ep.55 メッセージで来る夜は、教室の朝を少しだけ変える
朝比奈湊は、月曜の夜に届いたメッセージを、火曜の朝になっても覚えていた。
――本、どこが一番よかった?
――最後のホームの場面。
――なんで?
――待ってた人が来るかどうかわからないのに、帰らなかったところ。
――重。
――聞いたの黒瀬だろ。
――そうだけど。
――でも、ちょっとわかる。
その最後の一文が、妙に残った。
黒瀬琉衣奈は、自分で選んだ本をまだ最後まで読んでいない。表紙が気に入ったから選んだと言っていたし、内容も最初だけしか知らないらしい。
なのに、「待ってた人が来るかどうかわからないのに、帰らなかったところ」という感想に、少しだけ反応した。
ちょっとわかる。
その言葉が、彼女らしかった。
夜に部屋へ来る前、彼女はきっと何度も迷っていたのだろう。
行くか。
やめるか。
インターホンを押すか。
帰るか。
その迷いの時間を、彼女はどれくらい一人で持っていたのだろう。
そんなことを考えながら教室に入ると、窓際の黒瀬と目が合った。
今日も、まずそれがある。
少し前まではなかった習慣だ。
今はもう、朝の挨拶の前に目が合うことが自然になりつつある。
黒瀬は一瞬だけ視線を止めて、それから小さく口を動かした。
「……おはよ」
「おはよう」
声に出す。
今日は昨日よりさらに自然だった。
けれど、そのあと、黒瀬は少しだけ目を逸らすのが遅れた。
たぶん、昨夜のメッセージを思い出している。
湊も同じだった。
その遅れを、隣の莉子が見逃すはずがない。
「るいな、朝から通信してんの?」
「は?」
「目で」
「意味わかんない」
「わかるわかる。今のは何か送ってた」
「送ってないし」
黒瀬は莉子の腕を軽く押した。
莉子はけらけら笑う。
以前なら、黒瀬はもっと強く怒っていたかもしれない。
けれど今日は、少しだけ流せている。
それが湊にはわかった。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞の声がした。
「おはよう」
「今日は、黒瀬さんと少しだけメッセージの余韻が残っていますね」
「……本当に何でも見えるな」
「顔に出ています」
「俺が?」
「二人ともです」
栞は静かに言った。
少しだけ笑っているが、からかいすぎない。
ただ、見えたものをそのまま置いてくる。
「昨日、来なかったんですか」
「来なかった」
「でも、連絡はあったんですね」
「……あった」
正直に答えると、栞は小さく頷いた。
「そういう夜も、増えるかもしれませんね」
その言葉に、湊は少しだけ黙った。
インターホンが鳴る夜。
メッセージだけが来る夜。
来るか来ないかではなく、何かしらつながっている夜。
確かに、これからはそういう形が増えるのかもしれない。
「白瀬さんは、本読む?」
湊は鞄から昨日の文庫を少しだけ出した。
夕暮れのホームの表紙。
栞の視線がそこに落ちる。
「黒瀬さんに聞いてくれたんですか」
「聞いた。いいって」
「そうですか」
栞は、少しだけ嬉しそうにした。
「では、お借りしてもいいですか」
「うん。今日持って帰る?」
「はい。急ぎませんけど、読みたいです」
湊が本を渡すと、栞は両手で受け取った。
その仕草が妙に丁寧で、湊は少しだけ目を引かれる。
「大事に読みます」
「そこまで?」
「黒瀬さんが選んだ本ですし、朝比奈くんが面白かったと言った本なので」
さらっと言う。
やっぱり近い。
言葉の置き方が静かなのに、距離が近い。
湊が返事に困っていると、窓際から視線が刺さった。
黒瀬だ。
見ている。
いや、本を渡すところを、完全に見ていた。
しかも今日は、前みたいにただ不機嫌になるだけではない。
少し複雑そうな顔をしている。
嫉妬。
警戒。
けれど、自分が許可したことでもあるから、強く言えない。
そういう顔だった。
栞もそれに気づいたのか、本を胸元に抱えたまま、黒瀬のほうへ小さく会釈した。
黒瀬は一瞬固まり、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
だが、逃げはしなかった。
一限前、黒瀬が来た。
莉子に押されたわけではない。
自分から、少しだけ迷って、それでも来た。
「朝比奈」
「何?」
「本、渡したんだ」
「うん。黒瀬がいいって言ったから」
「別に、だめとは言ってないし」
「うん」
「……白瀬、読むの早そう」
「早そうだな」
「感想、変だったら教えて」
「変だったら?」
「なんか、あの子の感想、深そうじゃん」
湊は少し笑った。
「確かに」
「笑うとこ?」
「いや、黒瀬も栞のこと結構わかってきたなって」
「……名前」
「悪い」
「まあ、いいけど」
その“まあ、いいけど”は、前よりだいぶ柔らかかった。
黒瀬は机の端に指先を置き、少しだけ迷うように視線を落とした。
「昨日の」
「メッセージ?」
「うん」
「何?」
「……本の話、変じゃなかった?」
「変じゃなかった」
「重かった?」
「少し」
「最低」
「でも、黒瀬もちょっとわかるって言ってただろ」
「それを昼に言うなって」
黒瀬は小声で怒る。
けれど、完全には否定しない。
「……でも、まあ」
「うん」
「文字のほうが、ちょっと言いやすい時ある」
その一言は、わりと大きかった。
湊は黒瀬を見る。
黒瀬は教室の床のあたりを見ながら、続けた。
「夜に行くほどじゃないけど、何か言いたい時とか」
「うん」
「そういう時、楽かも」
「そっか」
「……だから、昨日は」
黒瀬は言葉を探した。
「行かないって言えたの、ちょっと楽だった」
来ることだけじゃなく、来ないことも言える。
それはやっぱり、二人の関係にとって大きかったのだろう。
湊は静かに頷いた。
「俺も、わかってよかった」
「何が」
「今日は来ないんだなって」
「……待ってた?」
黒瀬が少しだけ目を上げた。
教室で聞くには、危ない質問だった。
湊は一瞬迷った。
そして、少し声を落として答える。
「少しは」
黒瀬の耳が赤くなった。
「……ほんと、そういうの昼に言うなって」
「聞いたの黒瀬だろ」
「聞いたけど」
その時、莉子の声が飛んできた。
「るいなー、顔赤いよー」
「赤くない!」
「赤い赤い」
「莉子、黙って!」
黒瀬は慌てて席へ戻った。
その背中が、昨日より少しだけ軽く見えた。
昼休み。
栞は前の席で本の表紙を眺めていた。
「今日から読むのか」
「はい。最初だけでも」
「黒瀬、感想聞きたがってた」
「黒瀬さんが?」
「うん。変だったら教えてって」
栞は少しだけ笑った。
「変な感想を言わないようにします」
「たぶん深いって言ってた」
「それは少し困りますね」
言葉では困ると言うが、少し嬉しそうだった。
「黒瀬さん、私のことをそういうふうに見てくれているんですね」
「たぶん」
「では、ちゃんと読みます」
栞は本を鞄にしまった。
それから少しだけ、窓際を見る。
「黒瀬さん、前より私のことを避けなくなりましたね」
「そうだな」
「嫌いじゃない、と言っていましたか」
「近いことは言ってた」
「そうですか」
栞の声は穏やかだった。
でも、どこかほっとしたようでもあった。
「私も、黒瀬さんのこと、嫌いではないです」
「それは前も言ってた」
「はい。少しずつ、確かになっています」
不思議な言い方だった。
嫌いではないことが、少しずつ確かになっていく。
この三人の距離は、恋愛の三角形というだけでは片づけにくくなっている。
黒瀬と栞の間にも、変な緊張と、変な理解が生まれ始めていた。
放課後。
黒瀬は帰る前に、湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、夜」
「うん」
「行くかは、あとで送る」
前なら、来るか来ないかはインターホンまでわからなかった。
今は、こうして言える。
「わかった」
「……便利だね」
「連絡先?」
「うん」
黒瀬は少しだけ視線を逸らす。
「便利だけど、ちょっと変」
「変?」
「学校で会ってるのに、夜に送ること考えてるのが」
「まあ、変だな」
「でも、悪くない」
その声は小さいけれど、ちゃんと届いた。
夜八時四十分。
スマホが震えた。
黒瀬琉衣奈。
『今日、行く』
湊はメッセージを見て、少し笑った。
『わかった』
すぐに既読がつく。
『インターホン鳴らす』
『知ってる』
『遅かったら怒る』
『早く開ける』
『ほんと?』
『たぶん』
『たぶん禁止』
そのやり取りの十分後、インターホンが鳴った。
湊はいつもより少し早く玄関へ向かった。
ドアを開けると、黒瀬が立っている。
いつもの夜の黒瀬。
けれど、今日は少しだけ違う。
インターホンの前に、メッセージがあった。
「……遅」
「今日は早かっただろ」
「気分の問題」
「それ、メッセージでも使う?」
「使うし」
黒瀬はそう言って、少しだけ笑った。
メッセージで来る夜は、教室の朝を少しだけ変える。
そして、インターホンで来る夜もまた、メッセージが一つ増えたぶんだけ、少しだけ違うものになっていた。




