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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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ep.3 返しに来ただけのはずなのに、なぜか帰らない

 黒瀬琉衣奈が二度目の夜に湊の部屋へ入ってきた時、朝比奈湊はまず最初に、これを“普通”だと思わないようにしようと決めた。


 慣れたら終わる気がしたからだ。


 何が終わるのかは自分でもよくわからない。理性かもしれないし、平穏な日常かもしれない。あるいは、学校で黒瀬と視線が合っただけで妙に意識してしまう、この無駄に落ち着かない感じが、もっとひどくなるのかもしれない。


 だから、とりあえず深く考えない。


 考えすぎるとろくなことがない。少なくとも、クラスで一番近寄りがたいギャルが、二夜連続で自分の部屋にいる現状に対しては、平静を保つ努力が必要だった。


 ケトルのスイッチを入れる。


 シンク脇の棚からカフェラテのスティックを二本取り出し、マグカップに入れる。背中越しに、ソファへ腰を下ろす衣擦れの音が聞こえた。


「……朝比奈って、毎日こんなちゃんとしてんの」


 黒瀬の声がする。


「こんなって」


「家。ていうか生活」


「まあ、ほぼ一人暮らしみたいなもんだし」


「それ昨日も言ってたけど、マジなんだ」


「マジだよ」


「親、なんも言わないの」


「言うけど、どうにもならないこともあるし」


 湊はカップに湯を注ぎながら、さりげなく振り返った。


 黒瀬はソファの背にもたれ、部屋の中をなんとなく見回している。今日は昨日よりちゃんとした私服だ。黒のパーカーに細身のデニム、足元は白いスニーカー。いかにも“外に出られる格好”ではある。けれど顔まわりはやはり学校の時よりずっと薄く、茶髪も巻きがゆるいせいか、どこかラフで柔らかい。


 学校で見かける黒瀬と、今こうして自分の部屋にいる黒瀬は、似ているのに別人みたいだ。


 昼間の教室では、言葉の先端がいつも鋭い。近づきすぎれば刺されると誰もが知っているから、みんな一定の距離を保つ。


 けれど今の彼女は、刺す気配を残しながらも、どこか隙がある。


 その隙が危ないのだと、湊はなんとなく思った。


「はい」


 カフェラテを片方差し出す。


 黒瀬は「ん」とだけ返して受け取った。ありがとう、はない。ないが、もうそこを期待してもしょうがない気がしていた。


「……てか、返しに来ただけって言ってたのに、普通に座るんだな」


「は?」


「いや、そういう意味じゃなくて」


「なんか文句ある?」


「別に」


「じゃあいいじゃん」


 言い返しが早い。昼の教室と同じテンポだ。なのに、そのままマグカップを両手で持ち上げて、ふう、と息を吹きかける仕草は、やっぱり夜の黒瀬だった。


 一口飲んで、少しだけ目を細める。


 甘いものを口にした時だけ、彼女の表情はほんの少し緩む。


 それを見ていると、昨日の夜、冷蔵庫のプリンに目を止めていた姿を思い出す。あの時も、ギャルっぽい見た目からは想像しづらいくらい、目が正直だった。


「なに」


 また見すぎていたらしい。黒瀬が眉を上げる。


「見てない」


「絶対見てた」


「いや、カフェラテ好きなんだなって思っただけ」


「……悪い?」


「悪くないけど」


「ギャルはブラックコーヒーしか飲まないとでも思ってた?」


「そこまでは思ってない」


「ならいいし」


 不機嫌そうに言いながら、もう一口飲む。


 やっぱり好きなんだろうな、とすぐわかる飲み方だった。


 湊は自分のカップを持ち、ダイニング側の椅子へ座った。ソファに一緒に座るのはさすがに距離が近すぎる気がして、自然とそうなる。


 少し間が空く。


 時計の秒針の音。冷蔵庫の小さな駆動音。マグカップをテーブルに置くかすかな陶器音。


 会話がなくても、なぜか気まずい沈黙ではなかった。


 昨日と同じだ。


 変に盛り上げる必要がない。かといって完全に無言でも、空気が壊れる感じがしない。


 不思議な感覚だった。


「……学校じゃ、話しかけないで」


 不意に、黒瀬が言った。


「え?」


「昨日のことも、今日のことも。学校で変に持ち込まないでってこと」


 まっすぐには見てこない。マグカップの中を見たまま、黒瀬は続ける。


「昼は昼だし。そういうの、面倒だから」


 その言い方は少し刺さった。


 昨日もそう言われた。たしかに合理的だし、湊だって誰かに知られたいわけではない。でも、ここまで線を引かれると、自分だけが勝手に昨夜を気にしていたみたいで、少しだけ居心地が悪い。


「……今朝、話しかけたのはそれで失敗したわけか」


 ぽろっと口に出してしまった。


 黒瀬の視線が上がる。


「あれ、朝比奈だったからでしょ」


「いや、それはそうだけど」


「だって、あのタイミングで何? ってなるし」


「まあ……そうだけど」


「しかも教室でしょ。周りいるし」


 正論だった。湊はぐうの音も出ない。


 たしかにあの場でヘアピンを返そうとするのは不自然だった。もっと上手くやれたかもしれないが、それでも黒瀬からすれば警戒するに決まっている。


「……これ」


 湊は思い出して立ち上がり、筆箱から黒いヘアピンを取り出した。


 テーブルの上に置く。


「昨日、ソファに落ちてた」


 黒瀬は数秒、ヘアピンと湊の顔を交互に見た。


「あ」


 それから、小さく息を漏らす。


「……なくしたと思ってた」


「やっぱり黒瀬のか」


「うん」


「返そうとしたけど、朝は無理だった」


「だから変な感じだったんだ」


「変な感じって」


「めっちゃ言いづらそうだったし」


 少しだけ面白がるような顔をされた。昼間のツンとした無表情じゃない。夜だからなのか、単に部屋の中だからなのか、そのへんはよくわからない。


 黒瀬はヘアピンを手に取ると、指先でくるりと回した。


「……ありがと」


「二回目だな」


「は?」


「いや、今日ちゃんと礼言ったから」


「数えんなうざ」


「言うと思わなかったから」


「別に、物返してもらったんだし普通じゃん」


 たしかに普通だ。普通だが、黒瀬の口から出ると少しだけ特別に聞こえる。


 そして、そう感じてしまう自分がたぶんもうだめだ。


 湊はその感情をごまかすようにキッチンへ向かった。


「飯、まだ?」


「え?」


「なんか作ってたよね。さっき」


「いや、俺の夕飯だけど」


「まだ食べてないの?」


「今から」


「へえ」


 へえ、の意味が読めない。


 振り返ると、黒瀬はソファの背にもたれながら、明らかにこちらをうかがっていた。


「……食べる?」


 なんとなくそう聞くと、黒瀬は一瞬だけ目を逸らした。


「別に、お腹空いてるとかじゃないし」


「じゃあいらない?」


「……少しなら」


「空いてるじゃん」


「うっさい」


 結局そうなる。


 湊は苦笑しながら、冷蔵庫から朝のうちに下味をつけておいた鶏むね肉を取り出した。片栗粉を薄くまぶし、フライパンに油を引く。ジュワ、と音が立ち、にんにくと生姜の香りが部屋に広がる。


 その匂いがした瞬間、黒瀬の反応が露骨に変わった。


 視線がこっちへ向く。マグカップを持つ手が少し止まる。本人は平然を装っているが、わかりやすい。


「……なに作ってんの」


「照り焼き」


「ふーん」


「嫌い?」


「嫌いじゃない」


「じゃあよかった」


「別に、嫌いじゃないってだけだし」


「うん」


 たぶん今のやり取りに意味はない。


 ないのに、妙に楽しかった。


 フライパンの中で鶏肉の表面に焼き色がつき、照りが出てくる。脇でサラダ用のレタスをちぎり、ミニトマトを半分に切る。作り置きしてあった味噌汁を温め直し、ごはんをよそう。


 ほんの十数分の作業。


 それなのに背中に視線を感じる。


「……そんな見る?」


「見てないし」


「今ぜったい見てた」


「だって朝比奈が料理してんの、なんか変」


「それ昨日も言ってた」


「ほんとにやるんだなって」


「やるよ。食べなきゃ死ぬし」


「それはそう」


 短い沈黙のあと、黒瀬が小さく言う。


「……なんか、手慣れてる」


 その言い方に、妙な引っかかりはなかった。


 軽口でもからかいでもなく、ただ思ったことをそのまま言ったような声音。


 湊は少しだけ目を瞬かせる。


「まあ、慣れないと回らないし」


「家に誰もいないの、やっぱ大変じゃん」


「最初はな。でも慣れる」


「……慣れるんだ」


 そこでふっと声が小さくなった。


 何に引っかかったのかはわからない。けれど、その言い方には、少しだけ別の意味が混じっているようにも聞こえる。


 追及しかけて、やめた。


 今はまだ、その奥に踏み込むタイミングじゃない。


「はい」


 できあがった照り焼きプレートをローテーブルに運ぶ。


「うわ」


 黒瀬がほんの少しだけ身を乗り出した。


「なにその反応」


「いや、普通にちゃんとしてる」


「どんなイメージだったんだよ」


「男子の一人飯って、カップ麺か冷凍食品じゃん」


「失礼だな」


「だってほんとじゃん」


 言いながら、黒瀬は箸を持つ。


「いただきます」


 それはちゃんと言うんだな、と思ったが口には出さない。


 鶏肉を一口食べた瞬間、彼女のまつ毛がふっと揺れた。口元は抑えているのに、目が正直だ。


「……うま」


 小さくこぼれる。


「そう?」


「うん」


「よかった」


「なんか腹立つ」


「なんで」


「普通にうまいから」


 意味がわからない。


 でも、そうやって少しだけ拗ねたように言う黒瀬は、学校の誰も知らない顔なんだろうなと思うと、胸の奥が変に温かくなった。


「朝比奈って、彼女いたことある?」


 唐突にそんなことを聞かれて、湊は危うく味噌汁を吹きそうになった。


「は!?」


「なにその反応」


「急すぎるだろ」


「いや、料理できるし」


「それで彼女になる理屈がわからない」


「モテそうじゃん、家事できる男って」


「全然」


「ふーん」


 ふーん、に今度は少し違う響きがあった。


 興味本位みたいな、でもそれだけでもないような。


「黒瀬は?」


「は?」


「聞いたんだから、そっちも答えろよ」


「なんで」


「フェアじゃない」


「……いたことないし」


 予想外すぎて、湊は一瞬止まった。


「え」


「なにその“え”」


「いや……普通に、いるのかと」


「どんな偏見?」


「いや、だって……」


 クラスの中心にいるギャルで、スタイルも良くて、目立って、男子からの注目も集める。恋人の一人や二人、いて当然だと思っていた。


 そう言うと、黒瀬は明らかに不機嫌そうに眉を寄せた。


「そういうの、めんどいから」


「めんどい?」


「軽いノリで来るやつばっかだし。別に興味ない」


 言い切り方は強い。けれど、そこには照れ隠しのようなものも少し混じっていた。


「……意外」


 ぽろっと出た言葉に、黒瀬の目が細くなる。


「なにが」


「いや、もっと慣れてるのかと」


「何に」


「その……恋愛とか」


 言っていて気まずい。湊は視線をそらす。


 すると黒瀬はなぜか少しだけ黙って、次にぽつりと言った。


「慣れてたら、昨日みたいにベランダで死にかけてないし」


「それは恋愛関係ないだろ」


「うるさい」


 でも、その“うるさい”にはどこか照れがあった。


 食事が進むにつれ、空気はさらに柔らかくなっていく。湊はそれを自覚しながらも、どこまで自然にしていていいのか判断がつかない。


 返しに来ただけ。


 そう言って入ってきたはずなのに、今の黒瀬は完全に食卓に溶け込んでいる。ソファの上で片膝を立てるように座って、湊の作った夕飯を食べて、カフェラテのおかわりまで要求している。


 どう考えても“返しに来ただけ”ではない。


「……で」


 食後、二杯目のカフェラテを持ったまま、湊は切り出した。


「いつ帰るの」


「は?」


「いや、返しに来ただけなら、もう用事終わってるだろ」


「追い出す気?」


「追い出すというか、普通そうじゃない?」


「……別に、まだちょっといてもよくない?」


 その言い方が、思ったよりずっと素直で、湊は言葉を失った。


 黒瀬はすぐに視線を逸らす。


「家、今ちょっと帰りたくないし」


「なんかあった?」


「……別に」


「別にじゃない顔してるけど」


「そういうのいいから」


 ぴしゃりと遮られる。


 けれど、昨夜と違って、そこには本気の拒絶だけではない何かがあった。踏み込まれたくない。でも、完全に放っておかれるのも嫌。そんな矛盾を、彼女自身うまく処理できていないように見える。


「……じゃあ、少しだけ」


 湊がそう言うと、黒瀬は小さく息を吐いた。


「ん」


 たったそれだけの返事。


 でも、その“ん”には、あからさまな安堵が混じっていた。


 気づかないふりをして、湊はキッチンへ食器を下げる。水を出し、洗剤をスポンジにつける。背後でテレビをつける音がした。どうやら黒瀬は勝手にリモコンを見つけたらしい。


「勝手につけるんだ」


「だめ?」


「いや、もうそこまで自由なんだなって」


「朝比奈んち、静かすぎるし」


「普段一人だからな」


「……だからだよ」


 ぽつり、と落ちた言葉。


 振り返ると、黒瀬はもう画面のほうを向いていた。何でもない顔をして、バラエティ番組を流している。


 “だからだよ”の意味は結局わからなかった。


 ただ、その一言が耳に残った。


 食器を洗い終えたあと、湊はキッチンから部屋の奥を眺める。ソファの上にいる黒瀬は、さっきまでよりさらに力が抜けていた。スニーカーはちゃんと脱いで、足をソファに上げ、クッションを抱えるようにしている。


 完全にくつろいでいる。


 人の家で、しかも男子の部屋で、こんなに無防備でいいのかと逆に心配になるくらいだ。


 パーカーの裾から覗く手首は細く、茶髪は肩のあたりにゆるく散っている。学校ではあれだけ強気で隙がないのに、今は目元も口元も、どこか気が抜けていた。


 ――近いな。


 物理的な距離ではなく、雰囲気の話だ。


 昨夜より明らかに近い。


「……なに」


 また見ていたらしい。黒瀬が振り向かずに言う。


「黒瀬って、人んちでくつろぐの早いな」


「朝比奈んちが変に落ち着くから悪い」


「俺のせいなのか」


「半分は」


「残り半分は」


「知らない」


 知らない、と言いながら、黒瀬はクッションに頬を少し押しつけた。


 その仕草が妙に女の子っぽくて、湊は危うく視線を逸らし損ねる。


 学校の彼女なら絶対にしない顔だ。


 誰にも見せないのか、それともただ家ではいつもこうなのか。考えたところでわからない。わからないから余計に気になる。


「……朝比奈」


「ん?」


「昨日のこと、ほんとに誰にも言ってないよね」


「言ってない」


「これも」


「言わないよ」


「白瀬にも?」


 その名前が出てきたことに、湊は少し驚いた。


「なんで白瀬」


「昼、話してたじゃん」


「ノート貸しただけ」


「ふーん」


「なんだよ、その反応」


「別に」


 別に、の言い方が妙に引っかかる。


 今日、教室でも似たようなことがあった気がする。栞と話していたことに、黒瀬は少し反応していた。あれは単なる気まぐれか、それとも。


「気にしてんの?」


 つい聞いてしまった。


 黒瀬の肩がぴく、と揺れる。


「は?」


「いや、昼もなんか言ってたし」


「気にしてないし」


「でも今、白瀬って」


「だって目立つじゃん。ああいうの」


「どういうの」


「真面目そうで、男子に自然に話しかけるやつ」


「偏見すごいな」


「偏見じゃないし」


 むっとしたように言い返してから、黒瀬は少しだけ目を細めた。


「てか朝比奈、ああいうの好きそう」


「どういう決めつけだよ」


「わかんないけど。なんとなく」


「じゃあ黒瀬は?」


「は?」


「俺のこと、どう見えてるわけ」


 聞くつもりはなかった。けれど口から滑り出てしまった以上、引っ込めることはできない。


 黒瀬は数秒、答えなかった。


 テレビの笑い声が妙に遠い。


 やがて彼女は、クッションの端を指でつまみながら、小さく言う。


「……変に優しい」


「それ褒めてる?」


「褒めてない」


「二回目」


「数えんなって」


「じゃあ悪口?」


「そこまででもない」


 言葉を選びながら話しているのがわかる。黒瀬にしては珍しい間だった。


「……変に優しいし、変に見返り求めないし」


「変なのか」


「変だよ。普通もっと……あるじゃん」


「下心とか?」


 たとえば、と湊が言う前に、黒瀬は目をそらした。


「そういうの」


 そこだけ声が少し小さくなる。


 湊は自分の喉が、急に少しだけ渇くのを感じた。


 ないわけじゃない。


 そりゃあ、クラスの目立つギャルが夜に部屋へ来て、薄いメイクで、学校では見せない顔をして、ソファの上でクッションを抱いている。それを前にして、一切何も意識しない男子高校生なんてたぶんいない。


 でも、それを言えるわけがない。


 言った瞬間、今の空気が壊れる気がした。


「……まあ、そこまでクズじゃないつもり」


 結局、少し冗談っぽく返すのが精一杯だった。


 黒瀬は「ふーん」とだけ言って、それ以上追及しなかった。


 そのまましばらく、二人でテレビを眺める。


 笑いどころで黒瀬が小さく吹き出す。湊もつられて笑う。そんな、取り立てて何も起こらない時間が流れる。


 だけど、何も起こらないこと自体が、たぶん今は少し特別だった。


 時計を見ると、九時半を回っていた。


「……そろそろ帰る」


 黒瀬がそう言ったのは、十時前になってからだった。


「おう」


「なんか、引き止めないんだ」


「引き止めたら怖いだろ」


「まあ、それはそう」


 立ち上がると、ソファの上に残っていた彼女の体温が、なぜかそこにまだあるような気がした。


 黒瀬はスニーカーを履き、ドアの前で一度だけ振り返る。


「……また、なんかあったら来るかも」


 さらっとした言い方。


 でもその“また”は、たしかに次を含んでいた。


「なんかなくても来てるだろ」


 湊が言うと、黒瀬は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……今日のは、服返しに来ただけだし」


「返してから二時間いたけど」


「細か」


「事実だろ」


「うるさい」


 そこで少しだけ唇を尖らせて、黒瀬は視線をそらす。


 その顔が妙に幼く見えて、湊は思わず笑ってしまった。


「……なに笑ってんの」


「いや、別に」


「それ、絶対なんかあるやつじゃん」


「ないない」


「むかつく」


 そう言いながらも、本気で怒っている感じではない。


 ドアノブに手をかけたまま、黒瀬は少しだけ声を落とした。


「……でも、今日も助かった」


「え?」


「ごはんとか、場所とか、いろいろ」


 最後のほうはほとんど聞き取れないくらい小さかった。


 それだけ言うと、彼女はさっさと廊下へ出ていく。


 閉まりかけたドアの隙間から、茶髪がふっと揺れた。


「おやすみ」


 湊がそう言うと、黒瀬は一歩だけ止まった。


 振り返りはしない。


 ただ、背中越しに、小さく返ってくる。


「……ん」


 それだけで、なぜか心臓が妙に落ち着かなかった。


 ドアが閉まる。


 静かになる。


 部屋の中には、さっきまで二人いた気配がまだ残っていた。カフェラテの甘い匂い。ソファのクッションのへこみ。テーブルの上に置きっぱなしの空になったマグカップ。


 返しに来ただけのはずだった。


 なのに気づけば、食事をして、テレビを見て、どうでもいい会話をして、少しだけ本音みたいなものまで聞いていた。


 これが一度きりの気まぐれならまだいい。


 でも、帰り際の“また来るかも”は、明らかにそういう響きじゃなかった。


 湊はシンクにマグカップを運びながら、小さく息を吐く。


「……なんなんだよ、ほんと」


 問いかけても答える相手はいない。


 けれど、嫌ではなかった。


 むしろ――次のインターホンを、少しだけ待ってしまいそうな自分がいることのほうが、ずっと問題だった。

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