ep.57 しおりの感想を待つメガネっ娘と、先に読みたいギャル
白瀬栞から借りた本は、思ったより静かな物語だった。
派手な事件は起きない。
誰かが突然叫ぶわけでもない。
強烈な告白があるわけでもない。
ただ、古い団地に住む高校生たちが、少しずつ進路の話をして、親との距離に悩んで、昔よく遊んだ公園のベンチに集まる。
それだけの話だ。
けれど、ページをめくるたびに、何かが指先に残る。
朝比奈湊は、水曜の夜、机に向かってその本を読んでいた。
本の間には、栞が挟んでくれた紙のしおりがある。
――読み終わったら、好きだった場面を一つ教えてください。
その文字が、ページを閉じるたびに目に入る。
連絡先ではない。
メッセージでもない。
けれど、ちゃんと次につながっている。
栞らしい距離の残し方だと思った。
そしてそれを、黒瀬琉衣奈も「強い」と言った。
嫌いじゃない、とも言った。
あの時の黒瀬は、少しだけ真面目な顔をしていた。
栞のやり方を悔しがりながらも、雑には扱わない。しおりを丁寧に本へ戻す仕草が、妙に印象に残っている。
湊はページをめくりながら、小さく息を吐いた。
「……二人とも、なんかずるいんだよな」
誰に言うでもなく呟く。
栞は静かに近づいてくる。
黒瀬は不器用に近づいてくる。
そのどちらも、最近はちゃんと湊の中に残る。
読み進めていると、スマホが震えた。
画面を見る。
黒瀬だった。
『読んでる?』
湊は少し笑った。
『読んでる』
すぐ既読。
『どこまで?』
『半分くらい』
『遅』
『借りたの今日だぞ』
『それはそう』
珍しく素直に認めた。
湊は本にしおりを挟んで、スマホを手に取る。
『黒瀬も読む?』
送ってから、少しだけ間が空いた。
やがて返事。
『面白いなら』
『静かな話』
『眠くなるやつ?』
『そういう意味の静かじゃない』
『じゃあどんな』
説明しようとして、少し悩む。
この本の良さは、簡単に言うのが難しい。
『何も起きないけど、ちゃんと残る感じ』
送ると、黒瀬からしばらく返事が来なかった。
入力中の表示が出て、消える。
また出る。
ようやく届いた。
『白瀬っぽい』
湊は、思わず笑った。
『わかる』
『でしょ』
『黒瀬、最近白瀬さんのことわかってきたな』
『別に』
すぐに来た。
『見えるだけ』
その言い方が、少しだけ栞に似ていて、湊はまた笑いそうになった。
『黒瀬も観察するようになったな』
『うつった』
『誰から』
『あのメガネと朝比奈』
『俺もか』
『朝比奈も最近、人の顔見すぎ』
それは否定できなかった。
以前の自分なら、黒瀬の一秒の視線や、栞の少しだけ伏せた目元や、莉子のからかいの引き際なんて、たぶん見逃していた。
でも今は見る。
見えてしまう。
そのぶん、いろいろ面倒になった。
でも、見えなかった頃に戻りたいとはあまり思わない。
『そうかもな』
湊が送ると、少しして返事が来た。
『明日、その本持ってきて』
『読み終わってないぞ』
『見たいだけ』
『読む?』
『ちょっとだけ』
ちょっとだけ。
黒瀬は最近、その言葉をよく使う。
照れ隠しのようで、でも確かに一歩踏み出す時の言葉でもある。
『わかった。持ってく』
『しおりも?』
『挟んだまま』
『なくすなよ』
『黒瀬じゃないんだから』
『は?』
すぐ来た。
『あたし最近そんな落としてないし』
『ハンドクリーム』
『昔の話』
『ヘアピン』
『もっと昔』
『ヘアゴム』
『記憶力いいのむかつく』
湊は声に出して笑ってしまった。
その夜、黒瀬は来なかった。
メッセージだけだった。
それでも不思議と、部屋は前ほど空っぽには感じなかった。
翌朝。
湊は鞄に栞の本を入れて登校した。
もちろん、しおりも挟んだままだ。
教室へ入ると、黒瀬はすぐにこちらを見た。
目が合う。
「……おはよ」
「おはよう」
いつもの短いやり取り。
でも、黒瀬の視線はすぐに湊の鞄へ向いた。
わかりやすい。
湊は少しだけ笑いそうになった。
「朝比奈くん、おはようございます」
栞が近づいてくる。
「おはよう」
「本、持ってきてくれたんですね」
「まだ読み終わってないけど」
「ゆっくりで大丈夫です」
栞はそう言ってから、少しだけ湊の鞄を見る。
「……黒瀬さんも、気にしているみたいですね」
「昨日、見たいってメッセージ来た」
「そうですか」
栞は少しだけ目を細めた。
寂しそうではなかった。
むしろ、少し嬉しそうにも見えた。
「黒瀬さんが本に興味を持ってくれるのは、少し意外です」
「俺もそう思った」
「でも、嬉しいです」
「嬉しいんだ」
「はい。私の好きなものを、黒瀬さんも少し見てくれるなら」
栞は、そこで言葉を止めた。
それから少し照れたように笑う。
「……変ですね」
「変じゃないと思う」
「そうですか」
「うん」
湊がそう答えると、栞は静かに頷いた。
一限前。
栞は前の席へ座った。
湊が鞄から本を出すと、栞は表紙を軽く指先でなぞる。
「まだ半分なら、しおりはこのあたりですね」
「うん」
「無理に早く読まなくていいですから」
「黒瀬には遅って言われたけど」
「黒瀬さんらしいです」
栞が小さく笑う。
そのタイミングで、黒瀬が近づいてきた。
今日は莉子に押されていない。自分からだ。
手ぶらで、少しだけ不機嫌そうな顔。
たぶん、不機嫌ではなく照れている。
「朝比奈」
「何?」
「本」
「見る?」
「うん」
湊が本を渡そうとすると、黒瀬は一度、栞を見た。
栞も黒瀬を見る。
少しだけ間が空いた。
「……借りるわけじゃないし」
黒瀬が言う。
栞は穏やかに答えた。
「はい。見てもらえるなら嬉しいです」
「……そういうの、ほんと普通に言うよね」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬はそう言いながら、本を受け取った。
表紙を見る。
裏表紙のあらすじを見る。
そして、しおりの挟まったページを開きかけて、止まる。
「……ここ、読んでる途中?」
「うん」
「じゃあ開かない」
黒瀬はそう言って、そっと本を閉じた。
その丁寧さに、湊は少しだけ驚いた。
「ネタバレ嫌いなんだ」
「人が読んでる途中のとこ勝手に見るの、なんか違うし」
黒瀬は表紙だけもう一度見て、栞へ視線を向けた。
「これ、何が面白いの」
聞き方は少しぶっきらぼうだった。
でも、ちゃんと興味を持っている声だった。
栞は少し考えてから答える。
「大きな事件は起きません。でも、あとから静かに残るところです」
「朝比奈と同じこと言う」
「そうですか?」
「うん。昨日、そんな感じのこと言ってた」
栞は湊を見た。
少しだけ嬉しそうだった。
「なら、ちゃんと読んでくれているんですね」
「読んでるよ」
湊が言うと、黒瀬がすぐに横から刺す。
「半分だけど」
「そこ言うか」
「言うし」
栞が小さく笑った。
その笑いにつられて、黒瀬もほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間、教室の空気が不思議なくらい自然に感じられた。
栞の本。
湊の途中までの感想。
黒瀬の興味。
三人の間に、少しだけ会話が成立している。
莉子が遠くからそれを見て、にやりと笑っていた。
「るいな、本デビュー?」
「うるさい」
黒瀬はすぐ返したが、今日は声がそこまで尖らない。
「本デビューって何」
「読書女子っぽいじゃん」
「ぽくならないし」
「いいじゃん。ギャップ」
「そういうの要らない」
莉子は笑いながら手を振る。
「朝比奈くん、るいなに読書教えてあげてー」
「莉子!」
「はいはい」
その場の空気が軽くなる。
黒瀬は少し顔を赤くして、本を湊に返した。
「……読み終わったら貸して」
小さな声だった。
湊は一瞬、返事を忘れかけた。
「うん」
「あと」
黒瀬は少しだけ栞を見る。
「しおりは、そのままでいい」
栞が目を丸くした。
「いいんですか?」
「それ込みで、その本って感じするし」
言ってから、黒瀬は少し照れたように視線を逸らした。
「……まあ、借りる時はちゃんと返すけど」
栞は静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「別に、礼言われることじゃないし」
「でも、嬉しかったので」
「ほんと、そういうの……」
黒瀬は言葉を切って、湊の机に本を戻した。
「じゃ」
それだけ言って窓際へ戻っていく。
その背中は、少しだけ逃げるようで、でもどこか軽かった。
昼休み。
栞は前の席で、いつものようにパンを食べていた。
「黒瀬さん、しおりのことをちゃんと見てくれましたね」
「うん」
「少し意外でした」
「俺も」
「でも、嬉しかったです」
栞は素直にそう言った。
湊は本の表紙を見下ろす。
「これ、読み終わったら黒瀬にも貸すよ」
「はい」
「いいのか?」
「もちろんです」
栞は少しだけ首をかしげる。
「本は、読まれるためにありますから」
「白瀬さんらしいな」
「それに」
「うん」
「黒瀬さんが読んだ感想も、少し聞いてみたいです」
その言葉は、ものすごく自然だった。
ライバルとしてではなく、同じ本を読んだ人として。
栞は黒瀬のことを、少しずつ別の角度から見始めている。
放課後。
黒瀬は帰る前に湊の机の横へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行くかはあとで送る」
「うん」
「あと、本」
「読み終わったら貸す」
「うん」
そこで黒瀬は、少しだけ声を落とした。
「……あのメガネ、ちょっと嬉しそうだった」
「しおりのこと?」
「うん」
「黒瀬がちゃんと見てたからじゃないか」
「……そっか」
黒瀬は少しだけ照れた顔をした。
「別に、普通に思っただけだけど」
「うん」
「でも、ああいうの、いいと思った」
「しおり?」
「うん」
黒瀬は視線を逸らす。
「メッセージとは違う感じで」
その言い方が、妙に大人びて聞こえた。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行かない』
湊は少しだけ画面を見つめた。
来ない連絡。
それも、もうちゃんと届くようになった。
『わかった』
返信すると、すぐ既読。
少しして、もう一通。
『本読んで』
『読む』
『感想、あたしにも』
『わかった』
『あと、しおりなくすな』
湊は笑った。
『なくさない』
既読。
『ならいいし』
その夜、インターホンは鳴らなかった。
でも、机の上には栞の本があって、そこには紙のしおりが挟まっている。
スマホには黒瀬からのメッセージが残っている。
静かなメガネっ娘はしおりで距離を残し、ギャルはそのしおりまで含めて本を受け取ろうとしている。
そのどちらも、今の湊の夜に確かに残っていた。




