ep.5 湊のTシャツを着たギャルは、学校の誰にも見せられない
その日の夜、朝比奈湊は自分でも驚くくらい、インターホンの音を待っていた。
待つつもりなんてなかった。
学校の階段踊り場で黒瀬琉衣奈に「夜は来るかも」と言われた時も、平静を装っていたつもりだったし、家に帰ってからも、なるべくいつも通りに過ごそうとしていた。
制服を脱いで部屋着に着替え、洗濯機を回し、米を炊く。冷蔵庫の残りを確認して、簡単な味噌汁を作る。提出期限の近い課題を半分だけ進める。スマホで動画を流し見しながら、適当なタイミングで風呂を済ませる。
普段と変わらないはずの手順。
なのに、どこか落ち着かなかった。
キッチンで包丁を洗っている時も、ドライヤーで髪を乾かしている時も、視界の端が勝手にインターホンのモニターのほうを気にしている。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
その曖昧さが、妙に心をそわつかせた。
待つのなんて性に合わない。
……たぶん。
でも一度そういう相手が現れてしまうと、静かな夜は簡単に静かなままではいてくれないらしい。
時計が九時を回った頃、湊はテーブルにノートを広げていた。英語の課題の続きを片づけるつもりだったが、三行進んだところで止まっている。
単語の意味が頭に入らない。
何度目かわからないため息をついた、そのタイミングで。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「……っ」
反射で背筋が伸びる。
すぐに立ち上がるのも変だと思って一呼吸おいたが、その一呼吸の意味はたぶん何もなかった。早足で玄関へ向かい、モニターを覗く。
やっぱり黒瀬だった。
今日は学校帰りの私服に上着を足したような格好ではなく、完全に家の中用のラフな服装だ。薄いベージュのゆるいニットに、黒のショートパンツ。その上から軽く羽織ったパーカーも、肩にひっかけるような感じで着ているだけだった。髪はおろしたまま。メイクもごく薄い。
学校の誰が見ても、同じクラスの黒瀬琉衣奈だとは気づくだろう。けれど同時に、誰にも見せていない表情をしているのもわかる。
強気なギャルの顔じゃない。
どこか所在なさげで、少しだけ気が抜けていて、それでも見透かされたくはない顔。
湊は鍵を開けた。
ドアを開くなり、黒瀬は半目でこちらを見上げる。
「……遅」
「一秒も待たせてないだろ」
「気分的に」
「理不尽だな」
「別に来たくて来たわけじゃないし」
「じゃあ帰る?」
「帰んないけど」
その返しの速さに、つい笑いそうになる。
黒瀬は靴を脱ぎながら、少しだけ視線を泳がせた。
「家、ちょっとうるさくて」
「また?」
「……また」
詳しくは言わない。
でも、前よりほんの少しだけ“事情がある”ことを隠さなくなっている気がした。
「とりあえず入れば」
「ん」
小さく頷いて、黒瀬はいつものようにソファのほうへ歩いていく。
――いつものように。
そう思ってしまったことに、湊は内心で自分に突っ込んだ。まだ三回目だ。なのにもう“いつものように”なんて言葉が出てくる時点でだいぶ危うい。
黒瀬はソファに腰を下ろす前に、ふっと鼻を鳴らした。
「……なんかいい匂いする」
「味噌汁」
「地味」
「夜食に派手さ求めるなよ」
「ギャルなめてんの?」
「どんな方向に?」
「知らないけど」
そう言いながらも、声にいつもの鋭さはない。
湊はキッチンへ向かい、味噌汁の火を弱める。作ってあったのは豆腐とわかめの無難なやつだ。夜中に重いものを食べるほどでもないし、自分一人ならこれでいいと思っていた。
「なんか飲む?」
「昨日の」
「カフェラテ?」
「うん」
「昨日のって普通に言うようになったな」
「だって名前長いし」
「カフェラテで長いのか」
「朝比奈よりは短い」
「比較対象おかしいだろ」
ケトルを火にかけ、カップを二つ出す。
会話が流れていく。無理やりではない。勝手にそうなる。
学校の階段で交わした短い会話が、たしかに今夜へつながっていたのだと実感する。
問題は、その実感が思った以上に嬉しいことだった。
「今日、白瀬と何話してたの」
いきなり黒瀬がそう言った。
湊は振り返る。
「またそれ?」
「またってなに」
「気にしてるみたいな言い方」
「してないし」
「じゃあなんで聞くんだよ」
「……なんとなく」
なんとなく、で押し切ろうとしている時点でだいぶ怪しい。
けれど黒瀬本人にその自覚はないのか、あるけど認めたくないだけなのか、そこで口を尖らせて黙りこんだ。
「焼きそばパン頼まれただけ」
「へえ」
「へえ、の時点で信用してないだろ」
「別に」
「ほんと便利だな、その別に」
「朝比奈こそ、白瀬とは普通に喋るよね」
言いながら、黒瀬はローテーブルに肘をついた。
その姿勢で前屈みになると、ゆるいニットの胸元に少しだけ影が落ちる。見てはいけないと思うほど目に入りやすくなるのはなんでなんだ、と湊は理不尽さを感じながら慌てて視線を逸らした。
「……なに」
すぐに黒瀬が反応する。
「見てない」
「今ぜったい変なとこ見た」
「見てないって」
「顔赤いし」
「気のせい」
「じゃないし」
湊はもう何も言わず、湯を注ぐことに集中した。こういう時、下手に弁解すると余計に深みにはまる。
背中越しに、黒瀬が小さく笑った気配がした。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はもうさっきの追及を忘れたみたいな顔をしていた。
「ありがと」
さらっと言われて、湊のほうが少し詰まる。
「……今日は言うんだな」
「は?」
「礼」
「別に、気分だし」
「その気分の波どうなってんだよ」
「うっさい」
でも怒ってはいない。
むしろ少し機嫌がいい時の声だと、もうわかってしまうのが嫌だった。
その時だった。
黒瀬がカップを取ろうとした拍子に、袖口がテーブルの縁に引っかかった。
「あ」
次の瞬間、マグカップが傾く。
甘い液体が白いニットの前面に飛んだ。
「っ、熱……!」
「うわ、ごめん!」
湊は反射的にティッシュ箱を掴んで差し出す。黒瀬は慌てて立ち上がり、ニットの胸元や袖を押さえた。幸い、火傷するほどではないらしい。けれど服にはしっかりシミが広がっている。
「最悪……」
「大丈夫か?」
「熱くはない、たぶん……でもこれ、普通に無理」
黒瀬は濡れた部分をつまみ上げ、不機嫌そうに顔をしかめた。ミルクの入ったカフェラテだから、乾いても跡が残るかもしれない。
「洗う? すぐなら落ちると思うけど」
「え、ここで?」
「家帰ってからでもいいけど、今のままだと気持ち悪くない?」
「……気持ち悪い」
そうだろうなと思う。見た目より、肌に貼りつく感じが不快なはずだ。
湊は少し考えてから、クローゼットへ向かった。無難そうなTシャツを一枚引っ張り出す。白だと透けるから避けて、チャコールグレーの、やや大きめのやつ。
「とりあえずこれ着る?」
差し出すと、黒瀬は一瞬だけ眉を寄せた。
「朝比奈の?」
「他にないだろ」
「それはそうだけど」
「嫌ならそのままでもいいけど」
「……嫌っていうか」
そこで言葉を切り、黒瀬は自分のニットを見下ろした。シミは思ったより目立つ。しかも胸元のあたりにかかっているから、余計に気になるのだろう。
数秒の沈黙ののち、黒瀬は小さく舌打ちした。
「……借りる」
「洗面所、使って」
「見ないでよ」
「見ないよ」
「絶対?」
「絶対」
「男子ってそういう時だけ信用ならない」
「毎回それ言うな」
「毎回そういう状況にしてくるのが悪いし」
「今日のは俺のせいじゃないだろ」
「半分は朝比奈のせい」
「理不尽がすぎる」
そんな言い合いをしながらも、黒瀬はTシャツを受け取って洗面所へ向かった。
ドアが閉まる音がして、ようやく湊は深く息を吐く。
やばい。
冷静になれ。
ただ服を貸しただけだ。
事故だ。ラブコメみたいな展開だとか思うな。今まさに自分の洗面所で、クラスのギャルが自分のTシャツに着替えている、なんて状況にいちいち意味を見出すな。
……無理だろ、それは。
頭の中で自分と自分が言い争っているうちに、洗面所のドアが少しだけ開いた。
「……ねえ」
「ん?」
「これ、でかすぎ」
「そりゃ俺のだし」
「わかってるけど」
「入らないよりいいだろ」
「そういう問題じゃなくて」
「じゃあ?」
「……袖、長い」
言い方が少し拗ねていて、湊は思わず口元を押さえた。
「笑ってる?」
「笑ってない」
「今ぜったい笑った」
「気のせいだって」
「むかつく」
がちゃ、ともう少し大きくドアが開く。
出てきた黒瀬を見た瞬間、湊は本気で言葉を失った。
チャコールグレーのTシャツは、黒瀬にとって明らかに大きかった。肩が落ち、袖は肘近くまである。丈も太ももの中ほどまで隠れてしまうくらい長い。下にショートパンツは履いたままだが、裾が見えるか見えないかくらいの長さだ。
露出が増えているわけではない。むしろ隠れている部分は多い。
なのに、なぜか学校の制服姿よりずっと危ない気がした。
たぶん、無防備だからだ。
学校では絶対に見ない格好で、しかも自分の服を着ている。その事実がいちいち理性に悪い。
「……なに」
黒瀬が眉をひそめる。
「え?」
「その顔」
「どんな顔だよ」
「なんか、固まってる」
「いや、別に」
「またそれ?」
黒瀬はじろっとこちらを見る。
そして自分の袖を少し引っぱりながら、ぼそっと言った。
「……そんな変?」
「変っていうか」
「うん」
「……似合ってる」
口から出たのは、思ったよりずっと率直な言葉だった。
自分でも驚く。
だが嘘ではない。本当に、似合っていた。
派手なギャルが、男子の大きめTシャツを部屋着みたいに着ている。そのアンバランスさが妙にしっくりきてしまっている。
黒瀬は一拍遅れて、わかりやすく視線を逸らした。
「……は」
「え?」
「そういうの、普通に言うんだ」
「いや、変な意味じゃなくて」
「余計うざい」
頬が少し赤い。
たぶん照れている。
それなのに本人は絶対に認めたくないから、代わりに棘を立ててごまかしている。その構図がもうわかってしまう。
「ニット、洗っとく」
湊がそう言って受け取ろうとすると、黒瀬は素直に差し出した。さっきまでより大人しい。
「シミ、落ちる?」
「たぶん。すぐ洗えば」
「……ならいいけど」
キッチンでニットを押し洗いしながら、湊は背中に視線を感じていた。振り返らなくても、黒瀬がソファに座ってこっちを見ているのがわかる。
何を考えているのかは読めない。
でも、お互いに少しだけ変な空気なのは確かだった。
ニットを軽く脱水し、ハンガーにかけて浴室乾燥のほうへ持っていく。戻ると、黒瀬はソファの真ん中あたりに座り直して、クッションを膝に抱えていた。
さっきよりさらに“家の中の人”みたいな格好になっている。
「……これ、学校の誰にも見せられない」
不意に黒瀬が言った。
「何が」
「これ」
自分の着ているTシャツの裾をつまむ。
「朝比奈の服着てるあたし」
「まあ、たしかに」
「見られたら終わるし」
「終わるっていうか、説明が面倒だな」
「だよね」
そこで黒瀬は、少しだけ視線を落とした。
「……でも、楽」
「何が?」
「これ」
また裾をつまむ。
「ゆるいし。落ち着く」
その言い方が、前に言っていた“朝比奈んちが変に落ち着く”と同じ響きだった。
湊は返す言葉を選べず、結局「そっか」とだけ言った。
それ以上気の利いたことはたぶん言えない。
でも、今の黒瀬には、そのくらいの軽さがちょうどいい気もした。
「なんか、夜食ある?」
数秒後、黒瀬が唐突に言う。
「切り替え早いな」
「だってさっきこぼしたし」
「それ俺のせいじゃ」
「半分は朝比奈のせい」
「まだ言うのか」
「言う」
少しだけいつもの調子が戻る。
そのことに、なぜかほっとした。
「味噌汁と、ごはんと、あと昨日の残りのきんぴらならある」
「地味」
「またそれか」
「でも食べる」
「結局食べるんだ」
「夜のきんぴら、意外と好き」
「渋いな」
「ギャルなめてる?」
「ギャルの定義がわからなくなる」
湊は苦笑しながらキッチンへ向かった。
背後では、黒瀬が自分の袖を少しだけまくっている気配がする。ぶかぶかでうまくいかないのか、何度か折り返していた。
その音すら妙に意識してしまう自分がいて、湊は味噌汁をよそう手元に集中した。
夜食を食べ始めると、黒瀬の機嫌は目に見えて良くなった。味噌汁を一口飲み、きんぴらをつまみ、ごはんを食べる。そのたびに表情が少しずつ緩む。
「……これ、普通に落ち着く」
「味噌汁で?」
「全部」
ぼそっと言われて、湊は箸を止める。
「全部って」
「夜の感じとか」
「……」
「静かだし。誰も変なこと言わないし。お腹空いてたら食べれるし」
そこで少しだけ言葉を切る。
「……学校みたいに、ずっと気張ってなくていい感じ」
それはたぶん、かなり本音に近い言葉だった。
派手な見た目で、ツンとして、誰にも簡単に本音を見せない黒瀬琉衣奈が、夜の自分の部屋でだけそんなことを言う。
何気ないようで、かなり重い事実だと思う。
湊は少し迷ってから、なるべく軽く返した。
「それならまあ、よかった」
「……それだけ?」
「下手なこと言うと怒るだろ」
「それは、まあ」
「怒るんだ」
「朝比奈が変なこと言うから」
言いながらも、黒瀬の声にはさっきまでの刺がない。
夜食を食べ終えたあとも、彼女はすぐには帰らなかった。
テレビを流し、ソファにもたれ、クッションを抱えたまま、時々袖の長いTシャツの裾をいじる。湊はダイニング側の椅子に座って課題を広げ直したが、さすがに集中はできなかった。
「朝比奈」
「ん?」
「これ、洗って返す」
「別にそのままでいいけど」
「嫌だし。借りたままもなんかやだ」
「真面目か」
「誰かさんに言われた」
「白瀬さんっぽいな」
その名前を出した瞬間、黒瀬が少しだけ目を細めた。
「……またそのメガネ」
「そのメガネ言うなよ」
「じゃあ白瀬」
「何が気に入らないんだ」
「別に気に入らないとかじゃないし」
またそれだ。
でも今はもう、そこで深く突っ込む必要はない気がした。
黒瀬が気にしている。
その事実だけで、十分すぎるほどだった。
時計が十時半を過ぎた頃、ようやく黒瀬が立ち上がる。
「……そろそろ帰る」
「ニット、まだちょっと乾ききってないけど」
「今日はこれで帰る」
「え?」
「上にパーカー着ればいけるし」
「いや、それは」
「大丈夫だって」
たしかに、Tシャツの丈は十分長いし、上からパーカーを羽織れば見た目としてはそこまで変ではない。変ではないが、問題は別のところにある。
学校の誰にも見せられない、と本人が言った格好で、今から自室に戻るのか。
廊下の短い距離とはいえ、妙に緊張する。
「……見送らなくていいから」
湊の考えを読んだように、黒瀬が言った。
「変な顔してるし」
「してない」
「してる」
言い合いながらも、玄関まで送る。
パーカーを羽織った黒瀬は、自分の服の上に湊のTシャツを着ているという妙な状況のはずなのに、不思議と似合ってしまっていた。しかも本人は少しだけ気恥ずかしそうで、それがさらにまずい。
「……今日のことも、学校で言うなよ」
靴を履きながら黒瀬が言う。
「言わないって」
「絶対」
「絶対」
「これ着てるのも」
「言うわけないだろ」
「……ならいい」
そこで、黒瀬は一度だけ顔を上げた。
その目は学校の時よりずっと柔らかい。けれど完全に気を抜いているわけでもなくて、どこか照れと警戒と安心が混ざっているように見えた。
「……ありがと」
「何に」
「いろいろ」
「ざっくりしてるな」
「細かく言わせたい?」
「いや、別に」
「じゃあいいし」
その言い方のあと、少しだけ間が落ちる。
黒瀬はドアのほうを向いたまま、小さく続けた。
「……朝比奈の服、変に落ち着く」
それだけ言って、今度こそ廊下へ出ていった。
茶髪が揺れる。パーカーの下から、湊のTシャツの裾が少しだけ覗く。
ドアが閉まったあとも、その光景がしばらく頭から離れなかった。
学校の誰にも見せられない。
その通りだと思う。
あんな格好の黒瀬琉衣奈を、教室の誰が見たって信じないだろう。日焼け肌の強気なギャルが、男子の大きめTシャツを着て、少しだけ照れた顔で“落ち着く”なんて言うなんて。
そんなものを知ってしまったら、もう昼の彼女だけを見て平気でいられるわけがない。
湊は玄関にもたれ、小さく息を吐いた。
「……まずいな、これ」
何がどうまずいのか。
たぶん、もうとっくにわかっている。
夜の黒瀬に慣れてはいけないと思いながら、そのたびに少しずつ、慣れていってしまっていることが。




