ep.59 ギャルが静かな本を読むと、感想が少しだけズレて可愛い
翌朝、教室に入った瞬間、朝比奈湊は窓際の席を見た。
黒瀬琉衣奈は、いつも通りそこにいた。
茶髪をゆるく巻いて、制服を少しだけ着崩して、莉子とスマホを見ながら何かを話している。見た目だけなら、いつもの黒瀬だ。
けれど今日は、机の上に一冊の文庫本が置かれていた。
白瀬栞から借りた本。
湊が読んで、黒瀬へ渡した本だ。
その本が、黒瀬のスマホの横に普通に置かれている。
たったそれだけなのに、教室の景色が少し変に見えた。
黒瀬と文庫本。
似合わないようで、昨日の夜にメッセージで感想を送ってきた黒瀬を知っていると、不思議と似合っても見える。
湊が席へ向かうと、黒瀬が顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶はもう、かなり自然になってきている。
そのあと、黒瀬はほんの少しだけ本のほうへ視線を落とした。
たぶん、読んだと言いたいのだ。
でも、自分から言うのは少し悔しいのだろう。
わかりやすい。
湊が少しだけ笑いそうになったところで、隣から莉子の声が飛んだ。
「るいな、昨日それ読んでたよね」
「……別に」
「別にって何。読んでたじゃん。電話してても返事遅いと思ったら、それ読んでたし」
「うるさい」
「しかも途中で『この主人公めんどくさ』って言ってた」
「莉子!」
黒瀬の声が跳ねる。
湊は聞こえないふりをしようとした。
だが無理だった。
完全に聞こえた。
黒瀬が視線だけでこちらを刺してくる。
――聞くな。
そう言われている気がした。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が横に来た。
「おはよう」
栞は湊に挨拶したあと、窓際の机の上にある本を見た。
そして、少しだけ嬉しそうに目を細める。
「黒瀬さん、読んでくれているんですね」
「昨日、けっこうメッセージ来た」
「感想ですか?」
「うん。静かすぎるとか、主人公が言えばいいのにとか」
そう言うと、栞は小さく笑った。
「黒瀬さんらしいです」
「白瀬さん、怒らないんだな」
「どうしてですか?」
「いや、好きな本にめんどくさいとか言われたら」
「たぶん、黒瀬さんはちゃんと読んでそう言っているので」
栞は穏やかに答えた。
「ちゃんと読んでくれている人の文句は、少し嬉しいです」
「白瀬さんらしいな」
「そうですか?」
「うん」
栞は少し照れたように本のほうを見る。
「どこまで読んだんでしょう」
「昨日の感じだと、半分ちょっとかな」
「でしたら、そろそろ後半に入りますね」
その時、窓際から黒瀬が立ち上がった。
本を手に持っている。
まだ読み終わっていないはずなのに、なぜか少しだけ不満そうな顔でこちらへ来た。
「朝比奈」
「何?」
「昨日言ったやつ」
「どれ?」
「この主人公、言えばいいのにってやつ」
「ああ」
黒瀬は本を軽く持ち上げる。
「今朝もうちょっと読んだけど、やっぱ言えばいいのにって思う」
そこで、栞が静かに言った。
「でも、言えない気持ちはわかりますよね」
黒瀬は、言葉に詰まった。
ほんの一瞬。
でも、確かに詰まった。
「……まあ」
黒瀬は視線を横へ逃がす。
「わかんなくはないけど」
「はい」
「でも、読んでる側からするとムカつく」
「それもわかります」
栞が素直に頷く。
黒瀬は少し拍子抜けしたような顔をした。
「白瀬って、そういうとこあるよね」
「そういうとこ?」
「否定しないとこ」
「否定する理由がないので」
「……強」
黒瀬がぼそっと言う。
湊は思わず笑いそうになった。
その瞬間、黒瀬が睨む。
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「笑いそうだった」
「よくわかるな」
「わかるし」
そのやり取りを見て、栞が少しだけ口元を緩めた。
「黒瀬さんは、主人公が何を言えばいいと思ったんですか?」
栞の質問に、黒瀬は本の表紙へ視線を落とした。
「……待ってるって」
小さな声だった。
「来てほしいなら、来てって言えばいいし。待ってるなら、待ってるって言えばいいじゃん」
言いながら、黒瀬の視線が一瞬だけ湊へ向く。
それに気づかないふりはできなかった。
湊も黒瀬を見る。
目が合う。
昨日の夜のメッセージが頭の中でよみがえる。
『言えない感じ』
『半分』
あれは、本の主人公だけの話ではなかったのかもしれない。
栞も、その視線に気づいている。
けれど何も言わない。
ただ、静かに頷いた。
「黒瀬さんの感想、まっすぐですね」
「……褒めてる?」
「はい」
「なんか、褒められた気しない」
「本当に褒めています」
「ならいいけど」
黒瀬は少しだけ本を胸元へ寄せた。
その仕草が、思ったより大事そうだった。
「でも、嫌いじゃないんですね」
栞が言う。
「本のことです」
「……嫌いではない」
黒瀬は短く答えた。
「何も起きないのに、ちょっと気になる」
「それ、昨日も言ってたな」
湊が言うと、黒瀬は少しだけ顔をしかめる。
「メッセージの話、昼に出すなって」
「悪い」
「ほんと悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それあたしのやつ」
黒瀬が少しむくれる。
莉子が遠くから「るいな、本の感想会してるー」と声を飛ばした。
「してない!」
「してるじゃん」
「莉子、うるさい」
「はいはい。読書女子ー」
「やめろし」
教室の空気が少し軽くなる。
黒瀬は顔を赤くしながら席へ戻っていった。
けれど、本は机の上ではなく、鞄の中へ丁寧にしまっていた。
昼休み。
栞はいつものように前の席へ座った。
「黒瀬さん、思ったよりちゃんと読んでいますね」
「だな」
「嬉しいです」
「好きな本をムカつくって言われてるのに?」
「はい」
栞はパンの袋を開きながら、静かに笑う。
「本を読んで何を感じるかは、人によって違いますから。黒瀬さんの『ムカつく』は、たぶんかなり本気で読んでいる証拠です」
「白瀬さん、本当に本好きなんだな」
「好きです」
まっすぐな返事だった。
湊は少しだけ笑う。
「黒瀬、最後まで読んだらどんな感想言うんだろうな」
「きっと、少し怒ると思います」
「怒る?」
「はい。あの結末は、黒瀬さんには少し焦れったいと思うので」
「でも、嫌いじゃなさそう」
「そうですね」
栞は窓際を見る。
黒瀬は莉子と話しているが、時々鞄の方を気にしている。
たぶん、本の続きが気になっているのだ。
「黒瀬さん、可愛いですね」
「本人に言うなよ」
「言いません」
「本当に?」
「今日は言いません」
「今日は、か」
栞は少しだけ悪戯っぽく笑った。
珍しい顔だった。
放課後。
黒瀬は帰る前に湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行かない」
「読むから?」
「うん」
「本気だな」
「気になるし」
黒瀬は少しだけ本の入った鞄を持ち直した。
「でも、途中で送るかも」
「感想?」
「文句」
「文句なんだ」
「文句も感想でしょ」
「まあ、そうだな」
黒瀬は少しだけ満足げに頷く。
それから、少し声を落とした。
「白瀬には、読み終わってから言う」
「うん」
「先に、朝比奈に送る」
「いいのか」
「いいの」
言い切った。
その顔は、少しだけ得意げだった。
「じゃ、あとで」
「うん」
その夜、インターホンは鳴らなかった。
代わりに、黒瀬からのメッセージが何度も届いた。
『主人公、まだ言わない』
『そういう話だから』
『知ってるけどムカつく』
『でも読んでる』
『気になるから』
少しして、また来る。
『この友達の子、白瀬っぽい』
『どの子?』
『静かに正しいこと言う子』
湊は少し笑った。
『確かに』
『でしょ』
『黒瀬、白瀬さんのことけっこう見てるな』
『見えるだけ』
前にも同じようなことを言っていた。
そのあと、少し間が空いた。
『でも、あの子ならこういう時、待てるんだろうね』
湊は画面を見つめた。
黒瀬が、栞のことをそう見ている。
それは以前なら出てこなかった言葉だ。
『黒瀬は?』
送る。
既読。
しばらく返事が来ない。
少しして、短く届いた。
『待つの下手』
さらに、もう一通。
『でも、最近ちょっと待てる』
湊は、その文をしばらく見ていた。
黒瀬が静かな本を読むと、感想は少しズレる。
主人公に怒る。
言えばいいのにと文句を言う。
でも、その文句の中に、ちゃんと黒瀬自身が混ざっている。
『それ、感想で言えばいいと思う』
湊が送ると、すぐ返ってきた。
『無理』
『なんで』
『恥ずい』
素直だった。
湊は笑った。
『じゃあ俺だけ聞いとく』
少し間があって。
『そうして』
短い返事。
それが、今夜の黒瀬のいちばん素直な感想だった。




