ep.53 初めてのメッセージは、インターホンより落ち着かない
黒瀬琉衣奈からのメッセージが来た。
それだけのことが、朝比奈湊の土曜の夕方を妙に落ち着かなくさせていた。
『電車乗った』
『気をつけて』
『親か』
たった三往復にも満たないやり取りだ。
それなのに、湊は駅からの帰り道で何度もスマホを見ていた。
別に返事が来るのを待っているわけではない。
いや、待っていないと言い切るには、少し無理がある。
黒瀬琉衣奈の名前が通知欄に出る。
その事実が、思っていた以上に大きかった。
今までは、夜のインターホンが合図だった。
来るか来ないかわからないまま、九時前後になると少しだけ玄関を意識する。鳴ったら開ける。開ければ黒瀬がいる。黒瀬は決まって「遅」と言う。
それが二人の夜だった。
けれど、これからは違う。
スマホが鳴るかもしれない。
その一つが加わっただけで、黒瀬との距離がまた少し形を変えた気がした。
帰宅して、靴を脱ぎ、買ってきた文庫本を机に置く。
黒瀬が選んだ本だ。
夕暮れの駅のホームが描かれた表紙。黒瀬は「表紙が好き」と言った。単純な理由なのに、なぜか彼女らしかった。
湊は本を手に取り、帯を外して、最初の数ページをめくった。
けれど、文字があまり頭に入ってこない。
理由は明白だった。
スマホが気になる。
「……重症だな」
自分で呟いて、机の上にスマホを伏せた。
その三秒後に、また表へ返した。
我ながら情けない。
夕飯を簡単に済ませ、風呂に入り、洗濯物を畳む。
いつもの土曜の夜だ。
ただ、いつもと違って、黒瀬は今日もう駅前で会っている。焼き菓子を半分ずつ食べ、本屋で本を選び、連絡先を交換した。
だから、さすがに今夜は来ないだろう。
そう思った。
思ったのに、九時が近づくと、やっぱり少しだけ落ち着かなくなる。
湊はリビングのソファを見た。
黒瀬がいつも座る位置に、クッションが少しだけ斜めに置かれている。
今日、外で会ったばかりなのに。
それでも夜の部屋に黒瀬がいないと、どこか足りないように感じてしまう。
この感覚は、あまり認めたくない。
九時十分。
スマホが震えた。
湊は思ったより早く反応してしまった。
画面を見る。
黒瀬琉衣奈。
『起きてる?』
その文字を見た瞬間、インターホンが鳴った時とは違う緊張が胸に走った。
来た。
いや、来てはいない。
メッセージだ。
それなのに、なぜか玄関のほうを見てしまう。
湊は少し考えてから返信した。
『起きてる』
すぐに既読がついた。
早い。
そこにまた妙に動揺する。
『今日の本、読んだ?』
湊は机の上の文庫を見た。
『まだ最初だけ』
『遅』
文字になっても、それは黒瀬だった。
湊は思わず笑う。
『読むのに遅いも早いもないだろ』
『あるし』
『何基準だよ』
『気分』
便利すぎる。
湊はソファに座り、スマホを片手に小さく笑った。
黒瀬とメッセージをしている。
それだけで、いつもの夜なのに、いつもの夜じゃない。
少し間が空いた。
黒瀬が打っている表示が出て、消えて、また出る。
何か迷っている。
湊は画面を見つめたまま、待った。
やがて届いた。
『今日、変じゃなかった?』
湊は少しだけ息を止めた。
短い一文なのに、いろんなものが詰まっていた。
今日の服。
今日の駅前。
焼き菓子を半分こしたこと。
栞と会った時の反応。
本屋で本を選んだこと。
連絡先を交換したこと。
たぶん黒瀬は、その全部を聞いている。
湊はゆっくり打った。
『変じゃなかった』
少し考えて、もう一つ送る。
『楽しかった』
既読。
返信が来ない。
一分。
二分。
湊はスマホを置こうとして、やめた。
すると、ようやく返事が来た。
『そういうのすぐ言う』
『言わないほうがよかった?』
『違うけど』
黒瀬の声で再生される。
湊はまた笑った。
そのあと、黒瀬から短く届いた。
『あたしも楽しかった』
湊はしばらく、その一文を見ていた。
外で聞いた「楽しかった」と、文字で届く「楽しかった」は少し違う。
声には照れがあった。
文字には逃げ場がない。
黒瀬が自分で打って送った言葉だ。
それが、妙にまっすぐに見えた。
『ならよかった』
返すと、少しして黒瀬から来た。
『今日、夜は行かないから』
湊は、その文面に少しだけ笑った。
わざわざ言うのか、と思った。
けれど、同時にわかった。
連絡先を交換したから、黒瀬は初めて“行かない”を伝えられるようになったのだ。
今までは、来ない日はただ来なかった。
でも今日は違う。
行かない、と言える。
それは、来ると言うのと同じくらい、たぶん大きい。
『わかった』
湊は送った。
けれど、それだけでは少し足りない気がした。
だから、もう一つ送る。
『ゆっくり休め』
すぐ既読。
『だから親か』
いつもの返し。
そのあと、少し遅れてもう一通。
『でもありがと』
湊は画面を見て、息を吐いた。
こういう短い「ありがと」が、今の黒瀬らしい。
少しずつ昼で言えるようになってきた言葉。
夜の部屋でも増えてきた言葉。
そして、メッセージでも届くようになった言葉。
場所が変わるたびに、黒瀬の素直さも少しずつ形を変える。
湊は返信しようとして、指を止めた。
何を返せばいいのかわからない。
軽く流すのも違う。
重くするのも違う。
結局、こう送った。
『また月曜な』
既読。
少しして、返事。
『うん』
さらにすぐ、もう一通。
『月曜、感想聞くから』
『まだ読み終わってないかもしれない』
『読んで』
『命令か』
『お願い』
湊はその二文字を見て、また少し止まった。
お願い。
黒瀬が打ったにしては、やけに素直だ。
たぶん、送ったあとに本人も少し照れている。
湊はそう想像して、胸の奥が少しだけ温かくなった。
『わかった。読む』
『よし』
『偉そうだな』
『選んだのあたしだし』
その返しも黒瀬らしかった。
やり取りはそこで一度途切れた。
湊はスマホを置き、黒瀬が選んだ本を開いた。
今度は、さっきより少しだけ文字が頭に入る。
主人公が夕暮れの駅で誰かを待つ場面から始まっていた。
偶然なのか、黒瀬がそこまで考えて選んだのかはわからない。
ただ、その表紙を選んだ黒瀬の感覚が、少しだけわかる気がした。
十五分ほど読んだところで、またスマホが震えた。
黒瀬だった。
『起きてる?』
湊は少し笑った。
『まだ起きてる』
『今、何してる?』
『本読んでる』
『ほんとに?』
『ほんと』
『えらい』
褒められた。
黒瀬に。
湊はスマホを持ったまま、少しだけ変な顔になった気がした。
『黒瀬に褒められるの変な感じする』
『じゃあ取り消す』
『それはそれで嫌だな』
『めんど』
『そっちだろ』
いつもの軽口。
文字でも成立するのが、少し可笑しかった。
また少し間が空く。
今度の黒瀬は、さらに迷っているようだった。
入力中の表示が何度も出ては消える。
やがて届いた。
『今日、連絡先交換してよかった』
湊は画面を見つめた。
その一文は、かなり静かだった。
飾っていない。
照れ隠しも少ない。
たぶん黒瀬は、何度か打ち直した末にそれを送ったのだろう。
湊はすぐには返せなかった。
少し考えて、打つ。
『俺もそう思う』
送信。
既読。
返事はすぐではなかった。
やがて、短く届く。
『ならいいし』
黒瀬らしい締め方だった。
そのあと、もう一通。
『寝る』
『おやすみ』
『おやすみ』
おやすみ。
黒瀬から届くその四文字は、インターホンよりも静かだった。
でも、静かなぶんだけ、胸に残った。
湊はスマホを机に置く。
部屋は静かだ。
ソファには黒瀬はいない。
カフェラテのカップも一つだけ。
インターホンも鳴らない。
でも、今日は少し違う。
スマホの中に、黒瀬琉衣奈とのやり取りが残っている。
来ない夜にも、彼女の気配がある。
それは便利で、少し危うくて、でも間違いなく嬉しかった。
湊はもう一度、本を開いた。
月曜に感想を聞かれる。
その約束ができただけで、週明けの教室が少しだけ違って見える気がした。




