ep.65 席替えの日、ギャルは窓際から少しだけ離れる
翌朝、教室に入った瞬間、朝比奈湊は黒板の端に書かれた文字を見て足を止めた。
――六限後、席替え。
たったそれだけの文字なのに、教室の空気は朝から少し浮いていた。
男子は「ついに来たか」と大げさに言い、女子は「窓際だけは死守したい」と笑っている。前の席の男子はもう勝手にくじ運の悪さを嘆いていたし、莉子は黒瀬琉衣奈の肩をつつきながら何か言っていた。
「るいな、窓際じゃなくなるかもね」
「別にどこでもいいし」
「うそ。絶対その席気に入ってるでしょ」
「景色見えるだけ」
「あと、朝比奈くんも見えるし?」
「莉子」
黒瀬の声が低くなる。
湊は聞こえないふりをした。
最近、それがうまくなってきたのはいいことなのか悪いことなのか、自分でもよくわからない。
窓際の黒瀬は、もう教室の景色の一部になっていた。
朝、そこを見る。
目が合う。
小さく「おはよ」と言われる。
それがここ最近の朝の形だった。
席替えでその位置が変わる。
ただそれだけのことなのに、少し落ち着かない。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が横に立っていた。
「おはよう」
「席替えですね」
「そうだな」
「少し、困った顔をしています」
「顔に出てる?」
「はい」
栞は小さく笑う。
「黒瀬さんも、かなり困っています」
湊は思わず窓際を見る。
黒瀬は莉子に何か言い返しているが、たしかにいつもより少し落ち着かない。スマホを見るふりをしながら、ちらちら黒板を確認している。
「黒瀬、あの席気に入ってたのかな」
「気に入っていたと思います」
「景色?」
「それもあると思いますけど」
栞は少しだけ声を落とした。
「朝比奈くんの席も、見やすかったんだと思います」
「……白瀬さん」
「すみません。言いすぎました」
いつものようにすぐ謝る。
でも、たぶん当たっている。
窓際の席から、黒瀬はよくこちらを見ていた。
見ていないふりをしながら、ちゃんと見ていた。
そして湊も、教室に入るたび黒瀬の席を見ていた。
お互い様だ。
一日中、席替えの話題は妙に残った。
授業中も、休み時間も、昼休みも、誰かが「次どこになるかな」と言っている。
黒瀬は表面上はどうでもよさそうにしていたが、昼休みに三人で近くにいた時、ぽつりと言った。
「席替えって、だるい」
「珍しく本音だな」
湊が言うと、黒瀬はメロンパンの袋をいじりながら少し眉を寄せる。
「だって、今ので別によくない?」
「今の席、好きなんですね」
栞が静かに言う。
「好きとかじゃないし」
「落ち着くんですか?」
「……まあ、ちょっと」
黒瀬はそこで言葉を止めた。
それから、湊のほうを少しだけ見て、すぐ逸らす。
「窓際、楽だし」
たぶん、それだけではない。
でも、そこまで言えただけでも十分なのだろう。
莉子が遠くから声を飛ばしてきた。
「るいなー、席替えで朝比奈くんの近くになったらどうする?」
「は?」
「逆に遠くなったら?」
「莉子、黙ってパン食べて」
「もう食べた」
「じゃあ二個目買ってきて」
「扱い雑!」
教室の数人が笑う。
黒瀬は顔を赤くしながらも、前ほど本気で怒らなかった。
その代わり、小さく湊へ言う。
「……あいつ、最近調子乗ってる」
「でも、ちょっと助かる時もあるんだろ」
「それ今言う?」
「昨日言ってたから」
「夜のこと昼に持ってくるなって」
「悪い」
黒瀬はむくれたが、すぐに少しだけ笑った。
その笑いが、今の昼休みには自然に見えた。
六限が終わると、教室は急に騒がしくなった。
担任がくじの入った箱を持って入ってきて、「はい、騒がない。机動かす時は床を引きずらない」といつもの注意をする。
それでも、クラスの空気はもう完全に浮いていた。
出席番号順にくじを引いていく。
湊の番は中ほどだった。
箱に手を入れ、折られた紙を一枚取る。
開く。
――四列目、後ろから二番目。
今より少しだけ後ろ。廊下側でも窓際でもない、中途半端な位置だ。
「微妙だな」
思わず呟くと、前の男子が「一番コメントしづらいやつじゃん」と笑った。
次々とくじが引かれていく。
栞は三列目の前から三番目。
湊からは斜め前の少し遠い位置だった。
彼女はくじを見て、ほんの少しだけ目を伏せたが、すぐにいつもの顔に戻った。
そして黒瀬。
彼女は箱に手を入れる前から、明らかに落ち着いていなかった。
莉子が横でにやにやしている。
「るいな、神頼みする?」
「しない」
「朝比奈くんの近くになりますように?」
「莉子」
「はい黙ります」
言いながら全然黙っていない顔だった。
黒瀬がくじを引く。
開く。
一瞬、表情が止まった。
湊は自分でも驚くくらい、その顔を見ていた。
黒瀬は紙を握りしめ、何でもない顔を作ろうとした。
だが、莉子が横から覗き込む。
「お、るいな、そこ?」
「見るな」
「えー、いいじゃん。朝比奈くんの斜め後ろじゃん」
教室の音が、湊の耳の中で少しだけ遠くなった。
斜め後ろ。
つまり、黒瀬は湊の斜め後ろの席になったらしい。
窓際ではない。
でも、近い。
今までのように教室の端から視線を送る位置ではない。
もっと近くて、もっと逃げにくい位置だ。
黒瀬は莉子を睨んだ。
「声でかい」
「ごめんごめん。でもよかったじゃん」
「何が」
「席」
「別に」
その“別に”は、かなり弱かった。
席替えが始まる。
机を動かす音が響き、椅子が少しぶつかり合い、誰かが「そこ俺」と叫ぶ。
湊は新しい席へ机を運びながら、斜め後ろに黒瀬が来ることを意識しないようにした。
無理だった。
黒瀬が近い。
これまで以上に、昼の距離が近い。
黒瀬もそれを意識しているのか、机を運ぶ動きが少し硬かった。
途中、彼女の机の上に積んでいた教科書が少し崩れた。
「あ」
黒瀬が手を伸ばすより早く、湊が反射的に支えた。
落ちかけたノートが、湊の手と黒瀬の手の間で止まる。
指先が少しだけ触れた。
本当に一瞬。
けれど、教室でその一瞬は長い。
「……ありがと」
黒瀬が小さく言う。
「うん」
湊も短く返す。
すぐに手を離した。
莉子が遠くから口だけで「おー」と言っているのが見えた。
黒瀬はそれを見つけて、ものすごい目で睨んだ。
「莉子、あとで覚えてて」
「怖」
莉子は笑いながら自分の机を運んでいく。
栞はその一部始終を見ていた。
けれど何も言わなかった。
ただ、新しい席に座る前に湊へ少しだけ近づき、小さく言った。
「近くなりましたね」
「うん」
「黒瀬さん、逃げにくくなります」
「だな」
「でも、たぶん悪いことばかりではないと思います」
栞はそう言って、自分の席へ向かった。
その背中は少し遠くなった。
それが、湊には少しだけ引っかかった。
席替えは、距離を変える。
ただ机の位置が変わるだけなのに、関係の見え方まで少し変えてしまう。
新しい席に座る。
湊の斜め後ろに黒瀬。
少し前方に栞。
莉子は黒瀬の隣ではなく、窓際の別の列になった。
教室の風景が変わる。
黒瀬が後ろから小さく言った。
「……朝比奈」
振り返りすぎないように、湊は少しだけ首を傾ける。
「何?」
「近い」
「くじだからな」
「わかってるし」
「嫌?」
「……嫌ではない」
小さな声。
けれど、ちゃんと届いた。
「でも、変」
「俺も」
「そっか」
それだけで、黒瀬は少し落ち着いたようだった。
放課後。
新しい席に慣れないまま、帰り支度をする。
黒瀬は斜め後ろの席から鞄を持ち上げ、湊の机の横へ来た。
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く」
「席替え疲れ?」
「それもある」
「近くなったから?」
「……それもある」
珍しく、否定しなかった。
湊は少しだけ驚く。
黒瀬はすぐに視線を逸らした。
「変な意味じゃないし」
「わかってる」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって何」
いつものやり取り。
けれど、新しい席になったせいで、少しだけ響き方が違う。
黒瀬は鞄を肩にかける。
「あと」
「ん?」
「明日から、後ろで変な顔しないで」
「俺が?」
「朝比奈、たまに考えてること顔に出るから」
「後ろから見えるのか」
「斜め後ろだから見えるし」
「それ、こっちも気が抜けないな」
「お互い様」
黒瀬は少しだけ笑った。
その笑い方は、近くなった昼の距離をまだどう扱えばいいかわからない顔だった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。席替えのせい』
湊は笑って返信する。
『了解。カフェラテも?』
『当然』
『席、近くなったな』
少し間が空いた。
『言うな』
さらにもう一通。
『でも、嫌ではない』
湊はしばらくその文を見ていた。
『俺も嫌じゃない』
送る。
既読。
返事はすぐだった。
『そういうの、メッセージで言うな』
『昼でも夜でも怒るだろ』
『それはそう』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は少しだけ疲れた顔で立っていた。
「……遅」
「席替えお疲れ」
「ほんと疲れた」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座るなりクッションを抱えた。
「近いの、変」
「教室の席?」
「うん」
「俺もまだ慣れない」
「でも」
黒瀬はクッションに頬を押しつける。
「嫌じゃない」
「メッセージでも言ってたな」
「読み上げるな」
「読んでない」
「思い出させるな」
湊は笑いながらカフェラテを出した。
黒瀬は両手で受け取る。
「明日から、朝、おはよって言いやすいかも」
「近いから?」
「うん。でも、逆に恥ずいかも」
「どっちだよ」
「どっちも」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
席替えの日、ギャルは窓際から少しだけ離れた。
けれどそのぶん、湊との距離は少し近くなった。
それが良いことなのか、危ないことなのか、まだ二人にはわからない。
ただ、今夜の黒瀬は、困ったようにしながらも少しだけ嬉しそうだった。




