ep.60 返せる時でいい、と言われたギャルは、昼に少しだけ優しくなる
翌朝、黒瀬琉衣奈は少し眠そうだった。
教室の窓際。
いつもの席。
いつもの茶髪。
いつもの少し崩した制服姿。
けれど、目元にだけ少しだけ夜の名残があった。
朝比奈湊が教室に入ると、黒瀬はゆっくり顔を上げた。
目が合う。
「……おはよ」
「おはよう」
声はいつもより少しだけ低い。
たぶん、昨夜の読書の続きを引きずっている。
返せる時でいい。
黒瀬がしおりを挟んだページ。
あの一行が、湊の中にも残っていた。
黒瀬はすぐ目を逸らしたが、今日は逃げる感じではなかった。
ただ、何かを考えている顔だった。
「朝比奈くん、おはようございます」
横から白瀬栞の声がした。
「おはよう」
湊が返すと、栞はすぐに湊の鞄へ視線を落とした。
「本、黒瀬さんに渡りました?」
「うん。昨日の夜、少し読んでた」
「そうですか」
栞の表情がほんの少しやわらかくなる。
「どこまで読んでいましたか?」
「中盤くらい。しおりの場面」
「しおりの場面……ああ」
栞はすぐにわかったようだった。
「返せる時でいい、のところですね」
「うん」
湊が頷くと、栞は窓際の黒瀬を見た。
黒瀬は聞こえていないふりをしている。
けれど、たぶん聞こえている。
今日はその“聞こえていないふり”も、いつもより少し穏やかだった。
「黒瀬さん、そこに反応したんですね」
「かなり」
「少し、わかる気がします」
「白瀬さんも?」
「はい。黒瀬さんは、急かされるのが苦手そうなので」
「昨日、本人も似たようなこと言ってた」
栞は少しだけ笑った。
「でも、待たれていないのも嫌いそうです」
「それも言ってた」
「やっぱり」
栞の観察力は相変わらずだった。
ただ、今日のそれは鋭さよりも、やさしさのほうが先に来る。
「黒瀬さん、その本をちゃんと読んでくれていますね」
「うん」
「嬉しいです」
栞はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「それと、少し緊張します」
「緊張?」
「自分が好きな本を誰かが読む時って、少し怖くありませんか?」
湊は考えた。
「……わかる気がする」
「好きだったところを、相手がどう受け取るのか。何も響かなかったらどうしようとか、逆に自分が気づかなかったところを見つけられたらどうしようとか」
「白瀬さんでもそんなこと思うんだな」
「思います」
栞は小さく笑う。
「だから、黒瀬さんがどこにしおりを挟んだのか聞いて、少し安心しました」
「安心?」
「ちゃんと届いているんだと思ったので」
その言葉は、本に向けたものなのか、黒瀬に向けたものなのか、あるいは自分自身に向けたものなのか、少し判断しづらかった。
でも、湊はそのまま受け取った。
二限の休み時間。
黒瀬が湊の席へ来た。
手には例の文庫本がある。
クラスメイトの何人かは、もう黒瀬が湊の席へ来ることにあまり驚かなくなっていた。
それがまた、少しだけ怖い。
普通になっていく。
隠していたはずのことが、少しずつ教室の日常に混ざっていく。
「朝比奈」
「何?」
「昨日のページ」
「ああ」
黒瀬は本を開き、しおりの挟まったところを見せた。
「ここ、白瀬に言ってもいい?」
その言い方に、湊は少し驚いた。
「俺に確認するのか」
「だって、昨日先に朝比奈に言うって言ったし」
「もう言っただろ」
「一回は」
「じゃあいいんじゃないか」
「……そっか」
黒瀬はほんの少しだけ息を吐いた。
そのまま栞の席を見る。
栞は自分の席でノートをまとめていた。
黒瀬は行こうとして、止まる。
一歩進んで、また止まる。
完全に迷っていた。
湊は思わず声をかける。
「黒瀬」
「何」
「急がなくてもいいんじゃないか」
黒瀬は振り向いた。
その目に、昨夜の一行が少し重なる。
返せる時でいい。
黒瀬は数秒だけ湊を見て、それから小さく言った。
「……そういうの、今言うのずるい」
「悪い」
「でも、ちょっと助かった」
そう言って、黒瀬は本を閉じた。
今日の休み時間に栞へ話しかけるのはやめたらしい。
けれど、それは逃げたというより、ちゃんと選んだように見えた。
昼休み。
栞が前の席へ座った。
いつものようにパンと紙パックの紅茶。
湊も購買で買ったパンを開ける。
窓際では、黒瀬が莉子と話しながらも、時々本に視線を落としていた。
「黒瀬さん、今日は来ませんでしたね」
栞が静かに言った。
「話しかけようとはしてた」
「そうなんですか?」
「うん。でも、まだいいってなったみたい」
「……そうですか」
栞は少しだけ目を細めた。
「それは、それで嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい。無理に感想を言わなきゃ、ではなくて、自分のタイミングを選んでくれている気がするので」
湊は栞を見る。
彼女は本当にそう思っている顔だった。
「白瀬さんって、待つのうまいよな」
「そうでしょうか」
「うん。急かさない」
「急かしてしまうと、言葉がその人のものではなくなる気がするので」
栞は紅茶を一口飲む。
「私が聞きたいのは、正しい感想ではなくて、その人が本当に残した言葉です」
「……それ、白瀬さんらしいな」
「ありがとうございます」
栞は少しだけ照れたように笑った。
その時、黒瀬がこちらを見た。
目が合う。
黒瀬はすぐに逸らさず、ほんの少しだけ頷いた。
別に大げさな合図ではない。
でも湊には、それが「まだ言ってないけど、ちゃんと読んでる」という合図に見えた。
放課後。
黒瀬は湊の席へ来た。
「今日、言わなかった」
「うん」
「逃げたわけじゃないし」
「わかってる」
「ほんと?」
「うん」
黒瀬は本を鞄にしまいながら、小さく息を吐いた。
「なんか、ちゃんと言いたくなった」
「白瀬さんに?」
「うん」
「いいと思う」
「だから、もうちょい読んでから言う」
「うん」
「……返せる時でいいってやつ、効きすぎ」
黒瀬は少しだけ苦笑した。
その顔は、昨日の夜よりもずっと自然だった。
「今日、行くかは送る」
「わかった」
「たぶん行く」
「もう言ってるじゃん」
「メッセージでも送るから」
「了解」
黒瀬は少しだけ口元を緩めて、教室を出ていった。
夜八時半。
スマホが震える。
『今日、行く』
湊は返信する。
『たぶんって言ってたな』
『たぶんが確定した』
『了解』
『本も持ってく』
『カフェラテも?』
『当然』
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬は文庫本の入った鞄を持って立っていた。
「……遅」
「今日はちゃんと待ってた」
「それ、毎回言えばいいと思ってる?」
「半分くらい」
「それ、あたしのやつ」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座ると、昨日と同じように本を取り出した。
湊はカフェラテを二つ置く。
テレビはつけない。
動画も流さない。
黒瀬は本を開く前に、ふと湊を見た。
「朝比奈」
「ん?」
「今日、白瀬と何話した?」
「本のこと」
「……そっか」
「急かさずに待つって言ってた」
黒瀬は少し黙った。
それから、口元を少しだけ曲げる。
「ほんと、あのメガネ強い」
「だな」
「でも、今日はちょっと助かった」
「言うの待ってくれるから?」
「うん」
黒瀬は文庫本を開いた。
「ちゃんと読みたいって思った」
それだけ言って、彼女は視線をページへ落とす。
湊も黙って本を開いた。
しばらく、ページをめくる音だけが続く。
昨日よりも、黒瀬は読む速度が少し上がっていた。
時々止まり、しおりのページへ戻り、また読み進める。
カフェラテは少しずつ冷めていく。
でも今日は、誰もそれを急がない。
黒瀬がぽつりと言った。
「……あたしさ」
「うん」
「急かされないと、逆にちゃんとしなきゃって思う時ある」
「昨日も似たこと言ってたな」
「うん。今日も思った」
黒瀬は本を閉じずに、ページを見たまま続ける。
「朝比奈も、白瀬も、最近そういうとこある」
「そういうとこ?」
「待つけど、見てないふりはしない」
湊はすぐには返せなかった。
黒瀬は小さく笑う。
「それ、けっこう逃げにくい」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
その返事は早かった。
「嫌じゃないけど、ちょっと怖い」
「うん」
「でも、たぶん、それでいい」
黒瀬はしおりをそっとページに挟んだ。
昨日と同じページではない。
今日は、少し先の場面だった。
「今日はそこ?」
湊が聞くと、黒瀬は頷く。
「うん。ここも、あとで言う」
「俺に?」
「まずは」
「白瀬さんには?」
「そのあと」
黒瀬は当然のように言った。
湊は少しだけ笑う。
「順番、大事なんだな」
「大事」
「そっか」
「……変?」
「変じゃない」
黒瀬は少し安心したように本を閉じた。
返せる時でいい、と言われたギャルは、昼に少しだけ優しくなった。
急かされないことで、逃げるのではなく、ちゃんと向き合う方を選び始めている。
その変化は小さい。
でも、夜の静かなソファでは、十分すぎるほど大きく見えた。




