ep.68 ポケットに残ったメモは、洗濯機より先にギャルの心をざわつかせる
翌朝、黒瀬琉衣奈はいつもより少しだけ不機嫌そうだった。
教室に入った朝比奈湊は、斜め後ろの席に座る彼女を見てすぐにそう思った。
茶髪はいつも通り整っている。制服の着崩し方も、メイクも、別に変ではない。
けれど、机に肘をついてスマホを見ている顔が、どこか妙に落ち着かない。
機嫌が悪いというより、何かを気にしている顔だった。
「……おはよ」
黒瀬が小さく言う。
「おはよう」
湊が返すと、彼女は少しだけ目を逸らした。
いつもならそれで終わる。
だが今日は、逸らしたあとに一瞬、制服のスカートのポケットへ視線が落ちた。
湊はそれに気づいてしまった。
昨日のメモだ。
授業中に黒瀬が送ってきた、小さな紙。
――背中、固い。
――見すぎ。
――見えるし。
捨てると言いながら、結局ポケットにしまったやつ。
まさか、まだ持っているのか。
「……朝比奈」
黒瀬が低い声で言った。
「何?」
「今、何か思った?」
「いや」
「うそ」
「何も」
「絶対メモのこと思った」
完全に読まれていた。
湊は思わず苦笑する。
「まだ持ってるのか?」
「……洗濯前に気づいた」
「危なかったな」
「ほんと最悪。ポケットに入れっぱなしで洗ったら紙くずになるところだったし」
「捨てればよかったのに」
何気なく言った瞬間、黒瀬がむっとした顔をした。
「捨てようとはした」
「でも捨てなかった」
「タイミング逃しただけ」
「昨日も聞いたな、それ」
「しつこい」
黒瀬は少しだけ顔を赤くして、スマホへ視線を落とした。
その横顔は、やっぱり少しだけ落ち着かない。
紙一枚。
ただそれだけなのに、彼女の朝をここまで乱している。
湊は何となく、笑わないようにした。
笑ったらたぶん怒る。
「朝比奈くん、おはようございます」
前方から白瀬栞の声がした。
「おはよう」
栞は湊に挨拶したあと、黒瀬のほうをちらりと見た。
「黒瀬さん、今日は少しだけ眠そうですね」
「眠くない」
「そうですか」
「あと、見すぎ」
「すみません。見えました」
「それ、最近強すぎる」
栞は小さく笑った。
黒瀬はそれ以上言わなかったが、まだポケットを気にしている。
もちろん、栞は気づいているのだろう。
しかし、何も言わなかった。
それが逆にありがたいような、怖いような顔で、黒瀬は少しだけ栞を見ていた。
一限目。
湊は、今日は背中に気をつけた。
昨日のように固くならない。
メモを送られないようにする。
教師に笑いをこらえているところを見つからないようにする。
そう思えば思うほど、余計に背中が変になる気がした。
案の定、授業が始まって十五分ほど経った頃、机の端に何かが当たった。
紙ではない。
消しゴムだった。
小さな白い消しゴムが、湊の机の端に転がっている。
振り向くわけにはいかない。
だが、斜め後ろから黒瀬の気配がする。
湊は消しゴムを手に取り、ノートの端に置いた。
その裏に、小さく文字が書いてある。
いや、消しゴムそのものではなく、巻紙の端に極小の字で書かれていた。
――今日は紙じゃない。
湊は本気で吹き出しそうになった。
危ない。
これは危ない。
昨日より危ないかもしれない。
紙のメモを反省した結果、消しゴムを使うな。
湊はノートの端にシャープペンで小さく書いた。
――もっと危ない。
消しゴムをそっと後ろへ戻す。
数秒後、また返ってくる。
――証拠は消えるし。
消しゴムだけに。
湊は机に額をつけそうになった。
だめだ。
これはだめだ。
黒瀬がこういうくだらない方向に工夫し始めると、笑いをこらえるのが難しい。
栞が斜め前からこちらを見た。
また気づかれている。
栞の目が「今度は何ですか」と静かに言っている気がする。
湊は何もなかったように黒板を見る。
消しゴムは、今度は返さず自分の筆箱の横に置いた。
休み時間になった瞬間、黒瀬が小声で言った。
「返して」
「没収」
「は?」
「授業中に送るには危険すぎる」
「紙じゃないし」
「紙より危ない」
「なんで」
「消しゴムで会話する高校生、普通に怪しいだろ」
「怪しくないし」
「いや怪しい」
黒瀬は不服そうに眉を寄せた。
すると、栞が近づいてきた。
「今日は消しゴムですか」
静かな一言。
黒瀬が固まる。
「……見た?」
「見えました」
「白瀬、視界広すぎ」
「席が斜め前なので」
「ずるい」
「すみません」
「謝るの早いし」
もはやお決まりになっている。
栞は湊の机の上の消しゴムを見て、少しだけ口元を緩めた。
「証拠は消える、という意味ですか?」
「読んでないのに当てないで」
黒瀬の顔が赤くなる。
湊は耐えきれず少し笑った。
「笑うな」
「無理だろ」
「朝比奈も悪い」
「俺は何もしてない」
「返事した」
「それはまあ」
莉子が遠くから寄ってくる。
「何? 今度は消しゴム?」
「莉子、来なくていい」
「いや、今の流れで来ないのは無理でしょ。るいな、文通の次は消しゴム通信?」
「名前つけんな!」
教室の数人がこちらを見て笑う。
黒瀬は完全に赤くなっていた。
湊は消しゴムをそっと黒瀬へ返す。
「ほら。もう授業中に飛ばすなよ」
「飛ばしてない。転がしただけ」
「余計悪い」
「うるさい」
黒瀬は消しゴムを受け取り、筆箱にしまった。
その動きが少しだけ乱暴で、でも大事そうだったのを湊は見た。
昼休み。
今日は三人が自然と近くに集まった。
湊の横に栞。
斜め後ろから少し椅子を寄せる黒瀬。
遠くで様子を見ている莉子。
席替えで少し形は変わったが、この妙な昼休みの距離にも、少しずつ慣れてきている。
「で」
湊がパンを開けながら言った。
「昨日のメモ、どうしたんだ?」
黒瀬が固まる。
「今それ言う?」
「気になって」
「捨てた」
「本当に?」
「……まだ」
「どっちだよ」
黒瀬はパンの袋をいじりながら視線を逸らした。
「朝、捨てようと思ったけど、なんか」
「なんか?」
「ぐしゃってするのも、変じゃん」
「紙だぞ」
「わかってるし」
栞が静かに言った。
「折って、別のしおりにしてみたらどうですか」
黒瀬も湊も、同時に栞を見た。
「しおり?」
黒瀬が聞く。
「はい。捨てづらいなら、別の用途にすれば残しても不自然ではないかと」
「白瀬、それ真面目に言ってる?」
「真面目です」
「授業中の変なメモをしおりにするの?」
「黒瀬さんが残したいなら」
栞はまっすぐ言った。
黒瀬が言葉に詰まる。
「……残したいって言ってないし」
「そうでした。すみません」
「でも」
黒瀬は小さく続ける。
「しおりなら、まあ……紙としての役目はあるし」
「役目」
湊が思わず復唱すると、黒瀬が睨んだ。
「何」
「いや、納得の仕方が独特だなって」
「うるさい」
栞は少しだけ微笑んでいた。
莉子が遠くから声を飛ばす。
「るいな、メモしおりにするの? 青春じゃん」
「莉子!」
「はいはい、聞こえてない聞こえてない」
「聞こえてる!」
黒瀬は顔を赤くしながらパンをかじった。
湊は笑わないようにコーヒーを飲む。
紙のメモは、まだ捨てられていない。
たぶんこのまま、何かの本に挟まれるのだろう。
それを想像すると、少しだけ胸の奥がくすぐったかった。
放課後。
帰り支度をしていると、黒瀬が斜め後ろから小さく言った。
「朝比奈」
「何?」
「消しゴム、怒ってる?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「笑いをこらえるのが大変だっただけ」
「それは……まあ、あたしも危なかった」
「自分でも?」
「うん」
黒瀬は少しだけ笑った。
「でも、紙よりは安全かと思った」
「全然安全じゃなかったな」
「白瀬に即バレたし」
「白瀬さんにはだいたいバレる」
「強すぎ」
「だな」
黒瀬は鞄を肩にかける。
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く」
「メモしおりの相談?」
「それ言うな」
「じゃあ消しゴム通信の反省会?」
「もっと言うな」
黒瀬はむっとした顔をしたが、すぐに少しだけ笑った。
「……カフェラテはいる」
「そこは決定なんだな」
「当然」
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。消しゴムの件は忘れて』
湊は返信する。
『無理』
『最低』
『カフェラテ?』
『当然』
少し間が空いた。
『メモ、しおりにするかも』
湊はその文面を見て、しばらく笑った。
『いいと思う』
既読。
『笑った?』
『少し』
『最低』
でも、そのあとにもう一通来た。
『でも、捨てるよりはいい気がした』
湊は短く返す。
『うん』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は少しだけ照れくさそうな顔で立っていた。
「……遅」
「しおり、持ってきた?」
「持ってきてない」
「本当に?」
「今日は本当に」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファに座った。
湊がカフェラテを出すと、彼女は両手で受け取って、しばらくカップを見つめた。
「……紙って、残るから面倒」
「昨日も言ってたな」
「でも、残らないのも嫌な時ある」
「うん」
「だから、しおりはちょうどいいのかも」
黒瀬は小さく笑った。
「読んでる途中に挟めるし。捨てたわけじゃないし。でも、ずっと見えるわけでもない」
「黒瀬らしいな」
「それ、褒めてる?」
「半分以上」
「ならいい」
彼女はカフェラテを飲む。
「消しゴムは?」
「消しゴムはもうやらない」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんか」
「気分の問題」
いつもの言葉。
けれど、今夜のそれは少しだけ柔らかかった。
ポケットに残ったメモは、洗濯機より先に黒瀬の心をざわつかせた。
そしてその小さな紙切れは、たぶん捨てられる代わりに、どこかのページの間に挟まれることになる。
言葉で言えないものが、また別の形で残っていく。
それは少し面倒で、少し危なくて、でも今の二人には妙に似合っていた。




