ep.49 休日の約束は、教室ではただの予定確認にできない
休日に、駅前の焼き菓子の店へ一緒に行く。
それだけなら、別に大した約束ではないはずだった。
友達同士でも行く。
クラスメイト同士でも、まあ行かないことはない。
用事があって駅前に寄るついでなら、なおさら不自然ではない。
けれど黒瀬琉衣奈と朝比奈湊の場合、その“だけ”がやけに重くなる。
翌朝、湊が教室に入った時、黒瀬はすでに窓際の席にいた。
いつもの茶髪。いつもの制服。いつもの、少し強い目元。
けれど、湊と目が合った瞬間だけ、ほんの少し顔が固まった。
昨日の夜の続きを思い出したのだろう。
――今度、行くか。
――うん。
――学校帰り?
――それは無理。
――じゃあ休日?
――……たぶん。
あの“たぶん”は、ほとんど肯定だった。
だから今朝の目は、いつもの朝の目とは少し違う。
昨日よりも、さらに一段、何かを意識している目だった。
「……おはよ」
黒瀬が小さく言う。
「おはよう」
湊が返す。
そこまでは、もうかなり自然になってきた。
だが、そのすぐ横で莉子がにやっとした。
「るいな、今日も言えたじゃん」
「黙って」
「はいはい」
莉子は両手を軽く上げて笑う。
黒瀬はむっとしているが、本気で怒ってはいない。
昨日までより、莉子のからかいを少しだけ受け流せている。
その変化が、湊にはなんとなく嬉しかった。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が、いつもの静かな声で言った。
「おはよう」
「今日は、黒瀬さんが少し緊張していますね」
「朝から全部見えてるな」
「全部ではないです。でも、今日はわかりやすいです」
栞は一度だけ窓際を見て、それから湊に視線を戻す。
「昨日、何か約束しました?」
思わず返事が遅れた。
「……どうしてそうなる」
「黒瀬さんが、朝比奈くんを見る時だけ少し予定を確認したそうな顔をしているので」
「予定を確認したそうな顔って何だよ」
「こう、言いたいけど言えない顔です」
当たりすぎていた。
湊は小さく息を吐く。
「白瀬さんって、本当に怖いな」
「最近は褒め言葉だと思っています」
「もう否定しないのか」
「しません」
栞は少しだけ笑った。
一限前。
栞は前の席へ座ろうとして、少しだけ動きを止めた。
窓際を見る。
黒瀬を見る。
そして、今日は机の横に立つだけにした。
「座らないのか?」
湊が聞くと、栞は小さく首を振る。
「今日は、黒瀬さんが自分で話しかけたい日だと思うので」
「……本当に何でもわかるな」
「わかるというより、最近の黒瀬さんは頑張る前に少し固まるので」
「そこまで見てるのか」
「はい」
栞は穏やかに言う。
「だから、今日は少し場所を空けておきます」
その言葉には、からかいも遠慮もなかった。
ただ、黒瀬が頑張ろうとしていることをわかって、邪魔しないようにしている。
栞はやっぱり強い。
そして、やさしい。
二限の休み時間。
黒瀬は来た。
ただし、かなりぎこちなかった。
莉子に押されたわけではない。自分から席を立って、湊の机の横まで来た。
「朝比奈」
「何?」
「……土曜」
そこまで言って、黒瀬は止まった。
教室にはまだ人がいる。
莉子もいる。
栞も、少し離れた場所でこちらを見ている。
黒瀬は言葉を探している。
“焼き菓子の店に行く約束”を、教室でどう確認すればいいのか。
「土曜?」
湊があえて普通に返すと、黒瀬は少しだけ睨んできた。
――察して。
目がそう言っている。
けれど、ここで下手に察しすぎると逆に危ない。
「予定?」
湊が聞くと、黒瀬は小さく頷いた。
「……駅前」
「ああ」
「その、前言ってたやつ」
かなりぼかした。
湊は頷く。
「昼過ぎなら空いてる」
「昼過ぎ」
「二時くらい?」
「……うん」
黒瀬はそれだけで少しほっとした顔をした。
だが、そこへ莉子がやって来る。
「なになに、土曜に駅前?」
終わった、と湊は思った。
黒瀬の肩が跳ねる。
「莉子、来なくていい」
「えー、今の聞こえたら来るでしょ」
「来ないで」
「るいな、土曜に朝比奈くんと駅前?」
「違うし」
反射的に否定する。
でも、否定が早すぎる。
莉子はにやにやした。
「何も言ってないのに」
「言ったじゃん」
「駅前って言っただけだよ」
「……」
黒瀬が完全に詰まった。
湊は助け舟を出す。
「この前の店の話。焼き菓子の」
「あー、あれね」
莉子はすぐに察した顔になった。
「るいな、お礼のやつ、また買うの?」
「別に、まだ決めてないし」
「ふーん」
莉子は黒瀬を見て、湊を見て、また黒瀬を見る。
そして意外にも、それ以上は深く突かなかった。
「まあ、駅前なら人多いし。迷子になるなよ、るいな」
「子ども扱いすんな」
「だって、土曜の駅前混むじゃん」
「それはそうだけど」
黒瀬は少しだけ口を尖らせる。
莉子は笑って、軽く手を振った。
「はいはい。予定確認できてよかったね」
「うざ」
「うざい友達でーす」
莉子が去っていく。
黒瀬は湊の机の横で、まだ少し固まっていた。
「……今の」
「思ったより大丈夫だったな」
「どこが」
「莉子さん、深追いしなかっただろ」
「まあ……」
黒瀬は少しだけ莉子の背中を見る。
「たぶん、わざと」
「だろうな」
「ほんと、うざい」
でも、その声は前よりやわらかかった。
昼休み。
栞が前の席に座った。
「土曜、駅前なんですね」
「聞こえてた?」
「少しだけ」
「白瀬さんに聞こえるなら、だいたい全部聞こえてるだろ」
「否定はしません」
栞は静かに笑った。
「焼き菓子のお店ですか」
「うん」
「いいですね」
その言い方に、嫌味はなかった。
むしろ、本当にそう思っているようだった。
「……白瀬さん、そういうとこずるいよな」
「何がですか?」
「普通に祝福みたいな顔をするところ」
栞は少しだけ目を伏せた。
「祝福というほど、きれいな気持ちではないです」
静かな本音だった。
「でも、黒瀬さんが昨日から頑張っているのは見えているので」
「うん」
「それをなかったことにはしたくありません」
栞はそう言って、紙パックの紅茶を持つ指に少しだけ力を入れた。
「ただ、少しだけ悔しいです」
湊は何も言えなくなった。
その言葉は、今までの栞の中で一番まっすぐだった。
悔しい。
でも、認める。
栞はそういう位置に立っている。
「……ごめん」
湊が言うと、栞は首を横に振った。
「謝られることではないです」
「でも」
「朝比奈くんが悪いわけではありません」
そこで少しだけ、栞は笑った。
「少し鈍いところはありますけど」
「そこは否定できない」
「はい」
いつもの会話に戻る。
その自然な戻し方が、栞らしかった。
放課後。
黒瀬は帰り際にもう一度、湊の机の横へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「土曜」
「うん」
「二時、駅前の本屋の前でいい?」
「わかった」
「……誰にも言わないで」
「言わない」
「莉子にはたぶんバレてるけど」
「たぶんな」
「……でも、あいつは大丈夫だと思う」
それは、黒瀬なりの信頼だった。
湊は頷く。
「うん」
「あと」
「ん?」
「これ、デートじゃないし」
言うと思った。
湊は少し笑いそうになるのをこらえる。
「わかってる」
「ほんと?」
「焼き菓子買いに行くだけだろ」
「そう。それだけ」
黒瀬はやけに真面目に頷く。
その顔が、逆に意識しているように見える。
「……笑うな」
「まだ笑ってない」
「笑いそうだった」
「悪い」
「ほんと最低」
黒瀬は小さくそう言って、教室を出ていった。
夜九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつも通り少しだけむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日は土曜の話で疲れたな」
「開幕それ言う?」
「悪い」
「悪いと思ってない」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座る。
湊がカフェラテを作って戻ると、彼女はクッションを抱えながら、ぽつりと言った。
「今日、昼、やばかった」
「莉子さん?」
「うん。来るの早すぎ」
「でも、途中で引いたな」
「……たぶん、わざと」
「いい友達だな」
「うん」
最近、その“うん”が自然になってきた。
黒瀬はカフェラテを受け取る。
「あと、白瀬」
「栞?」
「……名前」
「ごめん」
「まあ、いいけど」
少しだけ拗ねた声。
でも、前ほど刺々しくない。
「あのメガネ、聞いてたよね」
「聞いてた」
「なんか言ってた?」
湊は少し迷った。
栞が“悔しい”と言ったことを、そのまま伝えるべきか。
迷って、少しだけ形を変えた。
「黒瀬が頑張ってるのは見えてるって」
「……何それ」
「認めてた」
「強」
「うん」
黒瀬はカップを見つめる。
「ほんと強いんだよね、あの子」
「うん」
「嫌いじゃないのが、逆にめんどい」
「それ、前よりだいぶ変わったな」
「……そうかも」
黒瀬はクッションに頬を乗せる。
「悔しいけど、ちゃんと見てくるし。変に意地悪じゃないし。たまに優しいし」
「うん」
「だから余計、こっちも雑にできない」
それは、かなり大事な変化だった。
黒瀬は栞をただの邪魔者として見なくなっている。
ライバルのようで、でもどこか認めている。
それが彼女を少しずつ前へ進ませているのかもしれない。
「土曜」
黒瀬が言う。
「うん」
「ほんとに、焼き菓子買うだけだから」
「わかってる」
「変な期待すんな」
「してない」
「……ちょっとはしてもいいけど」
言ってから、黒瀬は固まった。
湊も固まった。
「……今のなし」
「無理」
「無理じゃなくて」
「さすがに今のは拾う」
「拾うな!」
黒瀬は顔を真っ赤にしてクッションを抱きしめる。
湊は笑ってしまった。
「笑うな!」
「いや、無理だろ」
「最悪……」
けれど、黒瀬の声にはどこか楽しそうな色も混じっていた。
休日の約束は、教室ではただの予定確認にできない。
でも夜になると、それは少しだけ本音を混ぜた会話に変わる。
土曜の駅前。
二時。
本屋の前。
ただの焼き菓子を買いに行く約束。
そう言い張りながら、二人ともそれだけでは済まないと、もう少しだけわかっていた。




