ep.47 焼きそばパンのお礼は、思ったより難しい
黒瀬琉衣奈は、翌朝から少しだけ真剣だった。
朝比奈湊が教室に入った時、彼女は窓際の席で莉子と話していた。いつものようにスマホを片手に、いつものように少し気怠げな顔をしている。
けれど、目だけが違った。
湊と目が合った瞬間、黒瀬は小さく口を動かす。
「……おはよ」
昨日より、さらに少し自然だった。
「おはよう」
湊が返すと、黒瀬はすぐに目を逸らした。けれど耳は赤くない。昨日ほど慌ててもいない。
たぶん、これはもう“できること”になりつつある。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が、いつもの静かな声で言った。
「おはよう」
「黒瀬さん、今日のおはようは上手でしたね」
「採点みたいだな」
「成長記録です」
「本人に言ったら怒るぞ」
「言いません。今日はたぶん、別のことで頭がいっぱいなので」
「別のこと?」
栞は窓際を一瞬だけ見る。
「焼きそばパンのお礼です」
言われて、湊も思い出した。
昨日、黒瀬は購買の焼きそばパンを湊に頼んだ。湊はそれを買い、代金は「次で」と曖昧にした。
黒瀬は言った。
――次、返すから。
たぶん今日、彼女はその“次”をどうするか考えている。
栞の予想はかなり当たっていた。
二限の休み時間、黒瀬は一度だけ湊の席の近くまで来て、何も言わずに戻っていった。
莉子がその後ろ姿を見て、半笑いで言う。
「るいな、何してんの」
「別に」
「今、朝比奈くんとこ行こうとして戻ったでしょ」
「行ってないし」
「行こうとはしたじゃん」
「うざ」
黒瀬は軽く莉子を睨む。
莉子はまったく怯まない。
「お礼、渡すんじゃないの?」
「声でかい」
「あ、ごめんごめん」
言いながら、全然悪びれていない。
湊は聞こえないふりをした。
すると、横から栞が小さく言った。
「聞こえないふり、少し上達しましたね」
「そういう成長いらないんだけど」
「でも、必要です」
たしかに必要だった。
この教室では、聞こえないふりをしなければいけないことが増えている。
昼休み。
購買へ行こうとした湊が席を立った瞬間、黒瀬が少し早足で近づいてきた。
「朝比奈」
「何?」
「今日、購買行く?」
「行くけど」
「……じゃあ、これ」
黒瀬は小さな紙袋を差し出した。
コンビニの袋ではない。駅前の菓子店か何かの、控えめな包装だ。
「何これ」
「焼きそばパンの分」
「いや、そこまでしなくてよかったのに」
「よくないし。借りっぱなし嫌って言ったじゃん」
言い方は少し強い。
でも、手元は妙に丁寧だった。
湊は紙袋を受け取る。
「開けていい?」
「今はだめ」
「なんで」
「なんか、恥ずい」
「じゃあいつ開けるんだよ」
「……家」
家。
その単語だけで、少し空気が変わった気がした。
湊の家。
夜に黒瀬が来る部屋。
そこを指しているのだと、二人にはわかる。
そして、それを言ってしまった黒瀬もすぐに気づいたらしい。
「……帰ってからって意味」
「わかってる」
「ならいいし」
黒瀬は視線を逸らした。
莉子が遠くから、にやにやしている。
「るいなー、渡せたー?」
「莉子!」
「よかったねー」
「うるさい!」
黒瀬は真っ赤になって窓際へ戻っていった。
湊は手元の紙袋を見下ろす。
軽い。
中身はたぶん焼き菓子か何かだろう。
ただ、物そのものより、それをわざわざ選んで持ってきた時間のほうが重かった。
「朝比奈くん」
栞が前の席に座る。
「今の、かなり頑張っていましたね」
「だな」
「黒瀬さん、昨日より少し欲張りになって、今日は少し丁寧になりました」
「丁寧?」
「はい。ちゃんと返したかったんだと思います」
湊は紙袋を鞄にしまった。
「……家で開けろって」
「夜の部屋ですね」
「白瀬さん」
「言いすぎました」
栞はすぐに謝ったが、少しだけ笑っていた。
放課後、黒瀬は机の横へ来た。
「……まだ開けてないよね」
「開けてない」
「絶対、今開けないで」
「わかったって」
「莉子にも見せないで」
「見せないよ」
「白瀬にも」
「見せない」
黒瀬はそこで、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……ならいい」
「そんなに恥ずかしいものなのか」
「恥ずかしいっていうか……選んだのバレるのが無理」
「もうバレてるけど」
「言うな」
黒瀬は小さく睨む。
それから、ほんの少しだけ声を落とした。
「夜、行った時に開けて」
「了解」
「……変な反応したら怒る」
「難しいな」
「普通でいいし」
「普通が一番難しいだろ」
黒瀬は少しだけ笑いかけて、すぐに顔を戻した。
「それはそう」
夜九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつも通り少しだけむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日は普通だった」
「気分の問題」
「はいはい」
部屋に入るなり、黒瀬はソファに座った。
けれどいつものように完全にくつろがない。視線が湊の鞄のほうへ向いている。
「気になる?」
「気になってないし」
「じゃあ先にカフェラテ作る」
「……先に開けて」
「気になってるじゃん」
「うるさい」
湊は笑いをこらえながら、鞄から紙袋を取り出した。
黒瀬はクッションを抱え、少しだけ身構える。
袋を開けると、中には小さな焼き菓子が二つ入っていた。
プレーンのフィナンシェと、チョコのマドレーヌ。
派手ではない。
でも、ちゃんと選んだ感じがした。
「……うまそう」
湊が言うと、黒瀬はほっとしたように肩の力を抜いた。
「駅前のやつ。莉子が前にうまいって言ってたから」
「わざわざ買ったのか」
「焼きそばパンの分だから」
「焼きそばパンより高いだろ、これ」
「そういうの言わない」
「ごめん」
黒瀬はクッションに顎を乗せる。
「……どっち食べたい?」
「じゃあ、チョコ」
「じゃああたし、プレーン」
「黒瀬も食べるのか」
「二個あるし」
「俺へのお礼じゃないのか」
「一緒に食べる用」
言ってから、黒瀬は自分で少し固まった。
湊も少し黙る。
一緒に食べる用。
それは、思ったよりずっと近い言葉だった。
「……そうか」
「そうだし」
黒瀬は視線を逸らす。
「一個渡して終わりより、そのほうがいいかなって思っただけ」
「うん」
「別に、深い意味はないし」
「わかってる」
「……ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって何」
そこで二人とも少し笑った。
湊はキッチンでカフェラテを二つ作り、ローテーブルへ置いた。
焼き菓子の包装を開けると、甘い香りがふわっと広がる。
黒瀬はプレーンのフィナンシェを小さくかじった。
「……うま」
「ほんとにうまいな」
「でしょ」
「黒瀬が作ったわけじゃないだろ」
「選んだのはあたしだし」
少し得意げだった。
その顔が、昼の教室では見せないくらいやわらかい。
「焼きそばパンのお礼にしては豪華だな」
「しつこい」
「悪い」
「でも……まあ」
黒瀬はカフェラテを見つめながら、小さく言った。
「こういうの、ちょっとやってみたかった」
「お礼を?」
「うん。ちゃんと返すやつ」
湊は少しだけ黙った。
借りっぱなしが嫌。
ちゃんと返したい。
しかも一人で渡して終わりではなく、一緒に食べる形で。
黒瀬なりに、昼と夜をつなぐ方法を考えたのだろう。
「できてたよ」
湊が言うと、黒瀬はマドレーヌの包装をいじる湊の手元を見たまま、小さく頷いた。
「……ならいい」
その声は、かなり素直だった。
焼きそばパンのお礼は、思ったより難しい。
ただ代金を返せばいいだけではない。
何を渡すか、どこで渡すか、誰に見られるか、夜にどう開けるか。
黒瀬にとっては、その全部が一つの練習だった。
そして今夜、彼女はそれを少しだけ上手くやれた。




