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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.62 読み終えたギャルは、メガネっ娘に本を返す前に深呼吸する

 その夜、黒瀬琉衣奈は思ったより長く本を読んでいた。


 朝比奈湊の部屋。

 いつものソファ。

 いつものカフェラテ。

 けれどテレビはついていない。スマホもテーブルの上に伏せられている。


 黒瀬はクッションを抱かず、文庫本を両手で持っていた。


 ページをめくる音だけが、夜の部屋に落ちる。


 湊は向かいの椅子に座って、自分の本を開いていた。けれど、正直あまり頭には入っていない。


 黒瀬が本を読んでいる。


 それだけで、どうしても気になってしまう。


 時々、彼女は眉を寄せる。

 時々、唇を少しだけ尖らせる。

 時々、同じ行を読み返すように視線を戻す。


 学校で見せる派手なギャルの顔でも、夜に甘えてくる顔でもない。


 文字と向き合っている顔だった。


 たぶん、本人は見られていることに気づいている。


 それでも今日は「見すぎ」とは言わなかった。


 しばらくして、黒瀬が最後のページをめくった。


 読み終わったのだと、音でわかった。


 彼女はすぐには本を閉じなかった。


 最後の一文をもう一度読むみたいに、目を落としたまま止まっている。


 それから、ゆっくり本を閉じた。


「……終わった」


 小さな声だった。


「どうだった?」


 湊が聞くと、黒瀬はすぐには答えなかった。


 文庫本の表紙を指先でなぞって、少しだけ考える。


「なんか、ずるい」


「ずるい?」


「最後、ちゃんと全部言うわけじゃないじゃん」


「ああ」


「でも、言わなかったことが消えた感じもしない」


 黒瀬は本を膝の上に置いた。


「そこが、ずるい」


 湊は少しだけ笑った。


「いい意味で?」


「半分」


「また半分か」


「半分はむかつく。ちゃんと言えよって思うし」


「うん」


「でも、半分は……まあ、そういう終わり方もあるかって思った」


 黒瀬は視線を落としたまま続ける。


「言えなかったことって、別に全部その場で言わなきゃ消えるわけじゃないんだなって」


 その言葉は、かなり黒瀬らしい感想だった。


 うまくまとめようとしていない。

 綺麗な言葉にしようとしていない。


 でも、ちゃんと彼女の中を通って出てきた言葉だった。


「それ、白瀬さんに言ったら喜ぶと思う」


 湊が言うと、黒瀬は少しだけ顔をしかめた。


「またすぐそれ言う」


「だって本当に」


「わかってるし」


 黒瀬は本を軽く持ち上げる。


「明日、返す」


「読み終わったばかりなのに?」


「うん。なんか、持ってると変に考えるから」


「考えるの嫌なのか?」


「嫌じゃないけど」


 黒瀬は少しだけ口を尖らせた。


「ずっと持ってると、返せなくなりそう」


 その言い方に、湊は少し黙った。


 返せる時でいい。


 あのページの言葉を、黒瀬はちゃんと引きずっている。


 急かされているわけではない。

 けれど、自分の中で返せると思った時に返したい。


 そういうことなのだろう。


「じゃあ、明日返せばいい」


「うん」


「感想も?」


「……言う」


 短い答え。


 でも、ちゃんと決まっている声だった。


 翌朝。


 黒瀬琉衣奈は、いつもより少しだけ早く教室に来ていた。


 湊が教室へ入ると、彼女は窓際の席で文庫本を机の上に置いていた。


 読み終えた本。


 そこには、栞のしおりが丁寧に挟まれている。


 黒瀬は湊と目が合うと、小さく口を動かした。


「……おはよ」


「おはよう」


 それだけ交わして、黒瀬はすぐに本へ視線を落とした。


 落ち着かないのだろう。


 莉子が横から覗き込む。


「るいな、本返すの?」


「うん」


「読み終わったんだ」


「読んだし」


「えら」


「子ども扱いすんな」


「いや、普通にえらいって」


 莉子の声はいつもより少しだけ柔らかかった。


 黒瀬はむっとした顔をしたが、強くは言い返さない。


 そのかわり、本を両手で持ち直した。


「朝比奈くん、おはようございます」


 白瀬栞がやってきた。


「おはよう」


 湊が返すと、栞はすぐに黒瀬の机の上の本に気づいた。


「黒瀬さん、読み終わったんですね」


 その声は、明らかに嬉しそうだった。


 黒瀬は一瞬だけ視線を逃がしてから、立ち上がった。


「……うん」


 そして、文庫本を持って栞の席へ向かう。


 教室のざわめきの中で、その動きだけが少しゆっくりに見えた。


 黒瀬は栞の前で止まる。


「白瀬」


「はい」


「本、返す」


「ありがとうございます」


 栞は両手で本を受け取ろうとした。


 けれど黒瀬は、まだ本を離さなかった。


 ほんの少しだけ、深呼吸する。


「あと、感想」


 栞の目がやわらかくなる。


「聞かせてください」


「……うん」


 黒瀬は本の表紙を一度見た。


「最後、ずるかった」


 第一声がそれだった。


 栞は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「ずるかった、ですか」


「うん。ちゃんと言わないのに、言ってない感じじゃないところ」


 黒瀬は言葉を探すように少し間を置く。


「全部言わなくても、残るものは残るんだなって思った」


 教室の音が、少し遠くなった気がした。


 栞は黙って聞いている。


 黒瀬は続けた。


「でも、だからって何も言わなくていいとは思わない。言えるなら言ったほうがいいし、渡せるなら渡したほうがいい」


「はい」


「でも、すぐじゃなくてもいい時もある。返せる時でいい、っていうの、あれが最後まで残ってた」


 黒瀬は本を少し差し出した。


「だから、今日返した」


 それは、感想であり、黒瀬自身の答えでもあった。


 栞は本を受け取った。


 今度は黒瀬も手を離す。


「……ありがとうございます」


 栞の声は、いつもより少しだけ低かった。


 本当に大事に受け取った時の声だった。


「黒瀬さんがその場面を覚えていてくれたこと、すごく嬉しいです」


「そういうの、普通に言うのやめて」


「すみません。でも、本当なので」


「謝るの早いし」


 黒瀬は少しだけ困った顔をする。


 けれど、嫌そうではなかった。


 栞はしおりを確認した。


 そこには、少しだけ曲がった跡がある。


 黒瀬が何度か挟み直した跡だった。


「大事に読んでくれたんですね」


「……普通に読んだだけ」


「その普通が嬉しいです」


「またそういうこと言う」


 黒瀬は顔を逸らした。


 耳が少し赤い。


 湊は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。


 助けは要らなかった。


 黒瀬は、ちゃんと自分で返せた。


 感想も、本も。


 昼休み。


 珍しく、三人が自然と近い距離にいた。


 栞はいつもの前の席。

 湊は自分の席。

 黒瀬は少し迷った末、湊の机の横の空いた椅子を引いた。


「座るのか?」


 湊が聞くと、黒瀬は少し睨む。


「だめ?」


「だめじゃない」


「じゃあ座るし」


 そう言って、黒瀬は腰を下ろした。


 莉子が遠くから目を丸くする。


「るいな、読書会?」


「違う」


「いや、もう読書会じゃん」


「違うって」


 莉子は笑ったが、近づいてはこなかった。


 空気を読んだのか、単に面白がって見ているのかはわからない。


 たぶん半分ずつだ。


 栞が静かに言う。


「黒瀬さんの感想、もう少し聞きたいです」


「まだ聞くの?」


「はい」


「……変なこと言うかも」


「それが聞きたいです」


「白瀬、たまにすごい圧かけるよね」


「すみません」


「謝るの早いってば」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 その笑いを見て、栞も笑う。


 湊はそれを眺めながら、妙に不思議な気分になっていた。


 少し前まで、この二人が同じ本を挟んで笑うところなんて想像できなかった。


 黒瀬は栞を“メガネ”と呼び、栞は問い詰めずに近づき、黒瀬は夜に拗ねていた。


 それが今は、昼休みに同じ本の話をしている。


「朝比奈は?」


 黒瀬が不意に言った。


「俺?」


「うん。最初に読んだでしょ」


「俺は、前にも言ったけど、渡せなかった本を別の人に貸す場面が好きだった」


 栞が頷く。


「朝比奈くんらしいですね」


「そう?」


「はい。朝比奈くんは、人が何かを渡そうとしている場面をよく見ています」


 言われて、少しだけ返答に詰まる。


 黒瀬が横から言う。


「それはわかる」


「黒瀬まで?」


「だって、あたしの消しゴムとか焼き菓子とか、全部拾ってきたし」


「それは気づくだろ」


「普通は気づかないし」


 黒瀬は少しだけ目を逸らす。


「そこが、まあ……助かった時もある」


 栞が静かに聞いている。


 黒瀬はそれに気づいて、少し照れたように口を尖らせた。


「何」


「いいですね」


「何が」


「今の言葉」


「やめて」


「すみません」


 また謝る栞に、黒瀬は小さく息を吐いた。


「ほんと、白瀬ってずるい」


「ずるいですか」


「うん。そうやってちゃんと聞くから、こっちも変にごまかせなくなる」


 栞は少しだけ目を伏せる。


「ごまかしてもいいですよ」


「え?」


「でも、黒瀬さんがごまかしたくない時は、聞きます」


 黒瀬は言葉を失った。


 そのあと、湊を見る。


「……強すぎない?」


「強いな」


「でしょ」


 黒瀬は小さく笑った。


 その笑いに、もう鋭さはほとんどなかった。


 放課後。


 黒瀬は帰る前に湊の机へ来た。


「朝比奈」


「何?」


「今日、ちゃんと返せた」


「うん」


「感想も言えた」


「言えてた」


「白瀬、喜んでた」


「かなり」


 黒瀬は少しだけほっとしたように息を吐いた。


「……よかった」


 その一言が自然に出たことに、黒瀬自身が少し驚いた顔をした。


 湊は笑わないようにした。


「よかったな」


「うん」


「今日、夜は?」


「送る」


「了解」


「……たぶん行く」


「たぶんが確定するの待ってる」


「そういう言い方」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 夜八時半。


 スマホが震えた。


『今日、行く』


 湊は返信する。


『たぶんが確定したな』


『うるさい』


『カフェラテ?』


『当然』


 九時。


 インターホンが鳴った。


 ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しだけむくれた顔で立っていた。


「……遅」


「今日はいい顔してるな」


「開幕それ言う?」


「言いたかった」


「ほんと、そういうとこ」


 黒瀬は文句を言いながら部屋に上がった。


 ソファに座ると、いつもより少し肩の力が抜けている。


 湊がカフェラテを渡すと、彼女は両手で受け取った。


「今日、ちょっとすっきりした」


「本返したから?」


「うん」


 黒瀬はカップを見つめながら言った。


「返せる時でいいって、あれ、ほんとだった」


「返せた?」


「返せた」


 短い返事。


 でも、そこには小さな達成感があった。


 湊は頷く。


「お疲れ」


「うん」


 黒瀬はカフェラテを一口飲んで、ソファの背もたれに少し体を預けた。


「今日は動画見たい」


「読書会終わり?」


「終わり。今日は軽いやつ」


「了解」


 テレビをつける。


 いつもの夜の音が戻ってくる。


 けれど、その前にあった本の静けさも、ちゃんと部屋のどこかに残っていた。


 読み終えたギャルは、メガネっ娘に本を返す前に深呼吸した。


 そして返したあと、少しだけ軽くなった顔で、またいつもの夜へ戻ってきた。

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