ep.63 読書会のあと、ギャルはいつもの夜に戻ったふりをする
本を返した日の夜、黒瀬琉衣奈はいつもより少し軽かった。
朝比奈湊の部屋。
ソファの定位置。
テーブルの上にはカフェラテ。
テレビには、特に意味のないバラエティ番組。
少し前まで本の話をしていたとは思えないくらい、黒瀬はクッションを抱えて、いつものように画面を眺めていた。
「これ、前も見た気がする」
「再放送じゃないか?」
「でもこの芸人、毎回同じことしてない?」
「それはそう」
「じゃあ初見でも見た気がするやつじゃん」
「ひどいな」
そんな何でもない会話が、部屋に戻ってきていた。
湊はキッチンから追加の菓子皿を持ってきて、ローテーブルに置いた。スーパーで買った小さなクッキーだ。焼き菓子の店のものとは全然違う、個包装の普通のやつ。
黒瀬はそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「何これ」
「クッキー」
「見ればわかるし」
「じゃあ聞くなよ」
「焼き菓子?」
「まあ、広い意味では」
「広すぎ」
そう言いながら、黒瀬はひとつ取った。
袋を開けて、ぱきっと小さな音を立てる。
「……普通」
「普通のやつだからな」
「でも、こういうのでいい時もある」
何気なく言った黒瀬の声に、湊は少しだけ反応した。
こういうのでいい時もある。
その言い方が、今日の黒瀬に妙に合っていた。
読書会。
栞へ本を返す。
感想を言う。
しおりのページの話をする。
昼の彼女にしては、ずいぶん頑張った一日だったはずだ。
だから夜くらい、普通のクッキーを食べて、どうでもいいテレビを見て、何でもない話をしたいのかもしれない。
「……何」
黒瀬がこちらを見た。
「いや」
「また何か考えてたでしょ」
「今日は疲れただろうなって」
「まあ、ちょっと」
黒瀬は否定しなかった。
それから、クッキーをもう一口かじる。
「でも、変な疲れじゃない」
「そうなのか」
「うん。体育のあとみたいなやつ」
「わかるような、わからないような」
「ちゃんと動いた感じ」
黒瀬はテレビを見たまま言った。
「昼に、ちゃんと動いた感じ」
その言葉で、湊は何となく理解した。
心が、というより、関係が少し動いた。
黒瀬自身も、それを感じているのだろう。
「白瀬さんに感想言えたの、やっぱり大きかった?」
「うん」
今度は早かった。
「なんか、ずっとちょっとだけ引っかかってたし」
「本?」
「本もだけど、あのメガネにどう言うか」
黒瀬はクッションに顎を乗せる。
「朝比奈には言えるじゃん」
「そうか?」
「言える。夜だし」
夜だし。
その言葉は、もう二人の間で妙な説得力を持っている。
夜だから言える。
部屋だから言える。
カフェラテがあるから言える。
インターホンのあとだから言える。
でも、昼に栞へ言うのは別だった。
「白瀬は、ちゃんと聞くから」
「うん」
「雑に返せない感じあるし」
「たしかに」
「でも、ちゃんと聞いてくれるのは助かる」
黒瀬は少しだけ悔しそうに言った。
「悔しいけど、助かる」
「本人に言ったら喜ぶと思う」
「言わない」
「即答だな」
「言ったら、またあの顔するじゃん。ふわっと嬉しそうなやつ」
「するかもな」
「それ見たら、こっちが負けた感じする」
「まだ勝負なんだ」
「ちょっとだけ」
黒瀬はクッキーの袋を小さく丸めて、テーブルの端へ置いた。
「でも、前ほど嫌じゃない」
ぽつりと言う。
「白瀬さんのこと?」
「うん」
「そっか」
「嫌いじゃないって言ってたじゃん」
「言ってたな」
「今日、ちょっとだけわかった。嫌いじゃないっていうか……」
黒瀬は言葉を探して、少し黙った。
「面倒だけど、いてもいい」
言い方が黒瀬らしくて、湊は思わず笑ってしまった。
「何で笑うの」
「いや、かなり黒瀬っぽいなって」
「悪口?」
「半分褒めてる」
「それ、あたしのやつ」
「使いやすいから」
「勝手に使うな」
黒瀬は軽くクッションを投げるふりをした。
投げない。
ただ、ふりだけ。
こういうじゃれた空気も、少し前なら湊はもっと戸惑っていたかもしれない。
今は自然に受け止めている。
それも、たぶん変化だ。
テレビの中で誰かが大げさに転び、観客の笑い声が流れる。
黒瀬はそれをぼんやり見ながら、急に言った。
「今日、莉子も静かだった」
「ああ」
「絶対いじってくると思ったのに」
「見守ってたんじゃないか?」
「莉子が?」
「うん」
「……それは、まあ、あるかも」
黒瀬は少しだけ視線を落とした。
「最近、莉子もちょっと変」
「どんなふうに?」
「前なら、もっと雑に突っ込んできたと思う」
「今もそこそこ雑だけどな」
「そうだけど」
黒瀬は小さく笑った。
「でも、今日は読書会とか言っただけで、近くまでは来なかった」
「空気読んだんだろ」
「莉子が?」
「たぶん」
「明日、雪降るかも」
「そこまでか」
「だって莉子だし」
口ではそう言うが、黒瀬の声には少し嬉しさが混じっていた。
莉子が見てくれていること。
踏み込まないでくれたこと。
それを黒瀬はちゃんとわかっている。
本人にはきっと言わない。
でも、ここでは言う。
それが夜の黒瀬だった。
「……あたしさ」
「うん」
「今日、ちょっと普通じゃなかった?」
「普通だったと思う」
「ほんと?」
「うん。いい意味で」
「いい意味って何」
「無理して普通っぽくしてるんじゃなくて、自然に教室にいた感じ」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから、クッションに顔を半分埋める。
「そういうの、普通に言うなって」
「今日くらい言わせろよ」
「なんで」
「頑張ってたから」
「……子ども扱い?」
「してない」
「ほんと?」
「してない。ちゃんと見てたって意味」
黒瀬はしばらく黙っていた。
テレビの音だけが流れる。
やがて、クッションの向こうから小さく声がした。
「なら、いい」
それだけだった。
でも、その一言だけで十分だった。
しばらくして、黒瀬はいつものようにカフェラテを飲み干した。
「おかわり」
「今日は飲むな」
「疲れたし」
「カフェラテで疲れ取れるか?」
「取れる」
「糖分?」
「雰囲気」
「雑だな」
「いいじゃん」
湊は笑いながら立ち上がった。
キッチンでカフェラテを作り直す。
背中越しに、黒瀬の声が聞こえた。
「朝比奈」
「ん?」
「今日のこと、白瀬に変に言わないでよ」
「何を」
「あたしが、助かったとか、嫌じゃないとか言ってたやつ」
「言わないよ」
「ほんと?」
「うん」
「でも、ちょっとだけなら」
湊は手を止める。
「いいのか?」
「……いや、やっぱだめ」
「どっちだよ」
「気分の問題」
「便利だな、本当に」
黒瀬はソファで少し笑った。
「でも、いつか言うかも」
「白瀬さんに?」
「うん。いつか」
いつか。
黒瀬がそういう未来のある言葉を、最近よく使うようになった気がする。
その場限りではない。
今すぐではない。
でも、いつか。
それが今の彼女にとって、ちょうどいい距離なのだろう。
湊は新しいカフェラテを持って戻った。
「はい」
「ありがと」
黒瀬は自然に受け取った。
ありがとうも、もうだいぶ普通になった。
そう思った瞬間、黒瀬がじっとこちらを見る。
「今、何か思った?」
「いや」
「うそ」
「ありがとうが自然になったなって」
「言うな」
「悪い」
「でも」
黒瀬はカップを両手で包む。
「それは、まあ、いいことかも」
「だな」
「うん」
テレビの音が少し小さく感じた。
黒瀬はカフェラテを少しずつ飲みながら、しばらくぼんやりしていた。
読書会のあと、ギャルはいつもの夜に戻ったふりをする。
でも、完全には戻っていない。
白瀬栞の本。
藤堂莉子の見守り。
昼に感想を言えたこと。
返せる時でいいという言葉。
全部を抱えたまま、黒瀬はいつものソファで、いつものようにカフェラテを飲んでいる。
その“いつも”が、少しずつ変わっていくのを、湊は確かに感じていた。




