ep.7 白瀬栞は、目立たないまま湊の隣にいる
夜が濃くなるほど、昼の輪郭が変わって見える。
朝比奈湊は最近、そんな面倒くさいことを考えるようになってしまった。
前までは、学校は学校、家は家で、もっときっぱり切り分けられていたはずだ。教室での人間関係を家まで引きずることもなければ、家で起きたことを翌日の学校で何度も思い出すこともなかった。
けれど今は違う。
夜に黒瀬琉衣奈が部屋へ来るようになってから、昼の教室の見え方そのものが少し変わった。
黒瀬のツンとした言い方。目を逸らすタイミング。友達と話している時の笑い方。少し機嫌が悪い時の口元。そういうものを、以前より細かく拾ってしまう。
そしてもう一つ。
白瀬栞が、思っていた以上に湊の学校生活の近くにいたことにも、少しずつ気づき始めていた。
その日の朝も、教室に入ってすぐに気配でわかった。
「おはようございます、朝比奈くん」
穏やかな声。
振り向くと、栞がプリントの束を抱えて立っている。黒髪は今日もきちんと整えられ、メガネの奥の目元は落ち着いていて、制服も乱れがない。派手さはまったくないのに、近くにいると妙に印象が残る。
「おはよう。今日も手伝い?」
「朝の配布が足りないので少しだけ」
「白瀬さん、いろいろ頼まれすぎじゃない?」
「たぶん断るのが下手なんです」
「自覚あるんだ」
「少しだけ」
そこで小さく笑う。
こういう会話が、もうだいぶ自然になっていた。
最初は“真面目なクラスメイト”くらいの認識だったのに、いつの間にか栞は、学校で普通に話せる相手の一人になっている。しかも男子女子の変な意識が挟まりにくい、ちょうどいい距離感で。
「これ、英語の小テストの答え合わせ用紙です」
「ありがとう」
「あと、昨日の範囲、ちゃんと見ました?」
「見た。一応」
「一応、ですか」
「その“一応”でやってきた人生だから」
「それはたぶん、あまり褒められないです」
静かに、でもきっぱり言われる。
押しつける感じではなく、あくまで事実として諭してくるのが栞らしい。
「白瀬さん、たまに先生っぽいよな」
「よく言われます」
「嬉しいのそれ」
「半々です」
その返しが妙に素直で、湊は少しだけ口元を緩めた。
ふと、視線を感じる。
教室の後方、窓際。見なくてもわかる気がして、でも見ないのも不自然な気がして、結局そちらへ目を向けた。
黒瀬琉衣奈が、友達と話しながら、ほんの一瞬だけこちらを見ていた。
本当に一瞬だ。
目が合ったと思った次の瞬間には、もう興味をなくしたように視線を逸らしている。
だが、その一瞬を拾ってしまった以上、湊の胸は少しだけ落ち着かなくなる。
……気にするな。
そう思うのに、無理だった。
昼の黒瀬は遠い。
でも完全に何も知らない他人には戻れない。
その曖昧さが、今の湊にはいちばん扱いづらかった。
一限の英語小テストは、思ったより悪くなかった。
終了後、栞が後ろの席から小さな声で聞いてくる。
「どうでした?」
「ギリギリ」
「それで済んでるなら十分です」
「白瀬さんは?」
「たぶん大丈夫だと思います」
「たぶん、で大丈夫なやつだろそれ」
「そうでもないですよ。私も緊張しますし」
「してるように見えない」
「見せないようにしてるだけです」
栞はさらっとそう言った。
何気ない言葉なのに、少しだけ引っかかる。
見せないようにしているだけ。
その表現は、なぜだか黒瀬にも重なった。
強気な顔、ツンとした態度、近寄りがたい空気。それらもまた、ある種の“見せ方”なのかもしれないと、ふいに思う。
「朝比奈くん?」
「あ、いや」
「考え事ですか」
「最近多いな、それ」
「そうですね。少し増えました」
「見ててわかる?」
「わかります」
即答だった。
しかも冗談っぽくない。
湊が返答に困っていると、栞は少しだけ首をかしげた。
「何か悩みごとがあるなら、相談に乗ることくらいはできますよ」
「そこまでじゃないよ」
「そうですか」
引かないし、押しつけてもこない。
ただ、必要ならここにいます、という距離感で立っている。
それが栞の近さなのだと湊は思った。
黒瀬の近さとはまるで違う。
黒瀬は夜に突然やってきて、ソファに沈んで、カフェラテを飲んで、気づけば寝落ちする。距離は近いのに、理由は曖昧で、触れたら崩れそうな不安定さがある。
栞は逆だ。
昼の教室で、廊下で、図書室で、配布プリントの端で。目立たないまま、でも確実に湊の生活の近くにいる。
どちらがどうという話ではない。
ただ、違う。
その違いを意識してしまうくらいには、今の湊の中で二人の存在が大きくなり始めていた。
二限の休み時間、担任に呼ばれて職員室前まで書類を持っていくことになった時も、栞は自然についてきた。
「私、ついでに図書委員の確認もあるので」
「ああ、そっか」
並んで廊下を歩く。
栞は足音まで静かなタイプだ。制服のスカートの揺れ方も落ち着いていて、動作全体に無駄がない。地味、と一言で片づけるには整いすぎている気が最近していた。
最初は本当に“真面目なメガネっ娘”という認識だった。
でも近くで話すたびに、輪郭のきれいさとか、肌の白さとか、目元の涼しさとか、そういうものが目に入る。メガネと前髪と控えめな表情のせいで目立たないだけで、素材だけ見ればかなり整っている。
そう思ってからは、逆に彼女の“地味さ”が意図的にも見えるようになってきた。
「白瀬さんって」
「はい?」
「目立つの苦手?」
なんとなく聞くと、栞は一瞬だけ足を止めかけた。
それから、すぐにいつもの穏やかな速度へ戻る。
「……苦手ですね」
「やっぱり」
「どうしてそう思ったんですか」
「いや、なんか」
言葉を探す。
「もっと、目立とうと思えば目立つのに、そうしてない感じがする」
言ったあとで、少し踏み込みすぎたかと思った。
だが栞は嫌そうな顔をしなかった。代わりに、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「朝比奈くん、たまに変なところ鋭いです」
「変なところって」
「普通はそこまで見ないので」
「見てるつもりはないんだけど」
「そういうところです」
何がそういうところなのかはわからない。
けれど、栞はそれ以上ごまかさずに続けた。
「目立つと、面倒なことも増えるじゃないですか」
「それはわかる」
「私は、静かなほうが楽なんです」
その言い方は軽いのに、妙に本音っぽかった。
職員室前に着き、湊が書類を提出している間、栞は少し離れた掲示板を見て待っていた。戻ると、彼女は何事もなかったように言う。
「今の話、秘密にしてくださいね」
「そんな大げさな話だった?」
「私にとっては、少し」
そう言って、メガネの位置を軽く直す。
その仕草が妙に似合っていて、湊は一瞬だけ見とれそうになった。
やっぱりこの子、普通に綺麗だよな。
前髪とメガネと地味な雰囲気に隠れているだけで。
その結論にたどり着いた瞬間、なぜか背中がざわついた。
教室へ戻ると、理由はすぐにわかった。
窓際の席から、黒瀬がこっちを見ていたからだ。
今度は一瞬ではない。
職員室前から栞と並んで戻ってきた湊を、黒瀬は数秒、無言で見ていた。
「……何」
思わず小声で言ってしまう。
すると黒瀬は目を細めた。
「別に」
声はいつも通りだ。
けれど、明らかにいつも通りではない。
「その別に、最近多すぎない?」
つい言うと、黒瀬の眉がぴくりと上がった。
「は?」
「いや、何でもないならそんな見ないだろ」
「見てないし」
「見てた」
「朝比奈が自意識過剰なだけ」
「それ便利だな」
「なにが」
「否定すれば済む感じ」
「済むし」
そこで友達の一人が「るいなー」と呼んだ。
黒瀬はすぐにそちらへ顔を向け、会話を切る。
まるで最初から湊と話していなかったみたいな速度だった。
切り替えが早い。
でも、ゼロじゃない。
そのことが逆に厄介だ。
昼休み、栞はいつも通り自席で小さめの弁当を開いていた。湊は購買のパンを片手に自分の席へ戻ったが、前の席の男子が友達のところへ行っていて少し空いていたため、栞が自然な口調で聞いてくる。
「ここ、座りますか?」
「いいの?」
「どうぞ」
それはたぶん深い意味のない一言だった。
ただ、断る理由もない。
湊は前の席に軽く腰かけ、紙パックの牛乳をストローで吸いながらパンをちぎる。
栞の弁当は今日もきれいだった。彩りは控えめなのに、詰め方が丁寧で、見た目に無理がない。
「白瀬さんって、自分で作ってるの?」
「半分は。残りは母が」
「ちゃんとしてるな」
「朝比奈くんに言われると、少し変な感じです」
「なんで」
「朝比奈くんも料理するじゃないですか」
「それは生きるためだから」
「私も似たようなものです」
そう言って、栞は小さく笑った。
そのタイミングで、ふっと教室の空気が少しだけ変わる。
原因はすぐわかった。
黒瀬のグループが移動してきたのだ。教室後方から窓際にかけて、女子たちのにぎやかな声が近づく。
会話の内容は雑誌だの動画だの、取り立てて珍しくもないものだったが、その中で黒瀬だけが不自然なほどこちらを見ない。
見ないのに、湊には気づいているとわかる。
そのわかりやすさに気づく自分が、もうだいぶ末期だと思う。
「朝比奈くん?」
栞が箸を止めた。
「また考え事ですか」
「そんなに顔に出る?」
「少し」
「困るな」
「でも、今の朝比奈くんはわかりやすいです」
「白瀬さんにだけ?」
「……どうでしょう」
そこで栞は、ほんの少しだけ視線を横に流した。
その先に黒瀬がいることに、湊は一拍遅れて気づく。
栞は気づいているのか。
黒瀬の視線や空気の変化に。
そう考えた瞬間、妙な緊張が走る。
だが栞は何も言わない。追及も、好奇心も見せない。ただ静かに、今見えたものを頭の中へしまい込んだような顔をしていた。
放課後、図書室に返却する本があったことを思い出し、湊はひとりで向かった。
静かな空間だ。夕方の図書室は特に人が少なく、ページをめくる音と、たまに机を引く音くらいしか響かない。
貸出カウンターに本を置くと、そこにいたのは栞だった。
「あれ、今日図書委員の日?」
「はい。たまたまです」
「たまたま多くない?」
「そうかもしれません」
また笑う。
彼女は本を受け取り、返却処理をしながら尋ねた。
「この本、面白かったですか」
「まあまあ。途中までは」
「途中までは、ですか」
「最後がちょっと駆け足で」
「では、次はもう少しゆっくりした話のほうが合うかもしれませんね」
「そんなのある?」
「ありますよ」
栞は立ち上がり、棚の間を静かに歩いていった。
しばらくして戻ってきた手には、一冊の文庫本がある。
「これ、読みやすいです。静かな話ですけど」
「白瀬さん、こういうの好きそう」
「好きです。派手じゃないけど、あとから残るので」
その言い方に、また少しだけ本音が混じる。
栞の魅力は、こういうところにあるんだろうなと湊は思った。
大声で主張しない。目立とうとしない。けれど、近くにいるとその静かさの輪郭が少しずつ見えてくる。
黒瀬とは真逆だ。
黒瀬は最初に強い印象を置いていく。そのあとで夜に崩れる。
栞は最初は地味だ。けれど近づくほど、隠れていたものが見えてくる。
どちらも反則だろう、と思う。
「ありがとうございます」
本を受け取りながら言うと、栞は首を横に振った。
「感想、あとで聞かせてください」
「読む前提なんだ」
「読まないんですか?」
「読むよ」
「ならよかったです」
カウンター越しのその距離は近すぎないのに、なぜだか妙に落ち着く。
湊が図書室を出た時には、もう日がかなり傾いていた。
廊下を歩きながら、ポケットのスマホが小さく震える。
反射的に取り出したが、通知は何でもないニュースアプリだった。
――黒瀬の連絡先は、まだ知らない。
そんなことを思い出した瞬間、自分でも笑えてきた。
夜に何度も部屋へ来て、ソファで寝落ちまでしている相手の連絡先を知らない。
普通じゃない。
でも、今の自分たちの関係は、たぶん“普通じゃない”ほうが自然だった。
学校では遠くて、夜だけ近い。
そして学校では、白瀬栞が目立たないまま湊の隣にいる。
この二重構造が、思った以上に自分の中で大きくなっているのを感じながら、湊は下駄箱へ向かった。
今夜、インターホンが鳴るかどうかはわからない。
でも、もし鳴った時、今日の図書室のことや、栞のことを黒瀬はまた“別に”みたいな顔で聞いてくるのかもしれない。
そんな未来を少しだけ想像してしまった時点で、もうだいぶ引き返せないところまで来ている気がした。




