ep.66 斜め後ろのギャルは、思ったより近くで息をする
新しい席になって最初の朝、朝比奈湊は教室のドアを開ける前から少しだけ身構えていた。
席替えは、ただ机の位置が変わるだけだ。
昨日まではそう思っていた。
けれど、実際に黒瀬琉衣奈が斜め後ろの席になってみると、その考えがかなり甘かったことに気づく。
窓際から飛んでくる視線とは違う。
斜め後ろは、もっと近い。
視界に入らないのに、気配だけがある。
振り向けばすぐ届く距離にいる。
プリントを回す時、声をかける時、椅子を引く時、いちいち意識してしまう。
教室へ入ると、黒瀬はもう来ていた。
新しい席。
湊の斜め後ろ。
昨日までの窓際とは違い、少し教室の中心に寄った位置に座っているせいか、黒瀬自身もまだ落ち着かないように見えた。
それでも髪はいつも通り整っていて、制服の着崩し方も自然で、学校の黒瀬琉衣奈としては隙がない。
ただ、湊が入ってきた瞬間、彼女はすぐこちらを見た。
近い。
視線の距離が、明らかに昨日までと違う。
「……おはよ」
黒瀬が小さく言った。
前なら、窓際から届くぎりぎりの声だった。
今日は普通に聞こえる。
「おはよう」
湊が返すと、黒瀬はすぐ視線を逸らした。
けれど、逸らしたあとも近い。
湊は自分の席に座り、鞄を机の横にかける。
その瞬間、背後から黒瀬の声が落ちた。
「……近」
「くじだからな」
「わかってるし」
昨日と同じような会話。
でも、朝の教室で、しかも実際に斜め後ろから聞こえると、妙に生々しい。
「朝比奈くん、おはようございます」
前方から、白瀬栞の声がした。
新しい席では、栞は湊の斜め前の少し離れた場所にいる。
前の席ではない。
それだけで、ほんの少し遠く感じる。
「おはよう」
湊が答えると、栞は穏やかに笑った。
「新しい席、まだ慣れませんね」
「だな」
「黒瀬さんは、かなり近くなりましたね」
さらりと言う。
後ろで黒瀬が小さく反応したのがわかった。
「白瀬、そういうの普通に言うのやめて」
黒瀬が言う。
栞は少しだけ振り向き、いつものように静かに謝った。
「すみません。でも、本当に近いと思ったので」
「謝るの早いし」
「はい」
「そこは返事しなくていい」
そのやり取りが、思ったより自然だった。
席が変わって、栞との距離は少し遠くなった。
けれど、言葉の距離まで遠くなったわけではない。
湊は少しだけ安心した。
一限目が始まる。
最初の問題は、黒瀬の気配だった。
教科書を開く音。
シャープペンを出す音。
椅子に座り直す小さな音。
黒瀬が斜め後ろで動くたび、湊は妙に気になってしまう。
見えないのに、いる。
これがかなり落ち着かない。
教師が板書を始め、教室にチョークの音が響く。
湊はノートを取ろうとした。
その時、背後から小さな紙片が机の端へ滑ってきた。
ちらりと見る。
小さく折られたメモだった。
湊は一瞬固まった。
今どき紙のメモ。
しかも授業中。
黒瀬らしいような、らしくないような。
教師の目を気にしながら、そっと開く。
そこには短く書かれていた。
――後ろ、気にしすぎ。
湊は思わず口元を押さえた。
自分でも気づいていたが、まさか黒瀬にも見抜かれていたとは。
湊はシャープペンで下に返事を書く。
――そっちが近いからだろ。
少し迷って、紙を小さく折り、机の端から後ろへ滑らせる。
数秒後、背後で紙を開く気配。
さらに数秒後、また戻ってくる。
――くじに文句言って。
湊は今度こそ笑いそうになった。
教師に見られないよう、視線を黒板へ戻す。
斜め前の栞が、ほんの少しだけこちらを見た。
気づいている。
たぶん、メモのやり取りに。
けれど栞は何も言わず、ただノートに視線を戻した。
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた気がした。
休み時間になると、黒瀬がすぐに小声で言った。
「朝比奈、顔に出すぎ」
「授業中にメモ寄こすなよ」
「だって、ずっと変な背中してたし」
「背中でわかるのか」
「わかる。斜め後ろだから」
「それ、こっちが不利すぎる」
「今まで窓際から見てた時より、もっとわかる」
黒瀬は言ってから、しまったという顔をした。
湊はゆっくり振り向く。
「今まで見てたんだ」
「……見えてただけ」
「見てたんだな」
「しつこい」
黒瀬は視線を逸らした。
耳が少し赤い。
その時、窓際のほうから莉子の声が飛んできた。
「るいなー、新席どう?」
「普通」
「朝比奈くんの背中、見やすい?」
「莉子!」
黒瀬が即座に声を上げる。
教室の数人が笑った。
湊は聞こえないふりをする。
だが、これは聞こえないふりにも限界がある。
莉子はにやにやしながら手を振った。
「ごめんごめん。席替えハイだから許して」
「許さない」
「こわ」
莉子は笑って友達のところへ戻っていった。
黒瀬は深く息を吐く。
「……あいつ、ほんと黙らない」
「でも楽しそうだな」
「楽しんでる場合じゃないし」
「黒瀬も少し楽しそうだけど」
「は?」
「いや、なんでもない」
「言い逃げすんな」
言い合いになりかけたところで、栞が近づいてきた。
以前より少し遠い席から歩いてくるだけで、ほんの少しだけ時間がかかる。
それが、妙に気になった。
「朝比奈くん」
「ん?」
「さっきのノート、少し見せてもらってもいいですか」
「ああ、いいよ」
湊がノートを渡す。
栞は受け取り、内容を確認する。
「ありがとうございます。新しい席だと、板書が少し見えづらくて」
「前より遠くなったもんな」
「はい」
栞はそう言ってから、黒瀬のほうを見た。
「黒瀬さんは、見えますか?」
「見える。前よりは真ん中だし」
「それならよかったです」
「……別に」
黒瀬は少しだけ言葉に詰まってから、顔を逸らした。
その横顔は、以前ほど尖っていない。
栞もそれをわかっているのか、穏やかに微笑んだ。
昼休み。
新しい席になって初めての昼休みは、少し不思議だった。
栞は以前のように前の席へ座ることができない。
湊の前の席は別の男子になってしまったからだ。
黒瀬は斜め後ろ。
莉子は少し離れた窓際。
今まで自然に作れていた三人の距離が、席替えで一度崩れた。
どうするのかと湊が考えていると、栞が弁当箱を持って近づいてきた。
「ここ、少しだけいいですか?」
湊の横の空いた椅子を指す。
「もちろん」
湊が答えるより少し早く、背後から黒瀬が言った。
「いいんじゃない」
湊は驚いて振り向く。
黒瀬はパンの袋を開けながら、何でもない顔をしていた。
「何」
「いや」
「空いてるんだから、座ればいいじゃん」
黒瀬はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
栞が柔らかく笑う。
「ありがとうございます」
「別に、あたしの席じゃないし」
「でも、ありがとうございます」
「……だから、そういうの」
黒瀬は困ったように言いながらも、それ以上は言わなかった。
栞が座る。
黒瀬は斜め後ろから少し体をこちらへ向ける。
結果として、三人はまた近い距離になった。
前とは違う形で。
「変な形だな」
湊が言うと、黒瀬がパンをかじりながら返した。
「席替えのせい」
「でも、悪くないですね」
栞が言う。
黒瀬は少しだけ黙ったあと、小さく頷いた。
「まあ、悪くはない」
最近の黒瀬は、この言葉をよく使う。
悪くはない。
それは、かなり大きな肯定だ。
放課後。
新しい席での一日が終わる頃には、湊は思ったより疲れていた。
黒瀬が近いこと。
栞が少し遠くなったこと。
莉子が相変わらず見ていること。
全部が少しずつ変わっていて、気を張っていたのだと思う。
帰り支度をしていると、斜め後ろから黒瀬が言った。
「朝比奈」
「何?」
「今日、変だった?」
「席?」
「うん」
「変だった」
「正直」
「でも、悪くなかった」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
「黒瀬は?」
「変だった」
「うん」
「でも、悪くはなかった」
同じ答え。
それだけで、少し笑いそうになる。
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く」
「席替え初日だしな」
「疲れたし」
「カフェラテいる?」
「当然」
黒瀬は少しだけ笑って、鞄を持った。
「あと」
「ん?」
「授業中のメモ、誰にも言わないで」
「言わないよ」
「白瀬には?」
「たぶん気づいてる」
「……あの子、ほんと強い」
「だな」
黒瀬は少しだけ困ったように笑った。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。席替え疲れた』
湊は返信する。
『お疲れ。カフェラテ用意しとく』
『当然』
『メモは明日も?』
少し間が空いた。
『気分の問題』
湊は笑った。
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつもより少し疲れた顔で立っていた。
「……遅」
「斜め後ろから見られる初日、お疲れ」
「それ言うな」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファに沈む。
クッションを抱え、深く息を吐いた。
「近いの、変」
「朝も言ってたな」
「一日中変だった」
「でも?」
「……悪くはなかった」
黒瀬はカフェラテを受け取りながら、小さく言った。
「あと、朝比奈の背中、わりとわかりやすい」
「やめてくれ」
「無理。見えるし」
「こっちは後ろ見えないんだけど」
「じゃあメモ送る」
「授業中に?」
「気分の問題」
「便利すぎるだろ」
黒瀬は少しだけ笑った。
斜め後ろのギャルは、思ったより近くで息をする。
見えないのにいる。
見えないから余計に気になる。
席替えで変わったその距離は、二人の日常をまた少しだけややこしくしていくのだろう。




