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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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ep.4 学校では遠くて、夜だけ近い

 夜に近づいた分だけ、昼が遠く感じる。


 そんな面倒なことを考えるタイプではなかったはずなのに、朝比奈湊は通学路を歩きながら、昨夜の黒瀬琉衣奈の背中を思い出していた。


 帰り際の「また、なんかあったら来るかも」。


 言い方だけ切り取れば、いくらでもごまかせる。偶然の延長、気まぐれ、ただの社交辞令。どれにだってできる。


 でも、あの場の空気ごと覚えている湊には、そうは思えなかった。


 あれはたぶん、次があるという意味だった。


 次があるということは、今のこの関係が、一度きりのハプニングでは終わらないということでもある。


 ……関係、と呼ぶほどの何かがあるのかはわからないが。


「重いな……」


 朝の空気に溶けるくらいの小声で呟く。


 自分でも笑えるくらい、考えすぎだ。


 夜に二回部屋へ来ただけのことを、こんなに引きずるなんてらしくない。しかも相手は、学校では明らかに距離を取ってくる同級生のギャルだ。


 そんな都合のいい方向に期待するほど、自分は浮ついた性格じゃない――はずだ。


 はずなのに、校門をくぐって昇降口で上履きに履き替えるあたりから、無意識に黒瀬の姿を探している自分がいた。


 下駄箱の前には運動部の男子が数人、朝から声を張っている。女子たちの笑い声も混じる。そのどこにも、あの茶髪は見当たらない。


 教室の前まで来て、少しだけ息を整える。


 何を整えているのかは不明だが、とりあえず平常心を装う準備みたいなものだった。


 ドアを開ける。


 教室の空気は、いつも通りだ。


 早く来るタイプの生徒、ギリギリに滑り込むタイプの生徒、朝から妙に元気なやつ、まだ眠そうなやつ。見慣れた顔ぶれの中に、窓際の席でスマホを見ている黒瀬琉衣奈がいた。


 今日もちゃんと“学校の黒瀬”だ。


 茶髪はきれいに巻かれているし、メイクも整っている。制服の着崩し方も絶妙で、健康的に焼けた肌と合わせて、同じ教室の中でも妙に目立つ。隣席の女子と軽く言葉を交わしているその横顔には、昨夜の気の抜けた柔らかさは一欠片もない。


 その落差に、湊はもう驚くより先に、変な笑いがこみあげそうになった。


 徹底してるな、ほんとに。


 自分の席に着き、鞄を机の横へ掛ける。


 その一連の動作の間に、黒瀬と目が合うかもしれない、くらいは思っていた。だが現実はもっとあっさりしていた。黒瀬は一度もこちらを見ない。正確には、見ているかもしれないが、湊に“見られた”と思わせる気配が一切ない。


 完全に、昼は昼。夜は夜。


 その境界線の鮮やかさに、逆に感心しそうになる。


「朝比奈くん、おはようございます」


 ふいに声をかけられ、湊は顔を上げた。


 白瀬栞が、プリントを抱えたままこちらを見ていた。今日も真面目そのものの見た目だ。黒髪、メガネ、きっちりした制服。派手さとは無縁なのに、不思議と視界には入りやすい。


「おはよう、白瀬さん」


「昨日のノート、ありがとうございました。とても助かりました」


「あ、全然。ちゃんと写せた?」


「はい。おかげさまで」


 そう言って栞は、いつものようにやわらかく微笑む。


 押しつけがましさがない。朝のこういうやり取りが自然に成立するところが、彼女のすごいところだなと湊は思う。


「あと、これ」


 栞は机の上に小さな包みを置いた。透明なフィルムに包まれたクッキーが二枚。


「お礼、ってほどじゃないんですけど」


「いや、そこまでしなくていいのに」


「私がそうしたいだけです」


「……じゃあ、ありがたくもらう」


「はい」


 短いやり取り。けれど、これを見たらどう思うだろうな、と不意に頭の中で別の人物の顔が浮かんだ。


 黒瀬琉衣奈。


 昼休みに白瀬と話していただけで、「へえ」と妙な反応をしてきたあの顔。


 考えた瞬間、意識しないようにしていたはずの視線が勝手に窓際へ向く。


 黒瀬はこっちを見ていない。


 だが、指先でスマホを触る動きが、ほんの少しだけ雑に見えた。


 ……気のせいか。


 いや、たぶん気のせいじゃない。


 そういう細かい変化を拾ってしまうこと自体が、もうだいぶおかしいのだと湊は自覚している。


「朝比奈くん?」


「あ、いや、なんでも」


「体調悪いですか?」


「そこまでじゃない」


「朝から少し考え事している顔でした」


 栞の観察眼は静かに鋭い。追及するわけではないのに、妙に見抜いてくる。


「寝不足かも」


「では一限の現文で寝ないようにしてください」


「また先生みたいなこと言う」


「ふふ」


 栞は小さく笑って自分の席へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、湊は机の上のクッキーを見る。こういうささやかな気遣いが自然にできるのが、白瀬栞という子なのだろう。


 学校で自然に話せる。距離が近すぎず、遠すぎない。穏やかで、居心地がいい。


 その“昼の安心感”と、黒瀬の“夜の落ち着かなさ”は、種類が違う。


 違うのに、どちらも意識してしまう自分がいて、なんだか余計に面倒だった。


 一限が始まる少し前、担任が入ってくる気配とともに、教室の空気が少しだけ締まる。


 そのタイミングで、前方の窓際から椅子を引く音がした。


 黒瀬が席に深く座りなおしている。


 それだけなのに、湊は変に神経を持っていかれる。


 昨夜、ソファの上でクッションを抱えていた同じ人間が、今はこうして教室の窓際で何食わぬ顔をしている。


 人って、こんなに表情を切り替えられるんだな。


 あるいは、自分が知らなかっただけで、黒瀬にとってはこれが普通なのかもしれない。


 授業が始まる。


 現文の教科書を開き、板書をノートに写しながらも、湊の意識は妙な方向に散っていた。昨夜の照り焼きの話。カフェラテの好み。彼女がぽつりと漏らした「朝比奈んちが変に落ち着くから悪い」。あの一言の意味。


 考えたところでわかるはずがないのに、頭は勝手に何度もそこへ戻る。


 そんな状態だから、授業中に担任から当てられた時は、ほんの一拍反応が遅れた。


「朝比奈」


「……はい」


「今の一文、どういう意味だ」


 教室の何人かが振り返る。湊は慌てて立ち上がり、該当箇所を読み返した。幸い現文はそこまで苦手ではない。しどろもどろになりながらも、それらしい答えを返すと、担任は「まあいい」と頷いて先へ進んだ。


 腰を下ろした瞬間、前方から小さく肩が揺れるのが見えた。


 黒瀬だ。


 明らかに笑っている。


 しかも振り返りはしない。前を向いたまま、肩だけで笑っているのがまた腹立たしい。


 休み時間になった瞬間、湊は思わず前のほうを見た。


 黒瀬はもう何事もなかったような顔で、友達に「ねむ」と言っている。


 ……絶対わざとだろ。


 でも、そのささやかな反応に、少しだけ胸が軽くなっている自分もいた。完全な無関心よりは、ずっとましだと思ってしまったのだ。


 我ながら単純だ。


 二限、三限と授業が進み、昼休みになる。


 購買へ行こうとしたところで、廊下側の席から声がした。


「朝比奈くん」


 栞だった。


「今日、購買ですよね」


「うん。そうだけど」


「もし焼きそばパンが残っていたら、私の分もお願いできますか」


「白瀬さん、あれ好きなんだ」


「たまに無性に食べたくなるんです」


 真顔で言われると少し面白い。


「了解。あったら買ってくる」


「ありがとうございます。あとで払います」


「別に今日くらいいいよ」


「それはだめです」


「真面目か」


「知ってます」


 短いやり取りをしながら立ち上がる。


 その時、後方から聞こえる女子たちの会話に、妙に刺さる単語が混じった。


「るいな、今日お昼どうする?」


「んー、なんでも」


「なんでもって言う時のるいな、だいたい気分乗ってなくない?」


「うるさ」


 声の温度で、誰が話しているかすぐわかる。


 湊は振り返らないまま教室を出た。


 購買は相変わらず混んでいた。なんとか焼きそばパンを二つ確保し、自分用の牛乳と紙パックの野菜ジュースまで抱えて戻る。


 教室へ戻ると、栞は自席で教科書を閉じていた。


「買えた?」


「ギリギリ」


「ありがとうございます」


 栞は小さく頭を下げ、財布を取り出そうとする。


「だから今日はいいって」


「でも」


「今度なんか手伝って」


「……では、その時は遠慮なく頼ってください」


「じゃあそうする」


 パンを渡す。その時、ふっと教室の空気が妙に静かに感じた。


 視線だ。


 誰のかはすぐわかった。


 窓際。


 黒瀬がこちらを見ている。


 今度ははっきりと目が合った。


 数秒にも満たない一瞬。けれど、昨夜のことを知っている者同士だとわかる目だった。


 次の瞬間には、彼女はあっさり視線を外す。


 でも、完全に無関係な顔ではなかった。


 少しだけ不機嫌そうで、少しだけ面白くなさそうで、少しだけ――拗ねているようにも見えた。


 なんだそれ、と湊は思う。


 でもたぶん、向こうも同じことを思っている。


 昼の教室では遠い。


 話しかければ冷たいし、目だって滅多に合わない。


 なのに、夜の部屋では近い。


 ソファで力を抜き、クッションを抱え、家のことは語らないまでも“帰りたくない”とは言う。


 その落差が、湊の感覚を少しずつおかしくしていく。


 放課後、当番仕事を終えて廊下へ出ると、すでに日が傾き始めていた。窓の向こうの光はやわらかいオレンジ色で、廊下の床に細長い影を落としている。


 靴箱へ向かう途中、階段の踊り場で足を止めた。


 前方に、黒瀬の姿があったからだ。


 一人でスマホを見ている。友達はいない。珍しいタイミングだった。


 引き返すほどでもないし、だからといって何か話しかける理由もない。結局、そのまま通り過ぎるしかない。


 湊が一歩踏み出した時、黒瀬がふいに顔を上げた。


 目が合う。


 今度は逸らされなかった。


「……なに」


 先に口を開いたのは黒瀬だった。


「いや、別に」


「朝比奈、最近それ多くない?」


「そっちこそ」


「は?」


「“別に”って」


「……それは、まあ」


 一瞬だけ言葉に詰まる。


 それだけで、少しだけ笑いそうになった。


「何笑ってんの」


「笑ってない」


「絶対笑ったし」


「気のせい」


「うざ」


 昼の階段踊り場。誰かに見られてもおかしくない場所。


 なのに今の会話は、教室で交わすよりずっと自然だった。


 黒瀬自身もそれに気づいたのか、ふっと周囲を見回す。


「……ここ、学校だから」


「知ってる」


「変なこと言うなよ」


「何も言ってないだろ」


「ならいいし」


 またその言い方だ。


 言外に“夜のことを持ち出すな”が含まれている。でも同時に、完全に無視するわけでもない。


 黒瀬はスマホをポケットへしまいながら、小さく顎をしゃくった。


「朝、当てられてんの、ちょっとおもろかった」


「やっぱり笑ってたのか」


「だって珍しいし」


「人が焦ってるの見て笑うなよ」


「でもちゃんと答えてたじゃん」


「まあ……」


「真面目なんだね、朝比奈って」


 言い方は軽い。けれど、そこに昼休みや普段のクラスで向けられる雑なからかいとは違う何かがある気がした。


 湊が返事に迷っていると、黒瀬は視線を少しだけ逸らした。


「……夜は来るかも」


「え?」


「今日」


 あまりにも自然に言うから、一瞬意味が入ってこない。


 だが理解した途端、心臓が変な跳ね方をした。


「なんか、家いるとだるいし」


 付け足すように言われる。


 言い訳だとわかる程度には、もう湊もこの会話に慣れ始めていた。


「……来るなら連絡して」


 そう言うと、黒瀬は少しだけ目を丸くした。


「連絡先、知らないし」


「あ」


 たしかに。


 昨夜も一昨日も、彼女は何の前触れもなくインターホンを鳴らしてきた。湊も気づかなかったが、考えてみれば連絡先を知らないままここまで来ているのはおかしい。


 黒瀬は小さく鼻で笑った。


「抜けてる」


「そっちも今気づいたんだろ」


「まあ」


 その“まあ”が、少しだけ柔らかい。


「じゃあ、今度」


 湊が言うと、黒瀬は曖昧に頷いた。


「……考えとく」


 それだけ言って、先に階段を下りていく。


 夕方の光に照らされた茶髪が一瞬だけ透けて見えた。


 学校では遠い。


 でも、完全に届かないわけではない。


 夜だけ近いはずの相手が、少しだけ昼にも輪郭を残し始めている。


 そのことに、湊は小さく息を吐いた。


「……ほんと、調子狂うな」


 誰に聞かせるでもない独り言は、夕方の廊下にすぐ溶けた。


 けれど、その日の夜、インターホンが鳴るかもしれないと思った瞬間から、湊の心はもう静かではいられなくなっていた。

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