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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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ep.10 黒瀬琉衣奈は、学校でだけ冷たすぎる

 昨夜の雨は、朝にはきれいに上がっていた。


 空は少しだけ洗われたみたいに高くて、道路にはまだところどころ水たまりが残っている。制服の裾を濡らさないように歩きながら、朝比奈湊はぼんやりと思い返していた。


 濡れた髪。

 湊のパーカーを羽織った黒瀬琉衣奈。

 カフェラテを飲みながら言った、「今日のこと、学校で絶対言うなよ」。

 帰り際の、「雨の日の朝比奈、ちょっとよかった」。


 どれもこれも、夜の部屋の中では妙に自然だった。


 だからこそ、朝になって学校へ向かう途中で、急に現実味が薄れる。


 本当にあったことのはずなのに、明るい日差しの下では、昨夜の黒瀬がひどく遠い。


 教室に入れば、もっと遠くなるのかもしれない。


 そんなことを思った時点で、もうかなり振り回されている自覚はあった。


 昇降口で上履きに履き替え、教室へ向かう。


 廊下では体育会系の男子が朝から騒ぎ、女子たちは昨日の雨の話や、髪がどうだの靴が濡れただのと話している。平和な朝だ。いつも通りの学校だ。


 そして、教室に入った瞬間。


 窓際の席にいる黒瀬琉衣奈を見て、湊は心の中で小さく息を止めた。


 やっぱり、完璧に戻っていた。


 茶髪は今日も綺麗に整えられ、メイクも抜かりなく、制服の着こなしも隙がない。昨夜、濡れた髪をタオルで拭きながら、湊の部屋で少しだけ弱い顔を見せていた同じ人間とは思えないくらい、教室の中の彼女は“いつもの黒瀬琉衣奈”だった。


 黒瀬は湊が入ってきたことにたぶん気づいている。


 なのに、こちらを見る気配すらない。


 隣の席の女子に「昨日マジ終わってたんだけど」と、普段通りの口調で愚痴をこぼしている。笑う時は笑うし、だるそうな時はちゃんとだるそうだ。だが、そこに昨夜の気配は一切ない。


 ここまで徹底されると、逆に見事だと思う。


 同時に、少しだけ刺さる。


 別に、学校でも優しくしろなんて思っているわけじゃない。むしろそれは困る。今の関係は、夜の秘密だから成立しているのだとわかっている。


 でも、だからといって、ここまで綺麗に何もなかったことみたいにされると、自分だけが夜を引きずっているみたいで、妙に居心地が悪かった。


「朝比奈くん、おはようございます」


 そんな空気を破るように、静かな声がした。


 白瀬栞が今日も変わらぬ調子で立っていた。黒髪、メガネ、真面目そうな制服の着こなし。目立たないのに、見失いにくい。


「おはよう」


「昨日の雨、大丈夫でしたか」


「なんとか。白瀬さんは?」


「私は駅から近いので、そこまで濡れませんでした」


「それは勝ち組だな」


「そんな言い方あります?」


 少しだけ笑う。


 栞と話す時間は、いつも湊の呼吸を少しだけ整えてくれる。無理がないし、余計な読み合いもない。少なくとも表面上は。


「今日、現文の小テストありますよね」


「うわ、忘れてた」


「朝比奈くん、今その顔、ほんとに忘れてましたね」


「白瀬さんってたまに容赦ないよな」


「ちゃんと覚えておいてほしいだけです」


 そう言って、栞は机の端を軽く指した。


「もし必要なら、休み時間に範囲だけ一緒に確認します?」


「いいの?」


「はい。私も見直したいので」


「助かる」


 このやり取りはたぶん、周りから見れば普通のものだ。


 クラスメイト同士の自然な会話。何もおかしくない。


 でも、その“普通”を、窓際の誰かがどう見るのかを、湊はもう無視できなくなっていた。


 ちらり、と黒瀬のほうを見る。


 見ていない。


 いや、見ていないように見せているだけかもしれない。けれど少なくとも、こちらに何か反応する素振りはゼロだった。


 それが逆に、痛いくらい徹底している。


 一限が始まる前、栞と小テスト範囲をざっと確認している間も、黒瀬はこちらへ一度も話しかけてこなかった。


 それは別に普通だ。


 今までもそうだった。そもそも湊と黒瀬は、教室で自然に話す関係ではなかったのだから。


 なのに今は、その“普通”が少しだけ冷たい。


 やっぱり昨夜を知ってしまったせいだろう。


 一限の現文が終わり、休み時間になる。


 担任が出ていくと同時に教室がざわつき始める中、湊は席を立って後ろのロッカーへ向かった。教科書を入れ替えながら、なんとなく窓際を見てしまう。


 黒瀬はスマホを見ていた。


 それだけだ。


 それだけなのに、湊は今なら一言くらい交わせるんじゃないかと思ってしまった。


 昨夜のことに触れなくてもいい。たとえば「昨日は助かった」とか、「制服乾いてよかったな」とか、そんな軽い一言でも。


 いや、それが余計なのか。


 頭ではわかっている。


 でも、少しだけ近づいたあとにまた距離を置かれると、人間はどうしてもその差分を意識してしまうらしい。


 気づけば、足が窓際へ向かっていた。


「……黒瀬」


 小さく呼ぶ。


 黒瀬はスマホから顔を上げた。


 目が合う。


 ほんの一秒。昨夜のことを知っている目だった。


 ――のに。


「は?」


 返ってきたのは、教室用の声だった。


 冷たい。


 しかもかなり冷たい。


 昨日までの“ツン”より、さらに一段階だけ体温が低い。


「なに」


「いや……」


 湊の言葉が一瞬詰まる。


 これだ。


 これがしんどい。


 夜にはあんなに無防備で、少しだけ甘くて、帰り際には笑うことすらあるのに、学校の中では一歩近づいただけでこの返しだ。


 周りの空気が少しだけこっちを見る。


 たぶん黒瀬もそれがわかっていて、だから余計に冷たくしている。


「……なんでもない」


 結局そう返すしかなかった。


 黒瀬は「じゃあ呼ばないで」とだけ言って、もうスマホへ視線を戻す。


 完璧だった。


 湊は何事もなかった顔でロッカーを閉め、自分の席へ戻る。歩きながら、胸の奥が妙にざらついているのがわかった。


 別に怒っているわけではない。


 怒る資格もない。


 昼は昼、夜は夜。そのルールを最初に示したのは黒瀬だし、湊もそれを受け入れてここまで来ている。


 でも、それでも。


 少しくらい、もう少しだけ、何かあってもいいんじゃないかと思っていた自分がいた。


 その自分が、今すごく恥ずかしい。


「朝比奈くん?」


 席へ戻ると、栞が小さく首をかしげた。


「……大丈夫ですか」


「え?」


「今、少し顔が固かったので」


「そんなにわかりやすい?」


「今日はいつもより」


 栞はそれ以上は何も聞かない。


 聞かないけれど、明らかに何かあったと察している顔をしていた。


「なんでもない」


 湊がそう言うと、栞は少しだけ間を置いてから頷く。


「そういう時は、無理に話さなくていいですよ」


 その言い方が静かで、やさしくて、だから余計に刺さった。


 昼休み。


 食欲があまりなかった。


 購買で買ったパンを机に置いたまま、湊はしばらく手をつけずにいた。


 そんな状態だから、前の席にそっと紙パックの紅茶を置かれた時、少し驚いた。


「甘いもの、飲みますか」


 栞だった。


「顔、やっぱりあんまり元気ないので」


「……そんなに」


「今日はかなり」


「わかりやすいな俺」


「私には、ですけど」


 栞はそう言って、前の席に軽く腰かける。


 前にも感じたが、この子は距離の詰め方がうまい。強引ではない。なのに気づけば隣にいる。


「別に、大したことじゃないんだけど」


 気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。


「はい」


 栞は急かさない。ただ待つだけだ。


 その沈黙に押されるみたいに、湊は少しだけ笑った。


「なんか、自分だけが変に気にしてるみたいで」


「何を、ですか」


「……たとえば、昨日話してたこととか、そういうの」


 曖昧な言い方だ。


 でも栞は、あえて具体化しなかった。


「朝比奈くんって、意外と引きずるほうなんですね」


「悪い意味で?」


「いいえ。ちゃんと相手を見てる人なんだと思います」


 その返しは、ずるいくらい優しかった。


 相手を見てる人。


 そんなふうに肯定されると、さっきまで自分が勝手にみじめに感じていた部分まで、少しだけ救われる気がした。


「でも」


 栞は続ける。


「相手が“見せないようにしているもの”まで、無理に見ようとすると苦しくなることもあります」


 その言葉に、湊ははっとした。


 見せないようにしているもの。


 それは栞自身のことにも聞こえたし、黒瀬のことにも聞こえた。


「白瀬さん、もしかしてエスパー?」


「違います」


「じゃあ観察力高すぎる」


「たぶん、静かな人を見ているのが昔から多かっただけです」


「……それもなんか深いな」


「深くないです」


 栞は少しだけ笑って、紅茶のパックを指先で押した。


「それ、ぬるくなる前に飲んでください」


「うん、ありがと」


「いえ」


 そのやり取りの途中、ふと教室の奥で椅子を引く音がした。


 目を向けると、黒瀬が立ち上がっていた。友達と話しながら窓際から離れ、廊下側のロッカーへ向かっている。


 こちらを見ることはない。


 でも、まるで視界に入れないようにしているのが逆にわかる。


 栞もその動きを見ていたようだった。けれど、何も言わない。


 ただ湊のほうを見て、やわらかく言った。


「甘いものは、少し気持ちが戻りますよ」


「それ、黒瀬みたいなこと言う」


 思わず口にすると、栞はほんの少しだけ目を丸くした。


「……黒瀬さん、甘いもの好きなんですか」


「え」


 しまった、と思った時には遅かった。


 栞は追及してこない。だが、何かのピースがはまったような静かな顔をした。


「そうなんですね」


「いや、その、なんとなく」


「ふふ」


 笑ってごまかされる。


 その笑い方が、何かを見逃したようでもあり、ちゃんと拾ったようでもあり、少しだけ怖かった。


 放課後になるまで、黒瀬は一度も湊に話しかけてこなかった。


 目も、ほとんど合わない。


 だから、昼休みに感じたざらつきは、じわじわと残り続けた。


 帰り支度をしている時、近くを通った黒瀬の香りにだけ、昨夜の雨とカフェラテの記憶が一瞬で呼び起こされる。そのくせ本人は教室では他人みたいな顔をしている。


 それが、今日はやけに堪えた。


 帰宅後、部屋の中に入っても、いつもの安心感が少し薄い。


 静かな部屋は変わらない。冷蔵庫の音も、カーテンの揺れも、机の上の参考書も同じだ。なのに、心だけが落ち着かない。


 自分でも笑える。


 たったそれだけのことで、こんなに引きずるなんて。


 でも、その“たったそれだけ”が、夜の黒瀬を知っている今の自分には、たしかに小さくないのだ。


 九時を過ぎた頃、インターホンが鳴った。


 湊は数秒だけ動かなかった。


 来ると思っていた。たぶん来るとどこかでわかっていた。


 それでも、すぐにドアへ向かわなかったのは、さっきまでのざらつきがまだ胸の奥に残っていたからだ。


 モニターを見る。


 やはり黒瀬だった。


 私服で、少しだけ不機嫌そうで、でも疲れているようでもある。


 ドアを開ける。


 黒瀬は湊の顔を見るなり、少しだけ眉をひそめた。


「……なに、その顔」


「そっちこそ」


 いつもより先に言葉が出た。


 黒瀬が一瞬だけ目を見開く。


「は?」


「学校だと冷たすぎだろ」


 言ってから、あ、と思った。


 ストレートすぎる。


 でももう引っ込められない。


 黒瀬は数秒、言葉を失ったみたいに立ち尽くし、それから小さく舌打ちした。


「……ここで言う?」


「今しか言えないだろ」


「学校で言えよ」


「学校で言ったら“は?”だったじゃん」


「それは……」


 そこで初めて、黒瀬の言葉が止まる。


 たぶん、覚えがあるのだろう。というか、さっきの自分の反応がかなり冷たかった自覚はあるらしい。


 黒瀬は視線を少しだけ逸らした。


「……だって学校だし」


「それはわかってる」


「ならいいじゃん」


「よくない」


 また数秒の沈黙。


 廊下の空気が少しだけ冷たい。ドアはまだ半分開いたままで、部屋の暖かさと外気の境目に二人で立っている。


 やがて黒瀬は、小さく息を吐いた。


「……朝比奈が、普通に話しかけてくると思わなかったし」


「え?」


「教室で。あんなふうに」


「それは……」


 今度は湊が言葉を詰まらせる。


 たしかに、あれは不用意だったかもしれない。


「びっくりして、反射でああなっただけ」


 黒瀬はそう言って、少しだけ唇を尖らせた。


「あと、周りいたし」


「……そっか」


「だから別に、嫌だったとかじゃない」


 それは、かなり譲歩した言葉だった。


 教室用の黒瀬なら、こんなふうに説明しない。説明する時点で、今は夜の黒瀬だ。


 湊は肩の力が少し抜けるのを感じた。


「じゃあ、もうちょい優しくしろよ」


「それは朝比奈が欲張り」


「欲張りって」


「夜のあたし知ってるくせに、昼まで同じの求めんなってこと」


 そこまで言ってから、黒瀬は自分でも言いすぎたと思ったのか、小さく目を逸らした。


 でも、今のはたぶん本音だ。


 夜の自分を知っている相手だからこそ、昼の距離感まで崩されたくない。まだそこまではいけない。そういうことなのだろう。


 湊は少しだけ笑った。


「……なるほど」


「なにその顔」


「いや、ちゃんとわかってるんだなって」


「わかってるし」


「俺より」


「朝比奈はそのへん鈍い」


「否定できない」


 黒瀬はそこでようやく、少しだけいつもの調子に戻った。


「てか、いつまで玄関で立ち話してんの」


「たしかに」


「入るし」


「はいはい」


 靴を脱いで上がる黒瀬の背中を見ながら、湊は胸の奥に残っていたざらつきが、ゆっくり薄れていくのを感じていた。


 学校でだけ冷たすぎる。


 その理由は、やっぱりちゃんとあったらしい。


 そして、それをこうして夜にだけ説明してくる時点で、たぶんもう完全に突き放されているわけではない。


 部屋に入った黒瀬は、いつものようにソファへ座る前に、振り返ってぼそっと言った。


「……朝のは、ちょっと悪かった」


 小さい声だった。


 でも、ちゃんと聞こえた。


 湊は少しだけ目を丸くして、それから笑う。


「それ、かなりレアだな」


「うるさい」


「じゃあカフェラテで手を打つ」


「最初からそれ出す気だったくせに」


「バレた?」


「バレるし」


 そんなやり取りができるなら、たぶん今日はもう大丈夫だ。


 黒瀬琉衣奈は、学校でだけ冷たすぎる。


 けれどその冷たさの奥に、夜のやわらかさが隠れていることを、朝比奈湊だけはもう知ってしまっていた。

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