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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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ep.2 黒瀬琉衣奈は礼を言わない

翌朝、目が覚めた瞬間、朝比奈湊は天井を見ながら三秒だけ現実逃避した。


 起きたくないとか、学校が面倒だとか、そういういつもの気分ではない。


 思い出したからだ。


 昨夜のことを。


 夜のベランダ。締め出された黒瀬琉衣奈。学校では絶対に見せないラフな格好。薄いメイク。小さく震えていた肩。ソファに座って甘いカフェラテを飲む姿。帰り際の、ぎこちない「ありがと」。


 全部まとめて夢だったことになってくれれば楽だったのに、現実は親切ではない。


 枕元のスマホで時間を確認し、体を起こす。カーテンの隙間から差し込む朝の光はいつも通りで、部屋の中もいつも通りだった。静かなワンルーム、きっちり片づいた机、昨夜洗い忘れのないシンク。


 ただ一つ違うのは、机の端に置かれた黒いヘアピンだった。


 昨夜、ソファの端に落ちていたもの。


 黒瀬のものだ。


 それを見たせいで、夢ではなかったことが改めて確定してしまう。


「……うわ」


 思わず変な声が出た。


 こんなの、どう返せばいいんだ。


 学校でさりげなく「これ」と渡すのか。いや、さりげなくって何だ。そもそも湊と黒瀬は、そんなふうに物の貸し借りをする関係ですらない。


 授業前、教室に入ってすぐ渡す? いや、それも不自然だ。周りに見られたら変に勘繰られるかもしれない。放課後まで待つ? そのほうがまだましだろうか。


 そんなことを考えながら、湊は制服に着替え、朝食代わりのトーストを焼いた。マグカップにインスタントコーヒーを淹れ、一口飲み、もう一度ヘアピンを見る。


 返す。


 もちろん返す。


 ただ、その“返す”に妙な緊張がついて回るだけだ。


「……別に、なんでもないだろ」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 クラスメイトの落とし物を預かっている。それだけだ。


 何も特別なことじゃない。昨夜のことだって、たまたま起きたハプニングにすぎない。


 そう整理して、湊はヘアピンを筆箱の内ポケットに入れた。


 結果から言えば、その準備はほとんど意味がなかった。


 黒瀬琉衣奈は、朝の教室で、昨夜のことなんて一ミリもなかったみたいな顔をしていたからだ。


 教室に入った時、黒瀬はもういた。


 窓際の自分の席に斜めに座り、スマホをいじっている。茶髪は今日もきれいに巻かれていて、薄めとはいえちゃんとメイクもしている。制服の着こなしもいつも通り、ゆるいのにだらしなく見えない絶妙なバランスだ。


 そして何より、雰囲気が完全に“学校の黒瀬琉衣奈”だった。


 昨夜の柔らかさも弱さも、きれいにしまい込まれている。


 視界の端で彼女を認識した瞬間、湊は心の中で短く息を吐いた。


 まあ、そうだよな。


 期待していたわけではない。ただ、ほんの少しだけ、昨夜の続きみたいな空気があったらどうしようと思っていただけだ。


 黒瀬は湊が教室に入ってきたことに気づいているはずだった。だが、こちらを見る様子はない。スマホから顔を上げず、隣の席にきた女子と普通に話している。


「るいな、今日の一限まじ無理じゃない?」


「それな。てか数学から始めるの普通に終わってるし」


 声は明るい。いつも通りだ。


 湊は自分の席に座りながら、変に意識するなと頭の中で繰り返した。


 いつも通りでいい。


 自分も普通にしていればいい。


 ところが、人間というのは面倒な生き物で、意識するなと思えば思うほど意識してしまう。


 ホームルーム前、担任が入ってくる少し前のざわついた時間。黒瀬が教室の後ろへプリントを取りに立った。通り道の関係で、湊の机の近くを通る。


 今なら、と思った。


 ヘアピンを返すならこの瞬間かもしれない。


「あの――」


 小さく声をかける。


 黒瀬はぴたりと足を止めた。


 湊のほうを見た。


 その目は一瞬だけ、昨夜を知っているようにも見えた。けれど、それはすぐに消えた。


「は?」


 冷たい。


 びっくりするくらい、いつもの黒瀬の“は?”だった。


 低すぎず高すぎず、でも確実に人をひるませる温度。


「……いや、えっと」


「なに」


「……なんでもない」


「じゃあ呼ばないでくんない?」


 それだけ言って、黒瀬はプリントの束を持って戻っていった。


 昨日の夜、玄関で「ありがと」と言った人と、今、目の前で湊を切り捨てた人が同一人物だということに、軽く頭が混乱する。


 いや、同一人物なんだけど。


 だからこそ困る。


 なんでもない顔で教科書を開きながら、湊は胸の奥が少しざらつくのを感じていた。


 別に怒ってはいない。


 怒る筋合いもない。


 ただ、昨夜の空気を知っていると、この切り替えの速さは地味に効く。


 ホームルームが始まり、担任が連絡事項を読み上げる。席替えは来週、提出物の期限、体育祭実行委員の追加募集。そんな話をぼんやり聞き流しながら、湊は筆箱の中のヘアピンを思い出していた。


 これ、今日返せるのか。


 いや、返さないとまずいだろ。でも、どうやって。


 授業が始まってしまえば、考える余裕は少し減る。数学、古文、英語。ノートを取り、板書を写し、当てられないことを祈る。いつもならそれなりに集中できるはずの授業に、今日は細いノイズが混じっていた。


 ふと顔を上げるたび、黒瀬の後ろ姿が目に入る。


 窓際の席で、頬杖をついたり、シャーペンを回したり、たまに先生の話をちゃんと聞いていたりする。横顔は整っていて、まつ毛が長い。クラスで目立つのも当然だと思う。


 でも昨夜のことがあるせいで、その姿が少しだけ遠く感じるのか、逆に妙に近く感じるのか、自分でもよくわからなかった。


 二限と三限の間の休み時間。


 教科書を机の上で入れ替えていると、静かな声がかかった。


「朝比奈くん、これ、次の英語のプリントです」


 顔を上げると、白瀬栞が立っていた。


 黒髪。細いフレームのメガネ。制服はきっちり。余計な飾りのない、いかにも真面目そうな女子。


 同じクラスだが、べったり話す関係ではない。けれど、委員会の連絡や提出物のことで何度か会話したことはある。押しつけがましさがなく、話しやすい相手だという認識だった。


「あ、ありがと」


「配布係の子が足りなくて。私も配るの手伝ってるので」


「そうなんだ」


「朝比奈くん、英語のワーク提出してましたよね。先生が、見本にしたいって言ってました」


「え、そうなの」


「はい。字が丁寧だからって」


 栞はそこで少しだけ笑った。


 控えめで、でもちゃんと柔らかい笑い方だった。


「真面目そうですもんね、朝比奈くん」


「そういう言い方されると、なんか複雑だな」


「ふふ。褒めてますよ」


 こんなふうに、栞との会話はいつも自然だ。


 声を張らなくていいし、無理に面白いことを言う必要もない。会話のテンポが穏やかで、変な緊張がない。


 そのことにほっとしている自分に気づき、湊は少しだけ苦笑した。


 今朝、黒瀬相手に変な空振りをしたせいかもしれない。


「白瀬さんって、よくこういうの手伝ってるよね」


「頼まれやすいだけです」


「断らないからじゃない?」


「……それは、ちょっとあるかもしれません」


 素直に認めるところが、いかにも彼女らしい。


 話していると、教室後方から女子の笑い声が上がった。なんとなくそちらを見ると、黒瀬が友達二人と立ち話をしている。スマホ画面を見せながら何か話していて、口元だけで笑っていた。


 その視線が一瞬、こちらをかすめた。


 本当に一瞬だ。気のせいかもしれないくらい短い。


 だが次の瞬間には、黒瀬は興味をなくしたみたいに顔を背けてしまう。


 湊の胸の奥に、また小さなざらつきが生まれた。


「朝比奈くん?」


「あ、いや、なんでも」


「……今日、少しぼんやりしてます?」


 栞はきょとんとした顔でそう言った。


 見抜かれた気がして、湊は曖昧に笑う。


「ちょっと寝不足かも」


「では、授業中に寝ないように気をつけてくださいね」


「先生みたいなこと言うな」


「よく言われます」


 そう言って、栞は配り終えた残りのプリントを抱えたまま、自分の席へ戻っていった。


 その後ろ姿は地味で、控えめで、教室の風景にうまく溶け込んでいる。けれど不思議と、見失いにくい。


 昼休み。


 男子数人がコンビニパンを広げて騒ぎ、女子たちは机を寄せて弁当を開く。いつもと変わらない教室の空気の中で、湊は購買で買った焼きそばパンをかじっていた。


 そのタイミングで、また栞が近づいてきた。


「朝比奈くん、昨日の現文のノート、もしよかったら後で見せてもらえませんか」


「え、ああ、いいよ」


「ありがとうございます。少し写しそびれてしまって」


「放課後でいい?」


「はい。助かります」


 それだけ言って去っていく。あっさりしていて、変に周囲の目を引かない。


 やっぱり話しやすいな、と思った時。


「へえ」


 近くで声がした。


 顔を上げると、黒瀬だった。


 いつの間にか自分の机の横を通る位置にいて、明らかに湊のほうを見ている。茶髪を指先でくるくる弄びながら、少しだけ眉を上げていた。


「……なに」


 湊がそう返すと、黒瀬は肩をすくめる。


「別に」


「じゃあその“へえ”は何」


「なんでもないって」


 冷たい。というより、妙に刺々しい。


 昨夜のことを知らなければ、単に黒瀬が機嫌悪いだけだと思っただろう。だが今は、その棘の一本一本に少しずつ意味を探してしまう。


「……プリント配ってもらってたじゃん」


「それがどうかした?」


「いや、仲いいんだなって思っただけ」


 言い方が、ほんの少しだけ変だった。


 なんでもないふうを装っているのに、どこか探るような響きがある。


 湊が返答に迷っていると、黒瀬は先に視線を逸らした。


「別に深い意味ないし」


 そう言って、自分の席へ戻っていく。


 何だそれ、と湊は心の中で呟いた。


 聞いたのはそっちだろう。


 でも、追いかけて問いただすほどの勇気も理由もない。


 結局そのまま午後の授業に入り、ヘアピンは返せないまま一日が過ぎていった。


 放課後。


 約束通り、栞にノートを貸すことになった。教室にはまだ数人残っていて、部活へ行く者、だらだら話す者、掃除当番でもないのに窓際で騒ぐ者、それぞれがそれぞれの時間を過ごしている。


「ここ、助かります」


 湊のノートを覗き込みながら、栞が小さく息をついた。


「ほんとに字、きれいですね」


「そんなに?」


「はい。私は急ぐと崩れるので、少し羨ましいです」


「真面目そうなのに」


「朝比奈くんに言われたくないです」


「なんでだよ」


 そんな会話をしていると、教室のドアが開く音がした。


 何気なくそちらを見る。


 入ってきたのは黒瀬だった。たぶん忘れ物でも取りに来たのだろう。友達はいない。珍しく一人だ。


 彼女は一歩だけ教室に入って、そこで足を止めた。


 湊と栞が並んでノートを見ている光景を、真正面から捉えた形になる。


 ほんの一瞬。


 黒瀬の目が細くなった気がした。


 だが次の瞬間にはいつもの無表情へ戻り、何事もなかったみたいに自分の席へ向かう。


 栞はその変化に気づいていないのか、気づいていても出さないのか、静かにページをめくっていた。


 しばらくして。


「じゃあ、ありがとうございます。明日お返ししますね」


「うん、別に急がなくていいよ」


「でも借りたままは落ち着かないので」


 そう言って栞が微笑む。


 その時、黒瀬が席を立った。


 手にはスマホと、小さなポーチ。忘れ物はそれだったらしい。こちらを見ることなく、そのまま教室を出ていく。


 出ていく直前、ほんの少しだけドアのところで立ち止まった気がしたが、気のせいかもしれない。


 湊は妙にざわつく胸を抱えたまま、帰り支度を始めた。


 栞と別れ、駅前のスーパーに寄り、特売の鶏むね肉と豆腐、それに牛乳を買う。夕方の空は少し赤く、風は昼より冷たい。


 帰宅して靴を脱ぎ、制服をハンガーにかけ、キッチンへ立つ。


 まな板を出し、包丁を洗い、鍋に湯を沸かす。


 いつも通りの動作のはずなのに、今日はどこか上の空だった。


 原因はわかっている。


 黒瀬だ。


 朝の“は?”も、昼の探るような言い方も、放課後のあの一瞬の目つきも、何もかも中途半端に引っかかっている。


 礼を言った翌日に、あそこまで綺麗に切り替えられるものなのか。


 切り替えたというより、昨夜のことをなかったことにしようとしているようにも見えた。


 それは別に悪いことではない。


 むしろ自然だ。夜中に男子の部屋に入ったなんて、学校へ持ち込みたくないだろうし、湊だってそうだ。


 でも、あそこまで徹底されると、少しだけ寂しいと思ってしまう自分がいた。


 寂しい、はおかしいか。


 変な言い方だ。


「……重症だな」


 独り言が漏れた時だった。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴る。


 思わず手が止まる。


 こんな時間に、誰だ。


 宅配を頼んだ覚えはない。管理会社から何か届く予定もない。近所付き合いなんてほとんどないから、隣人がわざわざ来ることもない。


 嫌な予感と、妙な予感が半分ずつ。


 エプロンの端で手を拭きながら、湊は玄関へ向かった。


 モニターを覗く。


 そこに映っていた姿を見て、心臓が一瞬だけ強く跳ねた。


 黒瀬琉衣奈だった。


 今度はベランダではなく、正面玄関の前に立っている。学校の制服ではなく、昨夜ほどラフではないにしても、やはり家で着ていたらしい私服姿。黒っぽいパーカーに細身のデニム。髪は下ろしていて、メイクも昼間より薄い。


 モニター越しでも、不機嫌そうな顔をしているのがわかった。


「……なんで」


 口の中で呟いてから、湊は慌てて鍵を開けた。


 ドアを開ける。


 黒瀬は真正面から湊を見て、少しだけ顎を上げた。


「……昨日の、服」


「え?」


「返しに来たんだけど」


 そう言って、彼女は昨夜貸したブランケットと、畳まれたTシャツを突き出してきた。確かに返しに来たのだろう。


 だが、それだけなら玄関先で済む話だ。


 なのに黒瀬は、湊が受け取る前に、ちらりと室内の奥を見た。


「……入っていい?」


 唐突だった。


 湊は一瞬、言葉を失う。


「返すだけじゃないの」


「返したじゃん」


「今したところだろ」


「じゃあもう帰ってもいいけど」


 その言い方が、妙に意地を張っているように聞こえた。


 昨夜の礼を言わないどころか、朝には冷たく、今はまた夜の顔で目の前にいる。どういう感情で来ているのか、湊にはまったく読めない。


 読めないのに、断れる気もしなかった。


「……別に、いいけど」


「じゃあ入る」


 ほとんど間を置かず、黒瀬は玄関をまたいだ。


 その自然さに、湊は思わず笑いそうになる。


「お邪魔しますとかないんだ」


「言ってほしいの?」


「いや、別に」


「じゃあいいじゃん」


 そのまま靴を脱ぎ、昨日と同じように部屋の奥へ進んでいく。昨日よりも少しだけ迷いがない。


 まるで、一回来た場所だから当然という顔だ。


「……なんなの」


「なにが」


「いや、学校だとあんな感じなのに、夜だと普通に来るの」


 つい、口から出てしまった。


 黒瀬は足を止める。


 振り向く。


 その表情は、わずかに固かった。


「学校は学校でしょ」


「夜は夜?」


「……そうだけど」


「いや、意味わかんないだろ」


「わかんなくていいし」


 それだけ言うと、黒瀬は不機嫌そうにソファへ腰を下ろした。


 完全に昨夜の続きみたいな位置だ。


 湊は玄関で受け取った服を抱えたまま立ち尽くしていたが、やがて諦めてキッチンへ向かう。


「なんか飲む?」


「……昨日の甘いやつ」


「カフェラテ?」


「それ」


 湊はマグカップを二つ出しながら、少しだけ口元を緩めた。


 黒瀬琉衣奈は礼を言わない。


 学校では冷たい。


 でも、夜になるとまたここへ来るらしい。


 そのことの意味を、まだ湊は知らない。


 ただ一つわかるのは――これはたぶん、昨夜だけの話では終わらないということだった。

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