ep.6 ソファで寝落ちしたギャルは、少しだけ素直だった
次の日の学校で、黒瀬琉衣奈はいつも通りだった。
――いつも通り、という言葉がここまで信用ならないものになるとは思わなかったが。
朝比奈湊が教室へ入った時、黒瀬は窓際の席で友達とスマホを見ていた。髪はきれいに巻かれ、メイクも整っていて、制服も校則ぎりぎりの着こなしで完璧だ。昨日の夜、湊のTシャツを着て、玄関で少しだけ照れた顔をしていた同じ人間だとは到底思えない。
いや、思える。思えるからこそ困る。
昼の顔と夜の顔、その両方を知ってしまったせいで、湊の視線は勝手に黒瀬の小さな変化を拾うようになっていた。
いつもより少しだけ機嫌がいい、とか。
逆に、今日のツンは少しだけ強めだ、とか。
目が合った気がしたのにすぐ逸らされた、とか。
いちいち気にするな、と自分に言い聞かせても、もうだいぶ手遅れだった。
その日もホームルームが始まる前、湊は自席で教科書を机に入れ替えながら、前方の窓際にいる黒瀬を意識しないよう努力していた。
努力したところで、気になるものは気になる。
昨日の夜、彼女が帰る時に着ていた自分のTシャツは、そのままちゃんと回収できた。浴室乾燥にかけていた黒瀬のニットも、朝にはほぼ乾いていたから、今晩もし来るなら返すことになるだろう。
――もし来るなら。
その“もし”が、最近はだいぶ当たり前に感じられるようになってしまっている。
「朝比奈くん」
静かな声がして、湊は顔を上げた。
白瀬栞が、ノートを胸の前で抱えるように持って立っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日のクッキー、美味しかったですか」
「うん、普通に美味しかった。あれ白瀬さんが作ったの?」
「はい。簡単なやつですけど」
「簡単であれなら十分すごいと思う」
「……そう言ってもらえると嬉しいです」
控えめに笑う。
栞は相変わらず穏やかで、話していると肩の力が抜ける。学校の空気に馴染みながら、でも埋もれきらない。そういう不思議な存在感がある。
「今日は何か手伝うことある?」
昨日のパン代の代わり、という意味で聞くと、栞は少しだけ目を丸くした。
「では、もし放課後に残っていたら、英語の小テストの範囲、一緒に確認してもらってもいいですか」
「そんなのでいいの」
「朝比奈くん、教えるの上手そうなので」
「買いかぶりすぎじゃない?」
「たぶん、そうでもないです」
栞はそう言って、小さく会釈して自席へ戻っていった。
その後ろ姿を目で追いかけた瞬間、妙な視線を感じた。
窓際。
黒瀬がこっちを見ていた。
本当に一瞬だけ。けれど、はっきりと目が合った。
そして次の瞬間には、なにごともなかったように顔を逸らす。
湊は小さくため息を飲み込んだ。
気にしてるだろ、それ。
そう思うのに、本人は絶対認めないだろうという確信まである。
昼休みも似たようなものだった。
栞がプリント整理をしているのを手伝い、数分だけ一緒に話していると、少し離れた場所から黒瀬の友達の笑い声が聞こえてくる。黒瀬本人はそっちにいるはずなのに、気づけば視線がこっちへ飛んできていたりする。
それがただの偶然なのか、それとも意味のある視線なのか。以前なら気にも留めなかったはずなのに、今の湊はそれをいちいち拾ってしまう。
面倒だ。
でも嫌ではない。
その感情がいちばん厄介だった。
放課後になり、英語の小テスト対策を栞と少しだけ確認してから、湊はまっすぐ帰宅した。
今日は早めに帰れたこともあって、部屋の中はいつもより明るい夕方の色を残している。制服を脱いで部屋着に着替え、洗濯機を回し、昨日受け取った黒瀬のニットを畳んでソファの背にかけた。
返す準備だけは、してしまっている。
来る前提で動いている自分に軽く引くが、もう引いたところで手遅れだ。
スマホを見る。黒瀬の連絡先は、まだ知らない。
昨夜、今度教えるみたいな話になったはずなのに、結局渡されなかった。学校であれだけ徹底して線を引いてくる相手が、そう簡単に連絡先まで寄越すわけがないと考えれば納得はできる。
だから、今夜もインターホン待ちになる。
不便だし、非効率だ。
なのに、それが妙にこの関係らしくも思えてしまうのだから困る。
夜七時過ぎ。
夕飯の下ごしらえを終えて、軽くストレッチをしていたところでインターホンが鳴った。
最近、心臓がこの音に慣れない。
湊は体を起こし、モニターを覗く。
やはり黒瀬だった。
今日は制服のままだった。けれどネクタイはゆるく、シャツの第一ボタンも外れている。髪も朝より少し崩れていて、明らかに疲れている顔だ。
「どうした」
ドアを開けると、黒瀬は玄関の前で少しだけ眉を寄せた。
「どうしたってなに」
「いや、今日なんか……」
「なに」
「疲れてる?」
湊がそう言うと、黒瀬は一瞬だけ目を伏せた。
「……まあ、ちょっと」
珍しく、即座に否定しなかった。
その時点で、かなり疲れているのだとわかった。
「入れば」
「ん」
黒瀬は靴を脱ぎ、いつもよりずっと静かに部屋へ上がる。
ソファに座るなり、背もたれへぐったりと体を預けた。
「今日、学校でもちょっと元気なかったよな」
「見てたの」
「まあ、同じクラスだし」
「……キモ」
「その反射的な悪口やめろよ」
「でも見てたんだ」
「たまたま目に入っただけ」
「ふーん」
そこにいつもの刺はあるが、鋭さは鈍い。
湊はキッチンから水を持ってくる。
「はい」
「ありがと」
素直に受け取る。やっぱり疲れている時は隠す元気も薄れるらしい。
「なんかあった?」
ローテーブルを挟んで座りながら聞くと、黒瀬はペットボトルの水をひと口飲んだあと、小さく息をついた。
「テスト前なのに、家もうるさいし、学校でもだるいし、なんか全部めんどかった」
「全部まとめて雑だな」
「だってそうだし」
それから、少し間を置いて付け足す。
「あと、あたし寝不足」
「夜更かし?」
「……そんな感じ」
たぶん違う。
でも今はそれ以上聞かないほうがいい気がした。
「勉強する?」
机の上に散らばっていた参考書へ視線をやると、黒瀬は「はー」と大きく息を吐く。
「したくない」
「正直だな」
「でもやんなきゃやばいし」
「じゃあ持ってきたら」
そう言うと、黒瀬は鞄からルーズリーフと教科書を出してローテーブルに広げた。
ところが五分もしないうちに、彼女の集中は目に見えて切れた。
シャーペンを回す。問題文を眺める。眉をひそめる。ため息をつく。ページをめくる。止まる。戻る。
わかりやすい。
「……進んでないな」
「うるさ」
「英語?」
「数学」
「それは俺も得意じゃない」
「使えな」
「言い方」
黒瀬は問題集に頬杖をつき、いかにも面倒そうに数字を睨む。
だがその姿勢のまま、だんだんまぶたの動きが重くなっていくのがわかった。
「……黒瀬」
「なに」
「寝るなよ」
「寝ないし」
返答がすでに遅い。
「寝てるだろ今半分」
「寝て……ない」
その“ない”の後半が、ほとんど息みたいに薄かった。
湊は小さく息をついて、キッチンへ立った。
「コーヒーでも淹れようか」
「……いらない」
「カフェラテなら?」
「……それなら」
「それなら、じゃないんだよ」
苦笑しながらお湯を沸かす。
こうしている時間が、いつの間にかすっかり自然になっているのが不思議だった。
黒瀬が夜に来る。
湊が飲み物を出す。
どうでもいい会話をして、少しだけ空気がゆるむ。
まだ四回目か五回目のはずなのに、妙に馴染んでいる。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬は問題集の上に頬を乗せかけていた。
「ほら」
「……ん」
両手でカップを包み込むように受け取り、一口飲む。
少しだけ顔がほどける。
「生き返る」
「大げさだな」
「今のあたしには大事だし」
「そこまで?」
「……うん」
珍しく肯定が小さい。
黒瀬はカップを持ったまま、ソファに深く体を埋めた。問題集はもう膝の上に移動しているだけで、見ていないに等しい。
「今日、帰ったらすぐ寝ればいいのに」
湊がそう言うと、黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
「家だと寝れない時あるし」
「……そっか」
「なにその返し」
「いや、なんか軽く言っていい感じでもないなと思って」
「ふーん」
黒瀬はカップの縁を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……朝比奈んち、静かだから」
「前も言ってたな」
「ここ、変に気ぃ抜けるし」
「それ俺にとっては複雑なんだけど」
「なんで」
「女子が警戒心なくしてるってことだろ」
「朝比奈だからだし」
さらっと言われて、湊の手が止まった。
「……そういうの、普通に言うなよ」
「なんで?」
「いや、なんでって」
「別にいいじゃん。朝比奈だし」
朝比奈だし、の意味が雑すぎる。
信頼されているのか、男として見られていないのか、その両方なのか。どちらにしても微妙に心に刺さる言い方だった。
「ちょっと複雑なんだけど」
「めんど」
「そっちが言ったんだろ」
「でも本音だし」
そう言ってから、黒瀬はカップを机に置いた。
そして問題集へ視線を戻した――ように見えたが、数分後には完全に止まっていた。
シャーペンを持つ手が止まり、視線も文字の上で固まっている。
「黒瀬」
「……」
「おい」
「……ん」
返事はある。
だが、もうほとんど起きていない。
「ベッド行くか?」
「行かない……」
「ソファで寝るのかよ」
「……ここでいい」
そう言った直後、こくり、と頭が前に落ちた。
ついに寝た。
湊は思わず笑いそうになって、それを慌てて飲み込む。
無防備すぎる。
学校ではあれだけツンツンして、男子なんて全部面倒そうにあしらっているくせに、夜の部屋では勉強道具を広げたまま寝落ちする。
その落差に慣れたくないと思いながら、もうだいぶ慣れ始めている自分がいる。
湊はそっと立ち上がり、机の上の問題集とルーズリーフを片づけた。シャーペンの芯が折れないようにペンケースへ入れ、教科書は揃えて鞄の横に置く。
それから押し入れから薄手の毛布を出し、ソファで眠っている黒瀬の肩にかけようとした。
その時。
ぐい、と手首が引かれた。
「……っ」
反射的に息を呑む。
眠ったままの黒瀬が、無意識に湊の手首を掴んでいた。
細い指が思ったよりしっかりと力を持っていて、簡単には外れない。
「黒瀬?」
小さく呼ぶ。
返事はない。
だが彼女は少しだけ眉を寄せ、寝言のような声で呟いた。
「……帰んないで」
耳を疑った。
あまりに小さくて、空気に混ざりそうなくらいだった。それでも、たしかにそう聞こえた。
「……」
湊は動けなかった。
帰るも何も、自分の部屋だ。そんなツッコミは頭に浮かんだのに、口には出せない。
たぶん本人は起きていない。
起きていたら絶対に言わない類いの言葉だ。
だからこそ、余計にまずかった。
胸の奥が妙に熱くなる。
こんなの、反則だろう。
学校では“キモ”だの“うざ”だの言ってくるツンなギャルが、眠っている間だけこんなふうに本音みたいなものを漏らすなんて。
「……離せよ」
小声で言ってみるが、当然効果はない。
黒瀬はむしろ少しだけ指先に力を込め、湊の手首を抱え込むように引き寄せた。
ソファの端に半分体を引っぱられるような形になり、湊は仕方なくその場に腰を落とした。
近い。
近すぎる。
寝息がかかるほどではないが、かなり近い。黒瀬の髪から甘いシャンプーの匂いがする。日焼けした肌は、夜の照明の下だとやわらかく見える。まつ毛が長い。メイクを落とした顔は、昼よりずっと幼い。
そして、眠っているせいで無防備だ。
湊は視線の置き場に困り、天井とテレビとローテーブルを順番に見たあと、結局また黒瀬の顔へ戻ってしまう。
ずるい。
こんなのを見て、何も思うなというほうが無理だ。
でも、だからといって何をするわけにもいかない。
するつもりもない。
ただ、手首を掴まれたまま、ソファの端で変に緊張した姿勢を続けるしかない。
十数分、あるいはもっと短かったかもしれない。
時間の感覚が曖昧になった頃、黒瀬の指先の力が少しだけ緩んだ。
今なら、とそっと手首を抜く。
今度は成功した。
湊はなるべく音を立てずに立ち上がり、ようやく毛布を肩まで掛けてやる。
黒瀬はむずがるように少しだけ身じろぎしたが、起きる気配はない。
そのまま、ソファの上で静かな寝息を立てている。
「……ほんと、なんなんだよ」
また同じことを呟いていた。
部屋の中にはテレビの小さな音と、冷蔵庫の稼働音、それから規則的な寝息だけがある。
湊は一度だけ深く息を吐き、ダイニング側の椅子に腰を下ろした。
課題を再開する気にはなれない。
ノートを開いても、今はたぶん何も頭に入らない。
だから、ただそのまま時間をつぶすしかなかった。
ソファで眠る黒瀬を起こさないように、スマホの音量を切り、画面の明るさを下げる。無意味にニュースを流し見して、同じ見出しを二回読んで、それでもほとんど中身が入ってこない。
頭の中では、さっきの一言が何度も繰り返されていた。
――帰んないで。
寝言だ。
そう思えば済む。
でも、寝言だからこそ反則だった。
起きている彼女なら、絶対にそんなことは言わない。言ったとしても、きっとそのあとすぐ悪態をついてごまかす。
なのに眠っている間だけ、そんなふうに弱さが漏れる。
それを知ってしまったら、学校であのツンツンした顔を見ても、もう何も知らないふりはできない。
夜十一時を少し過ぎた頃、黒瀬が小さくうめくような声を出して目を覚ました。
「……ん……」
まぶたがゆっくり開く。
数秒、どこにいるかわからないような顔をしていたが、やがて視線が部屋の中をぐるりと巡り、湊を捉えた。
「……あ」
「起きた?」
「……寝てた?」
「かなり」
「うわ、最悪……」
額を押さえ、黒瀬はソファの背にもたれたまま固まる。
顔が少し赤い。寝起きのせいなのか、寝落ちしたことへの恥ずかしさなのかはわからない。
「勉強しながら意識飛んでた」
「途中からほぼしてなかったけどな」
「……どれくらい」
「一時間弱」
「最悪じゃん」
言いながら、黒瀬は毛布に気づいた。
そして自分の肩から膝まで掛かっているそれを見て、すぐに湊へ視線を向ける。
「……これ」
「毛布」
「見ればわかるし」
「じゃあ聞くなよ」
「そうじゃなくて」
言い淀む。
たぶん、どこまで何を覚えているか確認したいのだろう。
湊は少しだけ迷って、余計なことは言わないことにした。
「風邪ひくとまずいから掛けただけ」
「……そっか」
黒瀬はそれ以上は聞いてこなかった。
寝言のことも、手首を掴んだことも、たぶん覚えていない。
その事実にほっとする気持ちと、少しだけ物足りない気持ちが同時にあるのが嫌だった。
「帰る?」
湊がそう言うと、黒瀬はまだ眠気の残る顔でこくりと頷いた。
「うん……さすがに」
「送る」
「いらないし。隣だし」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
立ち上がった黒瀬は、少しだけふらついた。やっぱりまだ眠いらしい。
湊はとっさに手を出しかけて、ぎりぎりで止めた。起きている黒瀬は、そのへんに妙に敏感だと知っているからだ。
だが彼女のほうは、ふらついたあと小さく鼻を鳴らしただけで、気にした様子はなかった。
「……ありがと」
玄関で靴を履きながら、ぼそっと言う。
「何に」
「毛布とか、起こさなかったのとか」
「起こしてもよかったけど」
「それはやだ」
「言うと思った」
「だって眠かったし」
そこで少しだけ顔を上げる。
学校ではほとんど見せない、やわらかい目だった。
「……朝比奈んち、寝やすい」
「それ、男の部屋に対して言う台詞じゃないだろ」
「朝比奈だから言ってんの」
またそれだ。
便利な言葉だなと思う。こっちの心拍数だけ上げて、本人は悪気がない。
「複雑だって」
「めんど」
でも、その“めんど”の声音は完全に甘かった。
ドアを開ける。廊下の空気は少しひんやりしている。
出ていく直前、黒瀬は小さくあくびを噛み殺した。
「……また来るかも」
「最近それ、事後報告みたいになってないか」
「いいじゃん別に」
「よくない」
「じゃあ来ないほうがいい?」
そこで初めて、黒瀬は少しだけ不安そうな顔をした。
ほんの一瞬だったが、湊は見逃さなかった。
「……いや」
答えたのは、ほとんど反射だった。
「来てもいい」
言ったあとで、自分が何を言っているんだと思った。
だが黒瀬は、それを聞いて少しだけ口元を緩めた。
「ん」
それだけ。
それだけ言って、彼女は自室のほうへ歩いていく。
その背中を見送りながら、湊は玄関のドア枠に手をついた。
ソファで寝落ちして、寝言で引き止めて、起きたら何も覚えていない顔をして、それでも最後には“また来るかも”と言う。
こんなの、ずるいに決まっている。
夜の黒瀬は、少しずつ反則になっていく。
そして湊自身も、もうその反則を拒む気が薄くなってきている。
ドアを閉めたあと、部屋の中はまた静かになった。
けれど今夜の静けさは、最初から一人だった頃の静けさとは明らかに違っていた。




