ep.11 教室で話しかけてくるメガネっ娘は、思ったより近い
黒瀬琉衣奈が夜にだけ少し素直になることを知ってしまったせいで、朝比奈湊の学校生活は前より静かに難しくなっていた。
大事件が起きたわけではない。
何かが決定的に変わったわけでもない。
教室の席順は同じ。授業も同じ。昼休みに購買へ走る男子の顔ぶれも、窓際で笑っている女子たちの空気も、何一つ目新しくない。
なのに、以前よりほんの少しだけ、すべてが“意味ありげ”に見えてしまう。
窓際の席で頬杖をつく黒瀬。
こちらを見たのか見ていないのかわからない一瞬の視線。
話しかければ“は?”で返される昼の冷たさ。
それを夜にだけ説明してくる不器用さ。
そういうものに気を取られていると、気づかないうちに足元がふわつく。
だからこそ――なのかもしれない。
白瀬栞の存在が、最近やけにありがたく感じられるのは。
「朝比奈くん、おはようございます」
その日の朝も、教室へ入って間もなく、落ち着いた声が聞こえた。
栞は今日もいつも通りだった。
きちんと整えられた黒髪。細いフレームのメガネ。きっちり着た制服。派手さはなく、目立とうという意志もない。なのに、近くに来るとちゃんと印象に残る。
「おはよう」
「これ、昨日の現文の小テストです。先生が返してました」
差し出された答案用紙を受け取る。点数は悪くない。むしろ、栞に確認してもらったおかげで思っていたより取れていた。
「お、助かった」
「よかったです」
「白瀬さんは?」
「まあまあです」
その“まあまあ”はたぶん、かなり高得点のやつだろうなと思う。最近はもう、それくらいは読めるようになっていた。
「最近その“まあまあ”信用してないんだよな」
「失礼ですね」
「でも高いんだろ」
「……少しだけ」
「ほら」
栞は小さく笑う。
こういう会話ができるようになったのは、ここ数週間で確実に変わったことの一つだった。
湊はもともと、女子と積極的に仲良くなるタイプではない。苦手というほどではないが、必要以上に距離を詰めるのも、詰められるのも得意じゃない。
けれど栞は、その“必要以上”の線を絶妙に越えてこない。
近い。でも近すぎない。
話しかけてくる。でも押しつけない。
心配してくる。でも踏み込みすぎない。
だから、気づけば一番自然に話せる女子になっていた。
その感覚が、最近はさらに少しだけ変化している。
“自然に話せる”だけでなく、気づけば栞のほうから湊の近くへ来ていることが増えてきたのだ。
二限の休み時間。
前の席の男子が飲み物を買いに出た隙に、栞が「少しだけ失礼します」と言ってその席へ腰かけた。
何の違和感もない流れだった。
「英語のノート、昨日まとめ直したんですけど」
そう言って、栞は自分のノートを開いて見せてくる。
「この文法、朝比奈くんってどう覚えてます?」
「え、どうだろ。感覚かも」
「それがいちばん困る答えです」
「ごめん」
「でも、朝比奈くんって意外と感覚型ですよね」
「意外って」
「もっとコツコツ派に見えます」
「見た目だけで判断してない?」
「半分くらいは」
静かな会話だ。
なのに不思議と途切れない。栞は話を広げるのがうまいというより、こちらが構えなくていい空気を作るのがうまいのだと思う。
「白瀬さんって、教えるのも上手いよな」
「そうですか?」
「押しつけがましくないし」
「それはたぶん、自分も押しつけられるのが苦手だからです」
「なるほど」
そういう感覚は、少しわかる。
湊も、距離を詰められすぎると引いてしまうところがある。だからこそ栞の静かな近さは、居心地がいいのかもしれない。
そこで不意に、教室の窓際から笑い声が聞こえた。
湊は反射的にそちらを見てしまう。
黒瀬が女子グループの中でスマホを見せながら何か話していた。こちらを見ているわけではない。だが、湊がそちらを見た瞬間、黒瀬の目線がほんの一度だけ跳ねるように動いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも最近、その“気のせいかもしれない”がだいたい気のせいではない。
「朝比奈くん?」
栞の声で我に返る。
「あ、悪い」
「いえ。……また考え事でした?」
「そんなに顔に出る?」
「今は少し」
栞は湊の視線の先を追うように、ほんのわずかだけ窓際を見た。
それだけで、妙にどきりとする。
栞は何も言わない。
ただ、何かを見たような、でも見なかったことにしたような、そんな静かな顔をした。
「今日、放課後空いてますか?」
不意にそう聞かれた。
「ん? まあ、たぶん」
「図書室で、次の提出用のレポート資料を探したいんですけど」
「手伝い?」
「お願いしてもいいですか」
言い方が丁寧すぎて、断る理由がなくなる。
「いいよ。そのくらい」
「ありがとうございます」
そこで栞は、いつもより少しだけ柔らかく笑った。
大げさじゃない。ほんの少しだけ、嬉しそうな笑い方。
その表情を見て、湊は妙な違和感を覚えた。
違和感というより、再確認に近い。
やっぱりこの子、普通にかなり可愛いのでは。
前から整っているとは思っていた。だが最近、それが“整っている”の範囲を越えてきている気がする。
メガネと前髪と地味な雰囲気が、その印象を抑えているだけで、笑った時の目元や口元の線はかなり綺麗だ。
栞がその自覚をどれくらい持っているのかはわからない。
でも、もし本人が意図的にそれを隠しているのだとしたら、相当うまくやっていると思う。
昼休み、栞はまた自然に湊の近くへ来た。
今度はプリント回収のついでだった。クラス委員でもないのに、こういう細かいことをさらっと手伝っているのが栞らしい。
「朝比奈くん、これ先生に持っていく分です」
「了解」
「ありがとうございます」
机越しに紙束を受け取る。その時、栞の指先がほんの一瞬だけ湊の手に触れた。
ただそれだけのことなのに、栞は小さく「あ」と言ってすぐに手を引いた。
「すみません」
「いや、別に」
「最近ちょっと慌ててるかもしれません」
「白瀬さんが?」
「私だって慌てる時ありますよ」
そう言って苦笑する。
その表情もまた、やっぱり少し印象的だった。
湊が紙束を持って立ち上がった時、廊下側の席の男子が、何気ない調子で言った。
「朝比奈って最近、白瀬さんとよく話してるよな」
その一言に、湊は一瞬だけ肩を止めた。
「そうか?」
「そうじゃね。なんか普通に仲良くね?」
からかい半分、雑談半分の軽いノリだ。
深い意味はない。ないのはわかる。
それでも、栞がわずかに視線を伏せたのが見えてしまった。
「……委員会とか、ノートの貸し借りとかが多いだけです」
栞が静かにそう言う。
否定ではない。けれど、広げたくない空気をやわらかく閉じる言い方だった。
男子は「ふーん」とだけ返して、すぐ別の話題へ移った。
教室の空気は何も変わらない。
でも、その短いやり取りのあと、湊は少しだけ周囲の視線が気になるようになった。
そして同時に、窓際のほうからもう一つ別種の視線が来ている気がして、無意識にそちらを見たくなくなる。
見たら、何かを認めることになりそうだったから。
放課後。
約束通り、湊と栞は図書室へ向かった。
廊下を並んで歩く。
この並び方にも、いつの間にか違和感がなくなっていることに気づく。前は“たまたま一緒になったクラスメイト”という距離感だった。今はそれより少しだけ近い。
「レポート、何のテーマなんだっけ」
「現代文の自由課題です。好きな一冊を選んで、読後に自分の生活とどう重なったかを書く形で」
「ああ、あれか」
「朝比奈くん、まだ決めてないですよね」
「なぜわかる」
「顔で」
「便利だなその能力」
「たぶん、朝比奈くんがわかりやすすぎるんです」
図書室に入ると、夕方特有の静けさがあった。
日差しは少し傾いていて、窓際の机に斜めの光が落ちている。利用者は数人。ページをめくる音がかすかに響く。
栞は慣れた様子で棚の間を歩き、本を数冊抜き出していく。
「こういう課題って、内容が重すぎないほうが書きやすいんです」
「経験者っぽいな」
「経験者なので」
「たしかに」
湊も適当に背表紙を追っていく。
その途中で、栞がふっと振り向いた。
「朝比奈くん」
「ん?」
「これ、たぶん好きだと思います」
差し出されたのは薄い文庫本だった。
「なんでそう思うの」
「静かな話が好きそうなので」
「俺、そんなイメージ?」
「少なくとも、騒がしい話よりは」
「……当たってる」
「やっぱり」
少しだけ得意そうな顔をする。
そういう細かい表情の動きが、最近やけに目に入る。
栞は本を抱えたまま、棚の影で少しだけ声を落とした。
「朝比奈くんって、教室ではあんまり自分から輪に入らないですよね」
「そうだな」
「でも、人を見てないわけじゃない」
「それ、褒めてる?」
「はい」
即答だった。
「見てるのに、変に踏み込まないところ、たぶん好きな人多いと思います」
「……それ、白瀬さんも?」
言ってから、自分で少し驚いた。
こんなふうに返すつもりはなかったのに。
栞は目を瞬かせる。
そして、ほんの少しだけ頬をやわらかくして言った。
「……どうでしょう」
はぐらかしているのに、完全には逃がしてくれない言い方。
その瞬間、湊は妙な緊張を覚えた。
栞は大きなことを言わない。ぐいぐい来るタイプでもない。なのに時々、こうして一歩だけこちらの内側へ入ってくる。
その入り方が静かだから、むしろ気づくのが遅れる。
思ったより近い。
それが今の湊の率直な実感だった。
資料を数冊選び、窓際の机に並んで座る。
栞はメモを取りながら本をめくる。その横顔を見ていると、やはり目立たないのが不思議なほど整っていると思う。メガネがなければ、髪型を少し変えれば、教室でももっと視線を集めるだろうに。
だが本人はたぶん、それを望んでいない。
望んでいないからこそ、今のこの距離が成立しているのかもしれない。
「……朝比奈くん」
視線に気づいたのか、栞が手元の本から目を上げた。
「そんなに見られると、ちょっと困ります」
「ごめん」
素直に謝ると、栞は少しだけ笑った。
「いえ。悪い気分ではないんですけど」
その返しがまた、絶妙に近い。
「ただ、今日は少し近い気がします」
「何が」
「朝比奈くんの目線」
「……そんなつもりないんだけど」
「でも、そういう日ってありますよね」
栞はそう言って、ページをめくった。
「人がいつもより近く感じる日」
その言葉に、湊の胸が少しだけざわつく。
それは今日の黒瀬に対して感じていたことでもあり、今の栞に対して感じていることでもあったからだ。
教室では遠いはずの相手が、ふとした拍子に近く見える。逆に、普段は静かな距離にいる相手が、気づけば思っていた以上に近くへ来ている。
最近の学校生活は、その繰り返しだった。
帰り際、本を二冊借りることに決めて図書室を出ると、廊下の先に黒瀬の姿が見えた。
たぶん忘れ物でも取りに来たのだろう。もう帰ったと思っていたから、少し驚く。
黒瀬はこちらを見た。
湊と、その隣にいる栞を。
数秒だけ。
何も言わない。
何も言わないまま、わずかに目を細める。
栞はそれに気づいているのかいないのか、静かに会釈だけして、先に階段のほうへ向かった。
湊はその場に一瞬だけ残り、黒瀬と視線を交わす。
「……何」
小声で言うと、黒瀬は眉を上げた。
「別に」
やっぱりその返事かと思ったが、今日はそのあとに続きがあった。
「メガネ、近くない?」
低い声だった。
教室用のツンとは少し違う。夜の、機嫌を探るような声に近い。
「資料探すの手伝ってもらってただけ」
「ふーん」
「何その反応」
「別に。なんでもないし」
言いながらも、顔はあまり納得していない。
それが少しだけ可笑しくて、少しだけまずかった。
「……今日来るの」
湊が聞くと、黒瀬は一瞬だけ目を逸らした。
「……気分」
「また曖昧だな」
「曖昧でいいし」
「じゃあ来るかもってこと?」
「知らない」
でも、その“知らない”は、かなり“来る”に近い響きだった。
そして、それを当然みたいに読み取ってしまう自分も、たぶんもう相当だった。
黒瀬は先に廊下を曲がっていく。
その背中を見送りながら、湊は小さく息を吐いた。
教室で話しかけてくるメガネっ娘は、思ったより近い。
そして、夜の自分の部屋へ来るギャルは、昼の教室では思ったより遠い。
どっちも面倒で、どっちも気になって、だから余計に落ち着かない。
そんなややこしい日々が、今は少しずつ“普通”になり始めていた。




