ep.51 土曜二時、本屋の前でギャルは少しだけ別人になる
土曜日の午後、駅前は思ったより人が多かった。
改札から流れてくる家族連れ、制服姿の中学生、買い物袋を提げた大学生らしい男女。駅ビルの入口では、期間限定のスイーツ販売に列ができていて、近くのカフェからは焼いたパンの匂いが漏れている。
朝比奈湊は、駅前の大型書店の入口から少し離れた柱のそばに立っていた。
時刻は一時五十分。
早すぎた。
早すぎたのはわかっている。
けれど、家にいても落ち着かなかったのだから仕方ない。
今日は黒瀬琉衣奈と駅前の焼き菓子の店へ行く。
ただそれだけだ。
昨日から何度もそう言い聞かせている。
ただ焼き菓子を買いに行くだけ。
デートではない。
黒瀬もそう言っていた。
湊も、そういうことにしている。
けれど、待ち合わせ場所に十分前から立っている時点で、もう説得力はほとんどなかった。
「……普通って何だよ」
小さく呟いて、自分の服を見る。
白いシャツに薄手のジャケット、黒のパンツ。頑張りすぎているつもりはない。けれど、完全に普段着というほど気を抜いてもいない。
昨日、黒瀬に「変な格好してくんな」と言われた。
普通でいい、とも言われた。
その普通が一番難しい。
スマホを見ても、まだ一時五十二分。
湊は軽く息を吐き、書店のガラス越しに新刊棚を眺めた。入口近くには文庫の平積みが並び、帯の鮮やかな色が外からでもわかる。
白瀬栞なら、こういう棚を見て何冊かすぐ選ぶのだろう。
そんなことを思った時、少しだけ胸の奥が引っかかった。
栞は今日、駅前の図書館へ行くと言っていた。
邪魔はしません、と。
その言葉がどういう気持ちで出たものなのか、湊には完全にはわからない。けれど、軽いものではなかったと思う。
黒瀬が頑張っていることを認める。
でも、悔しくないわけではない。
そういう静かな複雑さを、栞は隠しきらずに見せてくれた。
それを思い出していると、スマホが震えた。
黒瀬からではない。
黒瀬の連絡先は、まだ知らない。
それに気づいて、湊は少しだけ苦笑した。
夜に何度も部屋へ来て、冷蔵庫まで開けるような関係なのに、連絡先は知らない。
普通じゃない。
けれど、その普通じゃなさが今の二人らしくもある。
「……朝比奈」
背後から声がした。
湊は振り返った。
そこにいた黒瀬琉衣奈を見て、一瞬だけ言葉が出なかった。
学校の黒瀬ではなかった。
夜に部屋へ来る黒瀬とも違った。
髪はいつもより緩く下ろされていて、毛先だけが軽く巻かれている。メイクは学校より薄いのに、目元はちゃんと整っていて、日焼けした肌が柔らかく見えた。
服は、白に近い薄いベージュのカーディガン。中は淡い色のトップス。下は膝上くらいのデニムスカートで、足元は歩きやすそうなスニーカーだった。
派手すぎない。
でも、ちゃんと選んできたことがわかる。
昨日の夜に言っていた。
学校でも部屋でもない感じ。
まさに、それだった。
「……何」
黒瀬が先に言った。
少し睨む。
でも、明らかに照れている。
「いや」
「いや、じゃなくて」
「似合ってる」
湊がそう言うと、黒瀬はわかりやすく固まった。
「……そういうの、開幕で言う?」
「言わないほうがよかったか?」
「違うけど」
黒瀬は視線を横へ逃がした。
「違うんだ」
「うるさい」
その耳が少し赤い。
休日の駅前で見る黒瀬は、教室より近くて、夜の部屋より遠い。
その中途半端な距離感が、妙に落ち着かなかった。
「朝比奈も」
「ん?」
「……変じゃない」
「それ褒めてる?」
「褒めてるし」
「わかりにくいな」
「似合ってるとか言えばいいわけ?」
「いや、無理に言わなくていい」
「……似合ってる」
小さな声だった。
湊は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「え?」
「二回言わせんな」
「あ、うん」
「何その返事」
「いや、普通に驚いた」
「驚くな」
黒瀬はむっとした顔をしたが、すぐに少しだけ口元を緩めた。
たぶん彼女も緊張している。
湊も緊張している。
そのことが、お互いに少しずつ見えている。
「行くか」
湊が言うと、黒瀬は頷いた。
「うん」
歩き出す。
駅前の人波の中を並んで歩くと、教室とも部屋とも違う緊張があった。
距離は近すぎない。
でも、離れすぎても不自然になる。
湊が少し歩幅を落とすと、黒瀬がちらりと見上げた。
「何」
「いや、歩くの速かったかなって」
「別に普通」
「じゃあよかった」
「……そういうとこ」
「何」
「いや、いい」
黒瀬は前を見る。
その横顔が少し柔らかかった。
焼き菓子の店は、駅ビルの一階に入っている小さな店だった。
ショーケースにはフィナンシェ、マドレーヌ、クッキー、パウンドケーキが並んでいる。奥の棚には詰め合わせの箱もあった。
黒瀬は店の前で少しだけ立ち止まった。
「ここ」
「昨日のやつも?」
「うん。莉子が前に買ってきて、うまかったから」
「莉子さん、味覚は信用できるんだな」
「味覚はって何。あいつ、普通にセンスいいし」
「仲いいな」
「……まあ」
黒瀬は少し照れたように視線を落とした。
店内へ入ると、甘いバターの匂いがした。
黒瀬はショーケースの前で真剣な顔になる。
「チョコ、昨日のやつと同じ」
「また買う?」
「うん。でも、こっちのレモンも気になる」
「じゃあ二つ買えば」
「そういう雑なこと言う」
「雑か?」
「悩む時間込みで楽しいんでしょ、こういうの」
意外な言葉だった。
湊は少しだけ黒瀬を見る。
「そうなのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「こういう店、そんな来ないし」
黒瀬はショーケースを見ながら言った。
「でも、選ぶのはちょっと楽しい」
その声が自然で、湊はなんとなく嬉しくなった。
彼女は今日、ちゃんと楽しもうとしている。
ただ“焼き菓子を買いに行く”だけではなく、その時間そのものを。
「じゃあ、俺はレモンにする」
「え」
「黒瀬はチョコ買えば、半分ずつできるだろ」
黒瀬は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「……そういうの、先に言うなって」
「なんで」
「あたしもそれ考えてたから」
「あ、悪い」
「悪くはないけど」
黒瀬は唇を少し尖らせる。
「先に言われると、なんか負けた感じする」
「勝負だったのか」
「ちょっとだけ」
二人で小さく笑った。
店員に注文を伝え、それぞれ焼き菓子を一つずつ買う。黒瀬はチョコのマドレーヌ。湊はレモンのフィナンシェ。
会計を済ませる時、黒瀬が先に財布を出した。
「今日は自分の分、自分で払うから」
「わかってる」
「あと、昨日の分はもう返したから」
「うん」
「今日は、普通に買うだけ」
そこを何度も確認するのが、黒瀬らしかった。
店を出ると、駅ビルの近くに小さなベンチスペースがあった。
湊がそちらを見ると、黒瀬も同じところを見ていた。
「座る?」
「……ちょっとだけ」
並んで座る。
外ではあるけれど、駅前のざわめきに紛れて、少しだけ二人だけの空間みたいになった。
黒瀬が袋を開ける。
「はい」
チョコのマドレーヌを半分に割って差し出してきた。
「いいのか」
「半分ずつって言ったじゃん」
「ありがとう」
「ん」
湊もレモンのフィナンシェを半分にして渡す。
黒瀬は受け取って、一口かじった。
「……うま」
「昨日と同じ反応だな」
「うまいんだからしょうがないし」
「レモンどう?」
「好き。甘いけどさっぱりしてる」
「食レポみたい」
「うるさい」
そう言いながら、黒瀬はもう一口食べた。
湊もチョコのマドレーヌを食べる。しっとりしていて、想像よりずっと濃い味だった。
「これもうまいな」
「でしょ」
「黒瀬が作ったわけじゃないけど」
「選んだのはあたし」
「それ前も言ってた」
「何回でも言うし」
会話が、思ったより自然だった。
外で会えばもっとぎこちなくなると思っていた。
けれど、焼き菓子を半分ずつ食べるだけで、少しずついつもの夜の空気が戻ってくる。
ただ、ここは部屋ではない。
その違いは、確かにある。
黒瀬も同じことを感じていたのか、少し小さな声で言った。
「外だと、変な感じ」
「俺も」
「学校よりは楽。でも部屋よりは……なんか」
「わかる」
湊が答えると、黒瀬は少しだけ安心した顔になった。
「わかるんだ」
「うん。ここだと、誰かに見られるかもしれないし」
「そう」
「でも学校ほど逃げなくてもいい」
「……そう。それ」
黒瀬は紙袋の端を指でいじった。
「外って、思ったより難しい」
「だな」
「でも、思ったより嫌じゃない」
その一言が、今日の中で一番大きかった。
湊は横を見た。
黒瀬は前を向いていた。
照れ隠しなのか、こちらは見ない。
「ならよかった」
「……うん」
少しだけ沈黙が落ちる。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
駅前の音。人の足音。店の呼び込み。遠くで鳴る電車の音。
その全部の中で、二人だけが少しだけ静かだった。
その時だった。
「あれ」
聞き慣れた静かな声がした。
湊と黒瀬は、ほぼ同時に顔を上げた。
少し離れたところに、白瀬栞が立っていた。
私服だった。
白いブラウスに淡い色のロングスカート。髪は学校より少し柔らかく下ろされていて、メガネはかけている。休日の書店で会った時ほどの変化ではないが、それでも教室の彼女よりずっとやわらかい。
手には図書館の本が入ったトートバッグ。
本当に図書館へ行っていたのだろう。
「……白瀬」
黒瀬が先に言った。
声に少しだけ緊張が混じる。
栞は二人の手元の焼き菓子を見て、それから小さく笑った。
「お店、行けたんですね」
「あ、うん」
湊が答える。
黒瀬は少しだけ背筋を伸ばしていた。
逃げるかと思った。
けれど、逃げなかった。
「……行った」
短く、でもちゃんと答えた。
栞の目が少しだけやわらかくなる。
「よかったです」
それだけだった。
本当に、それだけ。
余計なことは言わない。
からかわない。
踏み込まない。
黒瀬は少しだけ拍子抜けしたような顔をした。
「図書館?」
湊が聞くと、栞は頷いた。
「はい。思ったより長くいてしまいました」
「本、借りたのか」
「三冊だけ」
「だけって量か?」
「少なめです」
栞は真面目な顔でそう言う。
黒瀬が思わず小さく笑った。
本当に小さく。
でも、笑った。
栞もそれに気づいたのか、黒瀬を見る。
「黒瀬さん、その服、似合っています」
真正面から言った。
黒瀬が固まった。
「……は?」
「今日の雰囲気に合っていると思います」
「そういうの、普通に言うのやめてって前も言ったし」
「すみません。でも、本当にそう思ったので」
黒瀬は目を逸らす。
耳が少しだけ赤い。
「……ありがと」
小さな声だった。
湊は驚いて、黒瀬を見た。
栞も少しだけ目を丸くした。
黒瀬はすぐに言う。
「何。礼くらい言うし」
「言ったな」
「言ったし」
栞は静かに笑った。
「はい。ちゃんと聞こえました」
「そういうのも言わなくていい」
「すみません」
そのやり取りは、思ったより自然だった。
少なくとも、黒瀬は逃げなかった。
栞も近づきすぎなかった。
しばらくして、栞が軽く会釈する。
「では、私はこれで」
「帰るのか?」
「はい。今日は本当に図書館だけなので」
その言い方に、ほんの少しだけ気遣いがあった。
黒瀬もそれを感じたのか、少しだけ黙ってから言った。
「……また月曜」
栞は微笑んだ。
「はい。また月曜に」
栞が歩いていく。
その背中を見送ってから、黒瀬は深く息を吐いた。
「……びっくりした」
「来るかもとは言ってたけどな」
「ほんとに来ると思わないじゃん」
「まあ」
「でも」
黒瀬は紙袋を指先で握り直した。
「変なこと言わなかった」
「うん」
「あのメガネ、ほんとそういうとこ」
「強い?」
「強いし、ずるい」
少しだけむくれる。
でも、前みたいな敵意はなかった。
「服、褒められてたな」
「言うな」
「礼も言ってた」
「だから言うなって」
黒瀬は顔を赤くしながら、残りの焼き菓子を口に入れた。
その横顔を見て、湊は思った。
今日の黒瀬は、ちゃんと外にいた。
学校でも部屋でもない場所で、緊張しながら、焼き菓子を選んで、半分ずつ分けて、偶然会った栞から逃げずに礼を言った。
それはたぶん、彼女にとってかなり大きい。
「……朝比奈」
「ん?」
「今日、どうだった?」
「楽しかった」
即答だった。
黒瀬は一瞬だけ目を丸くした。
「早」
「いや、普通に」
「……そっか」
それだけ言って、黒瀬は少しだけ笑った。
「なら、まあ」
「うん」
「焼き菓子買いに来ただけにしては、悪くなかった」
まだそう言い張るところが、黒瀬らしかった。
湊は笑って頷いた。
「悪くなかったな」
土曜二時、本屋の前で会ったギャルは、学校の彼女とも、夜の彼女とも少し違った。
その違いを、湊はたぶん忘れないと思った。




