ep.9 雨の日の制服は、ツンなギャルを少しだけ弱くする
雨の日は、距離感が少しだけおかしくなる。
朝比奈湊はその日、登校した時点でなんとなくそう思っていた。
朝から空は重たく曇っていて、登校時間にはすでに細かい雨が降っていた。最初は傘に当たる音も軽かったのに、一限が終わる頃には本降りになり、窓ガラスを叩く雨粒の音が教室のざわめきに混じり始める。
こういう日は、教室の空気まで少し湿る。
制服の裾がいつもより重く見えたり、髪のまとまりが悪かったり、誰もが少しだけ機嫌を崩しやすい。
その日の黒瀬琉衣奈も、朝から若干不機嫌そうだった。
窓際の席で頬杖をつき、外を見ながら「だる」と一言。隣の女子が「るいな、今日マジで巻き死んでない?」と言えば、「最悪」と返す。普段ならそれでもどこか余裕があるのに、今日は声のトーンが半歩ぶっきらぼうだった。
髪はたしかにいつもより広がっている。
きれいに巻かれていたはずの茶髪が、湿気のせいで少しだけまとまりを失っていて、それが逆に柔らかく見えた。
湊はそんなところまで目に入る自分に、だいぶどうかしてるなと思いながら、視線をノートへ戻す。
だが、気にならないわけではない。
最近はもう、黒瀬の細かな変化を意識しないほうが難しかった。
昼休み。
雨はさらに強くなっていた。窓の外が白く煙るくらいの降り方で、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下にはびしょ濡れの生徒が何人も走っている。
「帰りやばくない?」
前の席の男子がそう言うと、別のやつが「駅までで終わる」とげんなりした顔で返す。
教室のあちこちでそんな会話が交わされる中、湊は購買のパンを開けながら窓際を見た。
黒瀬はスマホを見ている。
たぶん天気予報か、雨雲レーダーでも確認しているのだろう。眉間に少しだけしわが寄っていた。
その横顔を見ていると、ふいに別の声がした。
「朝比奈くん、牛乳、今日もそれなんですね」
白瀬栞だった。
「ああ、なんか癖で」
「わかります。つい同じものを選んでしまいますよね」
彼女は自分の弁当箱を持ちながら、自然な流れで前の席へ軽く腰かけた。これももう、最近では珍しくない。
「白瀬さんは?」
「今日はサンドイッチです。雨の日は持ち運びやすいので」
「そこまで考えてるのか」
「少しだけです」
栞は控えめに笑う。
そのタイミングで、窓際からまた視線を感じた。
見なくてもわかる。だが見ないのも不自然で、湊は結局そちらへ目を向けた。
黒瀬がこっちを見ていた。
露骨ではない。ほんの一瞬だけ。だが昨日までと同じく、間違いなく湊と栞のやり取りを拾っている目だった。
そして次の瞬間には、また何でもない顔でスマホ画面へ戻る。
「……最近、黒瀬さんと目が合います?」
いきなりそんなことを言われて、湊は危うく牛乳を変な方向へ吸い込みかけた。
「え」
声が裏返る。
栞は驚いた顔ひとつせず、ただ静かに首をかしげる。
「いえ、なんとなく」
「なんとなく、でその結論になる?」
「朝比奈くんがわかりやすいので」
「それ最近よく言われるな……」
ぼそっと返すと、栞は少しだけ困ったように微笑んだ。
「否定しないんですね」
「否定できるほど自信ないし」
「正直ですね」
「白瀬さんにだけな」
その言葉は半分冗談のつもりだったのに、口に出してから少しだけ重い気がした。
栞は一瞬だけ目を丸くし、それから穏やかに言う。
「それは、少し嬉しいです」
まっすぐすぎる返答だった。
湊は言葉に詰まり、視線をパンへ落とす。
栞は変に追撃せず、ただいつも通りサンドイッチへ視線を戻した。こういうところが本当に上手い。
放課後になっても、雨は止まなかった。
むしろ朝より強くなっている気さえする。生徒たちは昇降口で「傘意味ないんだけど」と言いながら靴を履き替え、ため息をつきつつ校門へ散っていく。
湊も帰り支度を整え、折りたたみ傘では厳しそうだなと思いながら靴を履いた。
その時、少し離れたところで黒瀬の声が聞こえた。
「……は? うそでしょ」
反射的に目を向ける。
黒瀬がロッカー前で立ち尽くしていた。
友達が二人ほど近くにいたが、みんな困った顔をしている。
「るいな、傘ないの?」
「教室置きっぱと思ったらなかったんだけど」
「誰か持ってったとか?」
「最悪」
明らかに機嫌が悪い。
いや、機嫌の問題というより本気で困っている。
この雨の強さで傘なしはきつい。駅や自転車置き場までならともかく、家まで歩くなら普通に濡れ切る。
友達の一人が「コンビニで買えば」と言ったが、黒瀬は「もう売り切れてた」と即答した。
そこで、湊は少しだけ迷った。
声をかけるべきか。
同じクラスとはいえ、学校での距離感を考えれば余計な介入かもしれない。だが、夜の彼女を知ってしまった今、困っているのを見て見ぬふりするのも違う気がした。
結局、体が先に動いた。
「黒瀬」
声をかけると、彼女は明らかに驚いた顔で振り向いた。
「……は?」
条件反射みたいな“は?”だったが、その奥に少しだけ救われたような色が混じる。
「傘、入る?」
言ったあとで、自分でもずいぶんまっすぐ言ったなと思う。
近くにいた友達二人が「えっ」と目を丸くしたのがわかった。
黒瀬も一瞬だけ固まる。
「いや、別に……」
断りかけて、外の土砂降りを見る。
たぶん頭の中で状況と体裁を一気に計算したのだろう。数秒だけ眉を寄せたあと、黒瀬は小さく舌打ちした。
「……じゃあ、途中まで」
「途中までって」
「家の近くまででいいし」
「はいはい」
友達の一人が「え、るいなそれ大丈夫なん?」と聞いたが、黒瀬は「うるさ」とだけ返した。
湊は余計なことを言わず、傘を少しだけ広めに差し出す。
「行くぞ」
「……ん」
その返事は、思ったよりずっと小さかった。
二人で校門を出る。
雨は本気だった。傘を打つ音が強く、歩道には細かい水しぶきが跳ねている。風も少しあって、ただでさえ狭い傘の下では完全には防ぎきれない。
肩が近い。
というか、近くならざるをえない。
学校では、こんな距離で歩くことなんてありえない。なのに今は、同じ傘の下で並んでいる。
黒瀬はいつもの勢いで歩こうとして、すぐに傘の外へ出かけた。
「ちょ、もっとこっち」
「狭いし」
「お前が外出たら意味ないだろ」
「朝比奈がちょい寄ればいいじゃん」
「寄ってる」
「もっと」
「無茶言うな」
言い合いながらも、自然と距離が縮む。
黒瀬の髪から、湿ったシャンプーの匂いが少しだけした。制服のブレザーの肩には、すでに細かな雨粒がついている。近くで見ると、シャツの首元が少しだけ湿っていて、白い肌が薄く透けるような錯覚を呼んだ。
まずいと思って視線を逸らす。
「……なに」
すぐに気づかれる。
「いや、濡れてんなって」
「そりゃ雨だし」
「ドライヤー貸す」
「は?」
「このままだと風邪ひくだろ」
「それ、もう行く前提?」
「傘入ってる時点でほぼそうだろ」
黒瀬は少しだけ黙ってから、小さく鼻を鳴らした。
「……今日の朝比奈、強気」
「お前が弱ってるだけ」
「弱ってないし」
そう言いながらも、声にいつもの鋭さはない。
家に着く頃には、二人とも多少なりとも濡れていた。
特に黒瀬は髪の先と制服の裾がかなり湿っている。ブレザーを脱がせてみれば、シャツの肩口まで少し濡れていた。
「タオル」
湊は洗面所から二枚持ってきて、一枚を差し出した。
「ありがと」
今日は礼が素直だ。
やっぱり疲れていたり、余裕がなかったりすると、黒瀬は変にツンを貼る力が弱くなるらしい。
「ドライヤー使う?」
「使う」
「制服、ハンガー貸す」
「……うん」
部屋の中に入った黒瀬は、いつもより静かだった。外で濡れたせいか、肩の力が少し抜けきっていない。髪をタオルで拭きながら、ソファへ腰を下ろした。
そこまではいつも通り。
でも今日の空気は、少し違う。
湿気のせいだろうか。窓の外の雨音がやけに近く、部屋全体がいつもより密閉された空間に感じられる。
「ドライヤーここ」
コンセントを伸ばしながら言うと、黒瀬は「ん」と小さく返した。
タオルを肩にかけ、髪をかき上げる。その仕草で耳元と首筋が見える。
学校では派手に見える日焼け肌が、こういう近い距離だと妙にやわらかく感じられるのが不思議だった。
ドライヤーの温風が鳴り始める。
茶髪がふわりと揺れる。濡れた髪先が少しずつ乾いていく。時々、黒瀬は指先で髪をとかすようにしながら、何も言わず前を向いていた。
雨音とドライヤーの音だけが部屋に満ちる。
言葉がないのに、空気は妙に濃い。
湊はキッチンに立って、なんとなくマグカップを用意した。こういう時はもう条件反射みたいなものだ。
「カフェラテ?」
ドライヤーを止めた黒瀬が振り返る。
「……ほしい」
声が、少しだけ疲れていた。
「やっぱり」
「悪い?」
「悪くない」
湊はお湯を注ぎながら、つい言った。
「今日、かなり濡れたな」
「朝比奈の傘、思ったより弱かったし」
「いや、普通の傘にそれ以上求めるなよ」
「でも二人だと狭い」
「文句しか出てこないな」
「でも入れてくれたのは助かったし」
さらっと続いたその一言に、湊は少しだけ手を止めた。
黒瀬は髪をかき上げながら、視線を逸らす。
「……その顔やめて」
「どの顔」
「なんか、今びっくりした顔」
「いや、珍しく素直だなと思って」
「雨の日くらい素直になるし」
「限定イベントみたいに言うな」
「実際そうかも」
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はタオルを膝に置き、少しだけ背を丸めて座っていた。学校で見る“見せるための黒瀬”じゃない。ただ濡れて、少し疲れて、安心したところに落ち着こうとしている女の子の姿だった。
「はい」
「ありがと」
今日二回目のありがとう。
たぶん、まだ余裕が戻りきっていないのだろう。こういう日の黒瀬は、少しだけ素直だ。
「制服、乾くまでどうする」
「……このまま」
「寒くない?」
「ちょっとだけ」
「だったら上、なんか貸す?」
そう言うと、黒瀬は少しだけ視線を上げた。
昨日までなら、そこで一瞬突っぱねたかもしれない。けれど今日は違った。
「……借りる」
小さな返事。
湊はクローゼットから薄手のパーカーを取り出し、差し出した。
黒瀬は受け取り、ブレザーの上から羽織る。サイズは当然大きい。袖が少し余る。濡れた髪にそのラフな上着が加わるだけで、学校の彼女からさらに遠い姿になった。
「……何」
見ていたらしい。
「いや、雨の日の黒瀬、普段より静かだなって」
「なにそれ」
「そのままの意味」
「朝比奈って、たまにそういう変な感想言うよね」
「変か?」
「変」
でも、否定の声は弱い。
黒瀬はカフェラテをひと口飲み、それから小さく息を吐いた。
「……今日、マジで来てよかった」
その言い方は、今までの“なんとなく来た”とは少し違った。
ちゃんと選んで、ここに来た。
そう聞こえた。
「家、そんなやばかった?」
「やばいってほどじゃない。……でも、なんかいると疲れるし」
「そっか」
「学校も雨だとだるいし。髪決まんないし。制服重いし」
「それはわかる」
「朝比奈、わかるの?」
「髪はわからないけど、雨の日のだるさは」
「……じゃあ半分だけわかって」
「半分でいいのか」
「全部は無理だし」
そこで、ほんの少しだけ笑う。
その笑い方が、今日はすごく自然だった。
窓の外ではまだ雨が降っている。
教室の中なら遠かった距離が、こうして部屋の中では近くなる。
湿った制服。濡れた髪。タオル。ドライヤー。借りたパーカー。甘いカフェラテ。
どれも些細なものばかりなのに、そこに含まれる親密さは、たぶんもう“ただのクラスメイト”では説明がつかない。
「……朝比奈」
「ん?」
「今日のこと、学校で絶対言うなよ」
「言わないって」
「傘入れたのも、ここ来たのも」
「わかってる」
「濡れたのも」
「そこまで細かく言うわけないだろ」
「でも朝比奈、たまに変なとこ見るし」
「見てない」
「見てたし」
「濡れてたから気になっただけだろ」
「……それがもう、だるい」
そう言いながらも、声に怒気はない。
むしろ少しだけ照れているのがわかる。
「悪かった」
「わかればいいし」
そのあと、しばらく二人は何も言わなかった。
黒瀬はカフェラテを飲み、湊は濡れた制服が乾く音も聞こえない浴室のほうをなんとなく気にする。会話がなくても、空気は気まずくない。
雨の日の部屋は、いつもより閉じた場所になる。
そのぶん、相手の呼吸や声の温度が近く感じる。
黒瀬がふっと目を伏せたまま、小さく言った。
「……学校だと、ああいうの無理だから」
「ん?」
「傘とか。あんなふうに普通に」
その言葉は、かなり本音に近いものだった。
湊は少しだけ考えてから、正直に返す。
「まあ、教室でやったら絶対めんどいな」
「でしょ」
「でも、雨だったし」
「……うん」
黒瀬はその“うん”を飲み込むみたいにカフェラテをもう一口飲んだ。
制服が乾き、帰る頃には雨脚も少し弱まっていた。
玄関先でパーカーを脱いだ黒瀬は、乾いた制服の上からブレザーを着直し、髪を軽く手ぐしで整える。そうしていくと、また少しずつ学校で見る黒瀬琉衣奈に戻っていくのがわかった。
けれど完全には戻りきらない。
今夜、ここで濡れた髪を乾かし、湊のパーカーを羽織って、カフェラテを飲んでいた時間が、ちゃんと彼女の中に残っているのが見えた。
「……じゃあ」
ドアを開けながら言う。
「また」
「またって、雨の日限定みたいだな」
「知らないし」
黒瀬は廊下へ出る直前、少しだけ振り返った。
「でも、雨の日の朝比奈、ちょっとよかった」
「ちょっとってなんだよ」
「全部は褒めてない」
「褒めてるのか?」
「半分だけ」
そう言って、小さく笑う。
ほんの一瞬の笑顔だった。
でも、その一瞬が今夜の中でいちばん反則だった気がする。
ドアが閉まり、雨音だけが残る。
湊はしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。
雨の日の制服は、ツンなギャルを少しだけ弱くする。
そしてその弱さを知ってしまった自分も、たぶんもう少しずつ弱くなっているのだろうと思った。




