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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.58 読み終えた本の感想は、思ったより二人に届いてしまう

 白瀬栞から借りた本を読み終えたのは、火曜の夜だった。


 最後のページを閉じたあと、朝比奈湊はしばらく机に向かったまま動けなかった。


 派手な話ではなかった。


 誰かが劇的に告白するわけでもない。

 大事件が起きるわけでもない。

 主人公が何かを勝ち取って、周囲から拍手されるような結末でもない。


 ただ、ずっと待っていた。


 言えなかったこと。

 聞けなかったこと。

 渡せなかった言葉。

 それらを抱えたまま、夕暮れの公園で、主人公は誰かを待つ。


 そして最後に、その人が来る。


 たったそれだけだ。


 たったそれだけなのに、妙に残った。


 湊は本に挟まれたしおりを抜いた。


 白瀬の丁寧な字が、そこにある。


 ――読み終わったら、好きだった場面を一つ教えてください。


 好きだった場面。


 考えるまでもなかった。


 最後の公園だ。


 待つと決めた主人公の静けさと、来るかどうかわからない相手をそれでも待つ時間。

 その場面が、どうしても頭から離れない。


 湊は、ふと玄関のほうを見た。


 いつもなら、黒瀬琉衣奈が来る時間を少しだけ意識してしまう場所だ。


 インターホンが鳴るかもしれない。

 鳴らないかもしれない。

 最近はメッセージが先に来ることもある。


 それでも、待っている。


 待っていると認めるのは、まだ少し恥ずかしい。


 けれど本を読み終えたあとでは、その事実をあまりごまかせなかった。


 スマホが震えた。


 黒瀬からだった。


『読んだ?』


 タイミングが良すぎる。


 湊は少し笑って返信した。


『読み終わった』


 すぐ既読。


『どうだった?』


『明日、話す』


『今じゃだめなの』


『白瀬さんにも感想言う約束だから』


 送ってから、少しだけ失敗したかと思った。


 黒瀬からの返信は少し遅れた。


『ふーん』


 文字なのに、不機嫌そうな声が聞こえる。


 続けてもう一通。


『じゃあ明日、そのあとあたしにも言って』


 湊はスマホを見つめた。


 そのあと。


 白瀬に感想を伝えたあとで、自分にも。


 たぶん黒瀬は、そういう順番まで気にしている。


『わかった』


 そう返すと、黒瀬から短く返ってきた。


『しおりなくすなよ』


『なくしてない』


『ならいいし』


 そのやり取りで終わった。


 インターホンは鳴らなかった。


 でも、その夜は黒瀬の気配も、白瀬のしおりも、机の上にちゃんと残っていた。


 翌朝。


 湊は本を鞄に入れて登校した。


 教室に入ると、いつものように窓際の黒瀬と目が合う。


「……おはよ」


「おはよう」


 短いやり取り。


 けれど黒瀬の視線は、湊の鞄へすぐ移った。


 本を持ってきたかどうか確認している。


 わかりやすすぎて、湊は少し笑いそうになった。


 黒瀬はそれに気づいたのか、軽く睨んでから莉子のほうへ顔を戻す。


「るいな、朝から目が忙しい」


「何が」


「朝比奈くん見て、鞄見て、また見てた」


「見てないし」


「鞄は見てた」


「莉子、朝からうざい」


「うざい友達でーす」


 いつものやり取りが聞こえる。


 湊は席へ向かった。


「朝比奈くん、おはようございます」


 白瀬栞が静かに立っていた。


「おはよう」


「読み終わりましたか?」


「うん」


 湊が鞄から本を取り出すと、白瀬の表情がほんの少しだけやわらかくなった。


 本を返す。


 白瀬は両手で受け取り、挟まったしおりを確認するように少しだけ開いた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。よかった」


「そう言ってもらえて、嬉しいです」


 白瀬は本の表紙を指先で撫でる。


「好きだった場面、聞いてもいいですか?」


 来た。


 しおりの約束。


 湊は少しだけ考えるふりをした。


 けれど、答えは決まっていた。


「最後の公園」


 白瀬の目が、少しだけ動いた。


「主人公が待ってるところですか?」


「うん」


 湊は本の表紙を見る。


「あそこ、最初はただ待ってるだけに見えたんだけど、読み終わると違った。待つって決めて、ちゃんとそこにいる感じがして」


「はい」


「来るかどうかわからなくても、帰らないところがよかった」


 言ってから、自分の声が思ったより真面目になっていることに気づいた。


 白瀬はからかわなかった。


 ただ、静かに聞いていた。


「朝比奈くんは、待つ側の気持ちがわかるんですね」


 その一言で、湊の胸が少し詰まった。


 玄関。

 インターホン。

 九時前後の時間。

 黒瀬からの短いメッセージ。


 全部が一瞬で浮かぶ。


「……まあ、少しは」


 曖昧に返す。


 白瀬は、それ以上踏み込まなかった。


「私も、あの場面が好きです」


「白瀬さんも?」


「はい。待っているだけなのに、ちゃんと選んでいる感じがするので」


「選んでいる?」


「帰ることもできるのに、そこにいることを選んでいる。そういう静かさが好きです」


 白瀬らしい感想だった。


 湊は少しだけ笑う。


「白瀬さん、やっぱりこの本似合うな」


「似合いますか?」


「うん。静かだけど、残る感じが」


 白瀬は少しだけ驚いた顔をした。


 それから、視線を落とす。


「……ありがとうございます」


 いつもの礼より、少し声が小さかった。


 その時、窓際から視線を感じた。


 黒瀬だ。


 湊と白瀬が本の話をしている。

 しかも、ただの感想ではない。少し深いところに触れている。


 それが黒瀬には気になっているのだろう。


 目が合う。


 黒瀬はすぐには逸らさなかった。


 少しだけ不満そうで、少しだけ興味がありそうで、少しだけ置いていかれたくなさそうな目だった。


 白瀬もそれに気づいたのか、静かに本を閉じた。


「黒瀬さんも、あとで読むんですよね」


「うん。貸すことになってる」


「でしたら、しおりはそのままにしておいてください」


「いいのか?」


「はい」


 白瀬はしおりを本に挟み直す。


「黒瀬さんの好きだった場面も、聞いてみたいので」


 その言葉は、たぶん黒瀬にも聞こえていた。


 窓際で黒瀬が一瞬だけ固まる。


 莉子がそれを見て、にやっとした。


「るいな、呼ばれてるよ」


「呼ばれてないし」


「本の話、参加したら?」


「まだ読んでないし」


「じゃあ読めばいいじゃん」


「読むし」


 黒瀬がそう言ってしまった。


 本人も言った瞬間に気づいたらしい。


 少しだけ顔をしかめる。


 湊は笑わないようにした。


 二限の休み時間。


 黒瀬が湊の席へ来た。


 いつもより少しだけ不機嫌そうに。


「朝比奈」


「何?」


「本」


「今渡す?」


「……うん」


 湊は白瀬から返してもらった本を鞄から取り出し、黒瀬へ渡した。


 黒瀬は両手で受け取る。


 雑に扱わない。


 本も、しおりも。


 それが今は少し当たり前みたいになっているのが、なんだか可笑しかった。


「しおり、そのまま」


「白瀬さんもそう言ってた」


「聞こえてた」


「だろうな」


「……あのメガネ、あたしの感想も聞きたいとか言ってた」


「言ってたな」


「強」


「またそれか」


「だって強いし」


 黒瀬は本の表紙を見下ろす。


「で、朝比奈は何て言ったの」


「感想?」


「うん」


「最後の公園が好きだったって」


 黒瀬は一瞬、湊を見た。


「待ってるやつ?」


「そう」


「ふーん」


 黒瀬は、少しだけ何かを考える顔になった。


「それ、白瀬も好きそう」


「好きって言ってた」


「やっぱり」


「黒瀬はまだ読んでないだろ」


「表紙と空気でわかるし」


「本の空気?」


「あるじゃん。なんか」


 黒瀬は少し言葉を探す。


「言わない人が多そうな本」


 湊は少し驚いた。


 黒瀬はたぶん、適当に言ったわけではない。


 表紙と、これまで聞いた感想と、白瀬の雰囲気で、ちゃんと何かを掴んでいる。


「……合ってると思う」


「でしょ」


 少し得意げ。


 その顔が、昼の教室で出るようになってきたのが、湊には少し嬉しかった。


「読んだら感想言う」


「うん」


「白瀬にも?」


「言うんだろ?」


「……まあ」


 黒瀬はしおりの挟まった位置を見ないようにしながら、本を鞄にしまった。


「でも先に朝比奈に言う」


「いいのか?」


「なんで」


「白瀬さんの本だろ」


「でも貸したのは朝比奈経由じゃん」


「そういう理屈か」


「そういう理屈」


 黒瀬は言い切った。


 少し強引で、少し可愛い理屈だった。


 昼休み。


 白瀬が前の席に座った。


 黒瀬は今日は本を持っているせいか、いつもより栞を意識している。

 でも、不思議と以前のような刺々しさは少ない。


 白瀬がパンの袋を開けながら、湊に言う。


「黒瀬さん、持っていきましたね」


「うん」


「読んでくれるでしょうか」


「読むと思う」


「そうですか」


 白瀬は少しだけ嬉しそうだった。


「何で嬉しそうなんだ?」


「私が好きな本を、黒瀬さんが読むのが少し不思議なので」


「不思議?」


「はい。黒瀬さんとは、最初はもっと遠い人だと思っていました」


「今は?」


 白瀬は少し考えた。


「近いわけではありません。でも、遠いだけでもないです」


 それは、かなり正確な表現だった。


 黒瀬と白瀬は仲良しではない。


 けれど、もうただのクラスメイトでもない。


 湊を通して、本を通して、しおりを通して、少しずつ相手の輪郭が見え始めている。


「白瀬さんは、黒瀬に読まれるの嫌じゃないんだな」


「嫌ではありません」


 白瀬は静かに答える。


「少し緊張します」


「緊張?」


「自分の好きなものを誰かが読むのは、少し怖いですから」


「ああ……それはわかる」


「でも、黒瀬さんなら、嫌いなら嫌いと言いそうですし」


「言うな」


「はい。だから、逆に聞いてみたいです」


 白瀬は少しだけ笑った。


「黒瀬さんの言葉は、たぶんまっすぐなので」


 その評価を黒瀬が聞いたら、どんな顔をするだろう。


 少し想像して、湊は笑いそうになった。


 放課後。


 黒瀬は帰る前に湊の机へ来た。


「朝比奈」


「何?」


「今日、行かない」


「読むから?」


「うん」


 即答だった。


 本を読むために、夜は来ない。


 少し前なら考えられなかった理由だ。


「ちゃんと読むんだな」


「読みたいって言ったじゃん」


「うん」


「あと、メッセージはする」


「感想?」


「途中で言うかも」


「実況するのか」


「うるさいと思ったら無視していい」


「しないよ」


「……そういうのすぐ言う」


 黒瀬は少しだけ目を逸らす。


「じゃ、あとで」


「うん」


 その夜、インターホンは鳴らなかった。


 代わりに、スマホが何度も震えた。


『これ、静かすぎない?』


『まだ序盤だろ』


『でもなんか嫌いじゃない』


『何も起きないのに?』


『そう。それがちょっとムカつく』


 湊は笑いながら返信した。


『ムカつくのに読むんだ』


『気になるから読む』


 少しして、また来る。


『主人公、言えばいいのに』


『何を?』


『待ってるって』


『それ言えない話なんだろ』


『わかるけどムカつく』


 黒瀬らしい感想だった。


 湊は机の上に肘をつきながら、スマホを見つめる。


 白瀬が静かに好きだと言った本を、黒瀬が少し怒りながら読んでいる。


 そのことが、妙に楽しかった。


 しばらくして、またメッセージ。


『でも、ちょっとわかる』


『何が』


『言えない感じ』


 湊は返信を打とうとして、指を止めた。


 黒瀬はたぶん、主人公の話をしている。


 でも、それだけではない。


 少なくとも湊には、そう見えた。


『わかるんだ』


 送る。


 少し時間が空いた。


『半分』


 黒瀬から返ってきた。


 その“半分”が、今日はいちばん黒瀬らしかった。


 湊はスマホを置き、少しだけ天井を見上げる。


 読み終えた本の感想は、思ったより二人に届いてしまった。


 白瀬にも。

 黒瀬にも。

 そして湊自身にも。


 待つこと。

 言えないこと。

 それでもそこにいること。


 その全部が、今の三人のあいだで静かに揺れていた。

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