ep.64 いつもの教室に戻ったはずなのに、三人の距離は少しだけ違う
翌朝、教室の空気はいつも通りだった。
朝のざわめき。
机を引く音。
眠そうに欠伸をする男子。
窓際でスマホを見ながら莉子に何か言われている黒瀬琉衣奈。
何も変わっていない。
そう見えた。
けれど朝比奈湊は、教室に入ってすぐ、その“いつも通り”の中に少しだけ違うものが混じっていることに気づいた。
黒瀬が、白瀬栞のほうを一度見たのだ。
ほんの一瞬。
けれど、それは前みたいな警戒の目ではなかった。
敵を見る目でも、距離を測る目でもない。
昨日、本を返した相手を見る目だった。
感想を聞いてもらった相手を見る目だった。
それだけで、少しだけ胸の奥が温かくなる。
湊が席へ向かうと、黒瀬はこちらを見た。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶はもう、ほとんど教室の日常になりかけている。
莉子が横でにやにやしながら言った。
「るいな、最近おはよう言うの自然になったね」
「うるさい」
「褒めてるのに」
「莉子の褒め方、だいたい腹立つ」
「ひど」
軽いやり取り。
でも、黒瀬の反応は前より柔らかい。
莉子も、それを楽しそうに見ている。
「朝比奈くん、おはようございます」
今度は栞の声。
「おはよう」
栞はいつも通り落ち着いた顔で立っていた。
けれど今日は、少しだけ黒瀬のほうへ視線を向けてから、湊に言った。
「昨日、黒瀬さんと少し本の話をしました」
「うん。聞いた」
「とてもいい感想でした」
「本人に言った?」
「言いました」
「黒瀬、困っただろ」
「困っていました」
栞は少しだけ笑った。
「でも、ちゃんと受け取ってくれました」
その言い方がよかった。
黒瀬が感想を渡した。
栞が受け取った。
それは、本の話でありながら、二人の距離の話でもある。
「白瀬さん、嬉しそうだな」
「はい。嬉しいです」
栞は素直に頷いた。
「自分の好きな本を、誰かが大切に読んでくれるのは嬉しいです。黒瀬さんがどう読むのか、少し緊張もしましたけど」
「緊張してたんだ」
「していました。かなり」
「全然見えなかった」
「見せないようにしました」
さらっと言う。
その静かな強さに、湊は少し笑ってしまった。
一限前、栞はいつものように前の席へ座った。
黒瀬はそれを見ていた。
けれど今日は、不機嫌そうに目を細めることはなかった。
少しだけ見る。
それから、自分のスマホに視線を戻す。
ただそれだけ。
湊は、その変化に少し驚いた。
「……黒瀬、今日は怒らないな」
小声で言うと、栞はノートを開きながら答えた。
「昨日、少し距離が変わったからかもしれません」
「距離?」
「はい。私が一方的に近づいているだけではなくて、黒瀬さんもこちらに言葉を渡してくれたので」
その表現が、栞らしかった。
言葉を渡す。
本を渡す。
感想を渡す。
しおりを返す。
そういう小さなやり取りが、確かに昨日あった。
「じゃあ、白瀬さんと黒瀬は少し仲良くなった?」
湊が聞くと、栞は少し考えた。
「仲良くなった、というより」
「うん」
「少しだけ、ちゃんと向き合えるようになった気がします」
「それ、いいな」
「はい。私もそう思います」
栞はほんの少しだけ微笑んだ。
二限の休み時間。
黒瀬が湊の席へ来た。
今日は本もプリントも持っていない。
それなのに来るのは、少し前ならかなり不自然だったはずだ。
でも今は、もうそこまで不自然ではない。
「朝比奈」
「何?」
「昨日の動画、途中だったじゃん」
「ああ、バラエティ?」
「続き、今日見る?」
「来る前提なんだな」
「……行くかは送るし」
黒瀬は少しだけ口を尖らせる。
「でも、続きあるなら見る」
「了解」
それだけの会話。
なのに、黒瀬は少しだけ満足そうだった。
前は、昼に用事を作ること自体がぎこちなかった。
消しゴムを借りたり、プリントを見せてもらったり、焼きそばパンを頼んだり。
今は、夜に見る動画の続きを昼に確認できる。
それは、かなり近い。
近いけれど、黒瀬自身がその距離に少しずつ慣れてきている。
そこへ莉子が横から顔を出した。
「るいな、今日も朝比奈くんち?」
「は?」
黒瀬が即座に反応する。
湊も一瞬固まった。
莉子は両手を軽く上げた。
「冗談。動画の話してたから」
「冗談でも言うな」
「ごめんって」
莉子は笑っていたが、それ以上は踏み込まなかった。
前なら、もう一言二言からかっていたはずだ。
でも今日は引く。
その引き方が、最近の莉子らしい。
黒瀬もそれがわかったのか、少しだけ息を吐いただけで終わった。
「……莉子、最近ちょっと空気読む」
「え、褒められた?」
「褒めてない」
「半分くらい?」
「半分以下」
「ひど」
莉子はけらけら笑って、窓際へ戻っていった。
黒瀬はそれを見送ってから、小さく言う。
「でも、まあ」
「うん」
「助かる時もある」
「本人に言えば?」
「無理」
「即答だな」
「言ったら調子乗るし」
黒瀬はそう言ったが、声には少しだけ親しさが滲んでいた。
昼休み。
今日は不思議な形になった。
栞が前の席に座り、湊が購買のパンを食べていると、黒瀬が少し迷った末に、昨日と同じように近くの空いた椅子を引いた。
「……ここ、座っていい?」
ちゃんと聞いた。
それも変化だった。
「いいけど」
湊が答えると、黒瀬は腰を下ろす。
栞は少しだけ目を丸くしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「黒瀬さん、こんにちは」
「……昼にこんにちはって変じゃない?」
「そうですか?」
「いや、別にいいけど」
黒瀬は少しだけ居心地悪そうにしながら、購買の袋を開けた。
焼きそばパンではない。
今日はメロンパンだった。
「珍しいな」
湊が言うと、黒瀬は袋を破りながら答えた。
「莉子が焼きそばパン見るたびににやにやするから変えた」
「なるほど」
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「笑いそうだった」
栞がそのやり取りを静かに見ていた。
黒瀬はそれに気づき、少しだけ眉を寄せる。
「何」
「いえ」
栞は首を横に振る。
「黒瀬さん、前より自然に話していますね」
「そういうの、普通に言うのやめて」
「すみません」
「謝るのも早いし」
お決まりみたいなやり取りになりつつある。
それが少し可笑しくて、湊は今度こそ笑ってしまった。
「朝比奈も笑うな」
「悪い」
「絶対悪いと思ってない」
「半分くらい」
「それ、あたしのやつ」
「使いやすいから」
黒瀬は呆れたように息を吐いた。
でも、その顔はどこか楽しそうだった。
しばらく三人で昼を食べた。
会話は途切れたり、続いたりした。
最初からずっと自然だったわけではない。
黒瀬はときどき言葉に詰まるし、栞は気を遣いすぎて少し黙る。
湊も、どちらに話を振ればいいのか迷う場面が何度かあった。
それでも、気まずくはなかった。
少なくとも、逃げ出したくなるような空気ではない。
「……変な昼休み」
黒瀬がぽつりと言った。
栞が少しだけ笑う。
「そうですね」
「認めるんだ」
「はい。変です。でも、悪くないです」
黒瀬はメロンパンを小さくかじった。
「それは、まあ」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「悪くはない」
栞の目がやわらかくなる。
湊はその横で、何も言わなかった。
今は、言わないほうがいい気がした。
放課後。
黒瀬は帰り支度を終えて、湊の机の横へ来た。
「今日、行くかは送る」
「うん」
「たぶん行く」
「昨日と同じだな」
「たぶんって便利だし」
「気分の問題と同じくらい便利だな」
「そう」
黒瀬は少しだけ笑った。
それから、栞の方をちらっと見た。
栞は自分の席で本をしまっている。
「……白瀬にも、またなんか言うかも」
「本のこと?」
「本じゃなくても」
黒瀬は少しだけ照れくさそうに目を逸らす。
「今日、昼、悪くなかったから」
「うん」
「でも、毎日は無理」
「それでいいんじゃないか」
「……だよね」
黒瀬は小さく頷いた。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く。動画の続き』
湊は返信する。
『了解。カフェラテも?』
『当然』
『今日は読書じゃなくていいのか』
『今日は軽いやつ』
『わかった』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつもの顔で立っていた。
「……遅」
「今日は動画の日だな」
「うん。軽いやつ」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座る。
湊がカフェラテを出すと、彼女はクッションを抱えて、テレビのリモコンを指差した。
「続き」
「はいはい」
動画を再生する。
昨日の続きの、どうでもいい場面から始まった。
黒瀬はそれを見ながら、少しだけ肩の力を抜いている。
「今日、昼」
湊が言うと、黒瀬は画面を見たまま答えた。
「何」
「三人で食べてたな」
「うん」
「どうだった?」
「変だった」
「悪くは?」
「なかった」
短い返事。
でも、十分だった。
「白瀬さんと少し距離変わったな」
「……うん」
「莉子さんとも」
「それも、うん」
黒瀬はクッションに頬を乗せる。
「なんか、周りがちょっとずつ変わるの、変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない。けど、慣れない」
「だろうな」
「でも」
黒瀬は少しだけこちらを見る。
「前より、学校がだるくないかも」
それは、かなり大きい言葉だった。
湊はすぐには返さなかった。
黒瀬も、それ以上は言わなかった。
画面の中で誰かがまた同じようなボケをして、スタジオに笑い声が流れる。
いつもの夜に戻ったふりをしている。
けれど、昼の教室も、夜の部屋も、もう少しずつ変わっている。
その変化を、黒瀬はたぶん怖がりながらも、少しだけ受け入れ始めていた。




