ep.54 既読の余韻は、月曜の教室で少しだけ顔に出る
日曜日の夜、朝比奈湊は黒瀬琉衣奈が選んだ本を読み終えた。
読み終えた、というより、気づいたら最後までページをめくっていた。
夕暮れの駅のホームから始まるその物語は、派手な事件が起きるわけではなかった。誰かが告白するでもない。手をつなぐでもない。けれど、登場人物たちはずっと何かを待っている。
誰かからの一言。
電車の到着。
返ってくるかもしれない返事。
言えなかった言葉を言える瞬間。
そういうものを、ただ静かに待っている話だった。
黒瀬がこれを表紙だけで選んだのか、それとも中身まで少し知っていたのかはわからない。
ただ、読み終えたあと、湊はしばらく本を閉じたまま机に置けなかった。
スマホを見る。
黒瀬とのメッセージ画面が残っている。
最後は土曜の夜の「おやすみ」で終わっていた。
日曜は連絡がなかった。
いや、正確には湊からも送らなかった。
送ろうかと思った時間はある。
でも、何を送るべきかわからなかった。
本を読んでいる途中で「今ここまで読んだ」と送るのも違う気がしたし、読み終わった瞬間に「読んだ」と送るのも、感想を月曜に言う約束を先取りするみたいで少しもったいない気がした。
結局、何も送らなかった。
その代わり、月曜の朝が少しだけ楽しみになった。
週明けの教室。
黒瀬に本の感想を聞かれる。
それだけのことなのに、いつもの月曜より少しだけ意味がある。
その時点で、もう相当まずいのだろう。
「……寝るか」
湊は本を鞄に入れた。
明日、持っていくために。
月曜の朝。
教室に入る前から、少しだけ心臓が速かった。
鞄の中には黒瀬が選んだ本がある。
たったそれだけなのに、なんだか秘密を持ち歩いているような気分になる。
教室のドアを開ける。
いつものざわめき。
窓際の席に、黒瀬はいた。
土曜の駅前で見た“学校でも部屋でもない黒瀬”ではない。今日はいつも通りの学校の黒瀬だ。茶髪は巻かれ、制服は少しだけ着崩され、目元も強い。
でも、湊が入ってきた瞬間、その目が少しだけ動いた。
合う。
そして、黒瀬は小さく口を動かした。
「……おはよ」
「おはよう」
もう、挨拶はかなり自然になった。
ただ、今日は黒瀬の目がすぐに鞄へ落ちた。
本が入っているかどうか、気にしているのだろう。
わかりやすい。
湊が少しだけ鞄を持ち直すと、黒瀬は顔を逸らした。
けれど、耳のあたりが少し赤い。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が横から声をかけてくる。
「おはよう」
「今日は、黒瀬さんの本を持ってきましたね」
「……鞄の中まで見えるのか?」
「見えません。でも、朝比奈くんの表情がそういう顔でした」
「どんな顔だよ」
「感想を言う準備をしている顔です」
当たりすぎていて怖い。
湊は苦笑した。
「読んだのか?」
「はい。読みました」
「まだ何も言ってない」
「朝比奈くんの返事が、もう読んだ人の返事でした」
栞は小さく笑う。
その笑い方には、少しだけ寂しさが混じっている気もした。
けれど、それを深く拾う前に、栞はいつもの調子に戻った。
「黒瀬さん、今日は感想待ちですね」
「やっぱり?」
「はい。さっきから、朝比奈くんの鞄を見ないふりしています」
「見ないふりか」
「見ています」
そう言い切られて、湊は窓際を見る。
黒瀬は莉子と話している。
話しているふりをしながら、確かに時々こちらを見る。
いや、正確には、湊の鞄を見る。
「わかりやすいな」
思わず漏らすと、栞が静かに言った。
「でも、少し可愛いですね」
「本人に言うなよ」
「今日は言いません」
「今日は、なんだ」
栞は答えず、少しだけ笑った。
一限前。
黒瀬は珍しく、自分から湊の席へ来た。
莉子に押されたわけではない。
来た。
ただそれだけで、湊は少しだけ緊張した。
「朝比奈」
「何?」
「本」
短い。
かなり短い。
「読んだよ」
湊が答えると、黒瀬の目が少しだけ大きくなった。
「……ほんとに?」
「ほんと」
「最後まで?」
「最後まで」
「遅くなかった?」
「本読むのに遅いも早いもないって言っただろ」
「あるし」
「基準は?」
「気分」
土曜の夜のメッセージと同じやり取りだった。
けれど、文字ではなく声で聞くと、また少し違う。
黒瀬もそれに気づいたのか、一瞬だけ視線を逸らした。
「……で」
「うん」
「どうだった?」
その声は、思ったより真剣だった。
黒瀬は本当に感想を聞きたかったのだろう。
表紙が好きで選んだ本。
湊に読ませた本。
その感想が、どうしても気になっていた。
湊は鞄から本を出した。
夕暮れのホームの表紙。
黒瀬の視線がそこへ落ちる。
「面白かったよ」
「雑」
「いや、ちゃんと言う」
湊は少しだけ考えた。
何を言えば、ちゃんと届くか。
「派手な話じゃないけど、残る感じだった」
「残る?」
「うん。待ってる時間の話っていうか」
黒瀬が黙って聞いている。
「誰かが来るかもしれないとか、返事が来るかもしれないとか、言えなかったことをいつか言えるかもしれないとか。そういうのがずっと続く感じ」
「……ふーん」
「表紙で選んだって言ってたけど、黒瀬っぽいと思った」
言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。
黒瀬は数秒、何も言わなかった。
それから、小さく聞く。
「どこが」
「待つところ」
「……あたし、待つタイプ?」
「来るタイプでもある」
「何それ」
「でも、来る前にたぶん待ってるだろ。行くかどうか考えてる時間とか、言うかどうか迷ってる時間とか」
黒瀬は顔を赤くした。
「朝から重いこと言うなって」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「少しは」
「少しなんだ」
そう言いながらも、黒瀬は本の表紙から目を離さなかった。
「……でも、そういう話なんだ」
「読んでないのか?」
「最初だけ」
「選んだ本人が?」
「表紙が好きって言ったじゃん」
「じゃあ読めよ」
「読むし」
「いつ」
「……そのうち」
黒瀬らしい返事だった。
そこへ莉子が横から顔を出した。
「何々? 本の感想会?」
「莉子、来なくていい」
「えー、るいなが男子に本おすすめするなんて珍しいじゃん」
「おすすめじゃないし。選んだだけ」
「それをおすすめって言うんじゃないの?」
「違うし」
莉子は湊の手元の本を見る。
「へえ、表紙かわいい。るいな好きそう」
「でしょ」
黒瀬が反射で答えた。
そして、自分で言って少し固まる。
莉子がにやっとした。
「うん。好きそう」
「……何」
「別に?」
「絶対別にじゃない」
「いや、今日は普通に可愛いなって思っただけ」
「言うな」
「はいはい」
莉子は笑って、でもそれ以上は踏み込まなかった。
最近、莉子は本当に引き際がうまくなっている。
からかうけれど、壊さない。
それはたぶん、彼女なりの応援なのだろう。
黒瀬は少し不満そうにしながらも、莉子に強く当たらなかった。
その変化も、湊には少しうれしかった。
昼休み。
栞が前の席に座った。
「朝比奈くん、本の感想、ちゃんと言えたみたいですね」
「聞こえてた?」
「少しだけ」
「その少しだけは全部の意味だな」
「今日は半分くらいです」
「珍しく控えめ」
栞は静かに笑う。
そのあと、本の表紙を見る。
「黒瀬さんが選んだ本、いい表紙ですね」
「白瀬さんも好きそう?」
「はい。少し読んでみたいです」
「貸そうか?」
湊がそう言った瞬間、少しだけ空気が止まった。
栞は目を瞬かせる。
湊も、自分で言ってから気づいた。
これは黒瀬が選んだ本だ。
勝手に貸していいのか。
「……いや、黒瀬に聞いてから」
湊が言い直すと、栞は少しだけ微笑んだ。
「はい。そのほうがいいと思います」
「ごめん」
「謝らなくて大丈夫です」
栞は紙パックの紅茶を持ちながら、静かに続けた。
「でも、少し嬉しかったです」
「え?」
「朝比奈くんが、私にも読ませようと思ってくれたので」
さらりと言う。
けれど、その言葉はかなり近い。
湊は返事に困った。
栞は困らせるつもりはなかったのか、すぐに話題を変えた。
「黒瀬さんに聞いて、よければ貸してください」
「うん」
「その時は、私もちゃんと感想を言います」
その言い方は穏やかだった。
でも、ほんの少しだけ意地もある。
黒瀬が選んだ本を、栞も読む。
その感想が、また何かの会話につながる。
この三人の距離は、少しずつ変な形で絡み始めている。
放課後。
黒瀬は湊の机の横へ来た。
今日は少しだけ表情が明るい。
「朝比奈」
「何?」
「本、持って帰るの?」
「うん。もう一回少し読み返そうと思って」
「……そんな気に入った?」
「うん」
黒瀬はわかりやすく口元を抑えかけて、慌てて戻した。
嬉しいのだ。
かなり。
「あと、白瀬さんが読みたいって」
湊が言うと、黒瀬は一瞬で表情を変えた。
「は?」
「勝手に貸すのは違うと思って、聞こうと」
「……あのメガネが?」
「うん」
黒瀬は少しだけ考えた。
たぶん、嫉妬と、警戒と、少しの興味が混ざっている。
「別に、いいけど」
「いいのか?」
「だって、あたしの本じゃないし。朝比奈が買ったんだし」
「でも黒瀬が選んだ」
「……だから、聞いたんでしょ」
「うん」
「なら、いい」
黒瀬は視線を逸らす。
「でも、感想聞く」
「白瀬さんの?」
「うん。変なこと言ったら怒る」
「感想に正解あるのか?」
「あるし」
土曜と同じようなやり取りになった。
湊は少し笑う。
「わかった。伝えとく」
「……あと」
「ん?」
「今日、メッセージしてもいい?」
その一言に、湊は少しだけ驚いた。
昨日までなら、夜に来るかどうかだった。
今日は、メッセージ。
ちゃんと言葉にして聞いてきた。
「もちろん」
「軽」
「重く返す?」
「それは無理」
黒瀬は少しだけ笑った。
「じゃあ、あとで」
「うん」
夜。
その日はインターホンは鳴らなかった。
代わりに、九時過ぎ、スマホが震えた。
黒瀬琉衣奈。
『本、どこが一番よかった?』
湊は少し考えた。
そして返す。
『最後のホームの場面』
『なんで?』
『待ってた人が来るかどうかわからないのに、帰らなかったところ』
既読。
少し間があく。
『重』
湊は笑った。
『聞いたの黒瀬だろ』
『そうだけど』
また少し間が空く。
『でも、ちょっとわかる』
その一文が届いた時、湊は思った。
初めてのメッセージよりは、少し落ち着いている。
けれど、インターホンとは違う緊張がまだある。
黒瀬は今日は来ない。
でも、言葉は来る。
それが、今の二人の新しい夜だった。




