「普通の紙」
「ふーん?」
「何」
「いや、るいなが普通の紙をしおりにするの、ちょっと面白いなって」
「何でもいいでしょ、しおりなんか」
「はいはい」
莉子はそれ以上は踏み込まなかった。
でも、にやにやはしている。
黒瀬は机の上の本を鞄へしまおうとして、やめた。
結局、そのまま机の上に置いた。
その動きが妙に黒瀬らしくて、湊は少しだけ胸がくすぐったくなった。
昼休み。
今日は黒瀬が先に椅子を少し寄せてきた。
湊の横には栞が座る。
斜め後ろから黒瀬が体をこちらへ向ける。
遠くに莉子。
席替え後の昼休みの形も、だいぶ馴染んできた。
黒瀬は袋入りのチョコチップパンを開けながら、ぽつりと言った。
「しおり、思ったより目立つ」
「そりゃ、あの折り方だと少し出るだろ」
湊が言うと、黒瀬は唇を尖らせる。
「じゃあどう折ればいいの」
「俺に聞くのか」
「作ったの半分あんたでしょ」
「会話しただけだろ」
「会話した紙じゃん」
その言い方が、妙に正確で、湊は言葉に詰まった。
会話した紙。
たしかにそうだ。
ただのメモではない。
そこには二人分の文字がある。
栞が静かに言った。
「少し細長く折ると、しおりらしくなると思います」
黒瀬が栞を見る。
「白瀬、詳しいね」
「本に挟むものなので」
「そりゃそうだけど」
「必要なら、あとで折り方を教えます」
「……別に、そこまでじゃないし」
黒瀬はそう言いながらも、少しだけ迷っている顔をした。
湊にはもうわかった。
聞きたいのだ。
でも、自分から素直に頼むのが少し悔しい。
「教えてもらえばいいだろ」
湊が言うと、黒瀬がすぐ睨む。
「朝比奈は簡単に言いすぎ」
「でも、目立つの嫌なんだろ」
「それはそうだけど」
「白瀬さん、折り方うまそうだし」
「うまそうって何ですか」
栞が少し笑う。
黒瀬はしばらく黙って、パンを小さくかじった。
それから、ぼそっと言った。
「……あとで」
栞が反応する。
「はい」
「あとで、ちょっとだけ」
「わかりました」
「絶対変に見ないで」
「見ません」
「朝比奈も笑うな」
「まだ何もしてない」
「先に言っただけ」
黒瀬は不満そうに言いながらも、どこかほっとしているようだった。
放課後。
教室に残っていたのは、湊と黒瀬と栞、それから窓際で莉子がスマホを触っているくらいだった。
黒瀬は鞄から文庫本を取り出し、そこに挟んでいたメモをそっと抜いた。
紙は、思ったより丁寧に折られていた。
けれど、しおりとして使うには少し幅が広い。
「……これ」
黒瀬が栞へ差し出す。
渡す瞬間、少しだけためらった。
紙には湊と黒瀬のやり取りが書かれている。
栞に見られたくない気持ちと、栞に整えてもらいたい気持ちが、黒瀬の中でぶつかっているのが見えた。
栞はすぐには受け取らなかった。
「中は見ないように折りますね」
先にそう言った。
黒瀬が少しだけ目を丸くする。
「……見ないの?」
「黒瀬さんが見せたいなら見ます。でも、しおりにしたいだけなら、中身は見ないほうがいいと思ったので」
黒瀬は黙った。
それから、少しだけ視線を落とす。
「……そういうとこ」
「はい?」
「何でもない」
黒瀬は紙を渡した。
栞は本当に中を開かなかった。
折り目の向きを見て、文字のある面を内側にしたまま、細く、丁寧に折っていく。最後に先端だけ少し斜めに整えると、ただのメモだった紙が、ちゃんとした細長いしおりの形になった。
「これでどうでしょう」
栞が差し出す。
黒瀬は受け取って、少しだけ驚いた顔をした。
「……それっぽい」
「よかったです」
「白瀬、こういうの本当に器用だね」
「本を読む時に、しおりをよく使うので」
「そういう理由で器用になるんだ」
黒瀬は新しいしおりを文庫本に挟んだ。
今度は、紙片が少しだけ出るだけで、前ほど目立たない。
「どう?」
黒瀬が湊へ聞く。
「ちゃんとしおり」
「雑」
「いや、本当に」
「……ならいい」
黒瀬は小さく頷いた。
莉子が遠くから声をかける。
「るいな、何それ、白瀬さんに作ってもらったの?」
「折ってもらっただけ」
「へえ。よかったじゃん」
「うん」
黒瀬は普通に頷いた。
自分で頷いてから、少しだけ驚いた顔をした。
莉子も一瞬だけ目を丸くして、それからにやっと笑う。
「今、素直だった」
「うるさい」
「はいはい」
莉子は笑ったが、それ以上いじらなかった。
湊はその様子を見て、少しだけ感心した。
黒瀬が、栞にしおりを整えてもらった。
それを莉子に「よかったじゃん」と言われて、素直に頷いた。
たったそれだけのことなのに、少し前なら考えられなかった。
黒瀬は本を鞄にしまいながら、栞へ小さく言った。
「……ありがと」
栞の表情がやわらかくなる。
「どういたしまして」
「その顔しないで」
「すみません」
「謝るの早い」
でも、黒瀬の声はやわらかかった。
帰り際、黒瀬は湊の机の横へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く」
「しおりの確認?」
「それもある」
「あるんだ」
「だって、ちゃんとしおりになったし」
黒瀬は少しだけ嬉しそうだった。
「白瀬さんに感謝だな」
「……うん」
今度は否定しなかった。
「でも、朝比奈には中見せないから」
「何で俺まで」
「今見たら恥ずい」
「俺の字もあるだろ」
「だから余計」
黒瀬は鞄を肩にかける。
「夜なら、ちょっとだけ見せるかも」
「昼はだめ?」
「昼は無理」
「了解」
黒瀬は小さく頷いて、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。しおり持ってく』
湊は返信する。
『カフェラテも?』
『当然』
『中見せてくれる?』
少し間が空いた。
『ちょっとだけ』
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつもの顔で立っていたが、鞄を少し大事そうに持っていた。
「……遅」
「しおり、大事そうだな」
「開幕それ?」
「気になって」
「まあ、大事ではある」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座ると、鞄から文庫本を取り出した。
栞に折ってもらったしおりが、ちゃんと挟まっている。
黒瀬は少しだけ迷ってから、それを抜いた。
「……ちょっとだけ」
そう言って、湊に差し出す。
湊は受け取った。
細長く折られた紙の内側には、昨日のやり取りが小さく残っている。
――背中、固い。
――見すぎ。
――見えるし。
くだらない。
でも、ちゃんと残っている。
「いいしおりだな」
湊が言うと、黒瀬は顔を赤くした。
「変なこと言うな」
「本当に」
「……うん」
黒瀬はしおりを受け取り、また本に挟んだ。
「紙って、形変えるとちょっと楽になるね」
「楽?」
「うん。メモのままだと恥ずいけど、しおりならまだ持っててもいい感じする」
「白瀬さんのおかげだな」
「……うん」
黒瀬はカフェラテを受け取り、少しだけ笑った。
「明日、白瀬にもう一回ありがとって言う」
「おお」
「何その反応」
「いや、自然に言ったなと思って」
「言うな」
でも黒瀬は、少しだけ誇らしそうだった。
しおりになったメモは、昼の教室で思ったより目立った。
けれど、その目立ち方があったから、黒瀬は栞に頼ることができた。
小さな紙一枚が、また三人の距離を少しだけ変えた。




