ep.46 普通に話せた翌日ほど、ギャルは少しだけ欲張りになる
翌朝、黒瀬琉衣奈は昨日より少しだけ機嫌がよかった。
たぶん本人は隠しているつもりなのだろう。
いつも通り、窓際の席で莉子と話している。茶髪を指で軽く払って、スマホの画面に目を落として、時々「それはないし」と短く返す。
けれど、朝比奈湊が教室に入った瞬間、黒瀬の視線は昨日より自然にこちらへ向いた。
逃げない。
睨まない。
ほんの一瞬、昨日の続きみたいな目をしてから、小さく口を動かす。
「……おはよ」
今日は、昨日より聞こえた。
湊は少しだけ驚いた。
「おはよう」
返すと、黒瀬は何でもない顔をしてスマホへ視線を戻した。
けれど隣の莉子が、ばっちり見ていた。
「おー」
「何」
「いや別に」
「絶対別にじゃない顔してる」
「成長したなって」
「うざ」
黒瀬が莉子の肩を軽く押す。
その横顔が少し赤い。
湊は笑わないようにして席へ向かった。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が静かに声をかけてくる。
「おはよう」
「今日の黒瀬さん、昨日より自然でしたね」
「やっぱりそう思う?」
「はい。少しだけ自信がついたのかもしれません」
「おはようで?」
「おはようは強いです」
「昨日も聞いたな、それ」
栞は小さく笑った。
「でも、今日は本当にそう思います」
黒瀬は昨日、数学のプリントをきっかけに湊と普通に話した。
本人は「疲れた」と言っていたが、夜には「ちょっとできた気がした」とも言った。
たぶん、それが残っている。
昼の教室でも、夜とは違う形で少しだけ近づける。
その手応えが、今朝の「おはよ」につながったのだろう。
一限前、栞は今日は前の席へ座った。
黒瀬はそれを見ていたが、昨日ほど動揺しない。
少し眉を寄せた程度で、莉子との会話へ戻る。
「……黒瀬、慣れてきた?」
湊が小声で言うと、栞はノートを開きながら答えた。
「慣れたというより、自分も話せると思えたのかもしれません」
「なるほど」
「でも、少し欲張りになるかもしれませんね」
「欲張り?」
「昨日できたなら、今日ももう少し、と思うのは自然なので」
その予想は、嫌な予感と一緒に妙にしっくりきた。
二限の休み時間。
栞の予想は当たった。
湊が教科書をしまっていると、黒瀬が近づいてきた。今日は莉子に押されていない。自分で来た。
「朝比奈」
「何?」
「数学」
「また?」
「……昨日の続き、ちょっとだけ」
黒瀬はプリントを持っていた。
昨日と同じ数学のプリントだ。ただ、今日はもう解き終わったらしい。余白に小さな計算が並んでいる。
「ここ、合ってる?」
黒瀬が指差す。
湊はプリントを受け取って、途中式を追った。
「合ってると思う。最後、符号だけ気をつければ」
「ほんと?」
「うん」
「……そっか」
黒瀬はほっとした顔をした。
その顔が教室で出るのは、まだ少し珍しい。
莉子が遠くから見ている。にやにやしているが、昨日よりはからかわない。
たぶん、彼女なりに見守っているのだろう。
「ていうか、ちゃんとやったんだな」
湊が言うと、黒瀬は少しだけ目を細めた。
「何それ。あたしが勉強しないみたいな言い方」
「そこまでは言ってない」
「思ってたでしょ」
「少し」
「最低」
黒瀬は口を尖らせた。
だが、すぐに少しだけ笑った。
「でも、昨日聞いたらわかったから」
「ならよかった」
「……ありがと」
今日はそれも、昨日より自然だった。
湊が返事をする前に、黒瀬はプリントを胸元に引き寄せた。
「じゃ」
それだけ言って戻ろうとする。
その途中で、ふと立ち止まった。
「あ」
「ん?」
「今日、購買行く?」
「昼?」
「うん」
「行くと思うけど」
「じゃあ……」
そこで黒瀬が言葉を止めた。
言うかどうか、迷っている顔だった。
莉子が遠くから、口だけで「言え」と動かしている。
黒瀬がそれを見て、露骨に嫌そうな顔をする。
それから、小さい声で言った。
「焼きそばパン、あったら一個」
湊は少しだけ瞬きをした。
頼まれた。
昼の教室で、黒瀬から。
しかも、消しゴムでもプリントでもなく、かなり普通の頼みごとだ。
「わかった。あったら買っとく」
「なかったら別にいいし」
「了解」
「……ありがと」
二回目のありがとう。
今日は多い。
黒瀬は今度こそ窓際へ戻っていった。
背中が少しだけ硬い。
でも、逃げている感じではない。
少し照れているだけだ。
「……欲張りになりましたね」
いつの間にか近くにいた栞が言った。
「本当に当たったな」
「はい。でも、いい欲張り方だと思います」
「焼きそばパンで?」
「はい。誰かに何かを頼むのは、かなり普通の会話ですから」
たしかにそうだ。
昨日は数学。
今日は購買。
用事が少しずつ日常に近づいている。
黒瀬は昼の教室で、少しずつ“普通に話す”を広げているのだ。
昼休み。
購買は混んでいた。
焼きそばパンは残り二つ。
湊は自分のぶんと黒瀬のぶんを買った。
教室に戻ると、黒瀬が明らかにこちらを見ていた。
目が合う。
湊が袋を軽く掲げると、黒瀬はほんの少しだけ目を大きくした。
それから、何でもない顔を作ってこちらへ来る。
「……あったんだ」
「あった」
「いくら?」
「いいよ、今日は」
「は? なんで」
「昨日、数学頑張ってたから」
「意味わかんないし」
「じゃあ、次で」
「……次?」
黒瀬がそこで反応した。
湊も、自分で言ってから気づく。
次。
自然に言ってしまった。
また購買を頼むことがある。
また何かを渡すことがある。
そういう前提の言葉だ。
黒瀬は数秒だけ黙って、それから焼きそばパンを受け取った。
「……じゃあ、次」
小さい声だった。
「うん」
「でも、借りっぱなし嫌だから」
「じゃあ何かで返して」
「考えとく」
黒瀬は焼きそばパンを持って戻ろうとした。
その時、莉子が横から顔を出す。
「るいな、よかったねー」
「うるさい」
「朝比奈くん、ナイス」
「何が」
「いろいろ」
莉子は笑って、黒瀬の背中を押した。
「ほら、ちゃんとお礼」
「言ったし」
「もう一回」
「何で」
「聞きたいから」
「最悪」
黒瀬は本気で嫌そうな顔をしたあと、湊を見た。
「……ありがと」
「うん」
今度のありがとうは、少しだけ投げやりで、でもちゃんと届いた。
栞は少し離れた自分の席からその様子を見ていた。
目が合うと、彼女は小さく頷いた。
悔しそうではなかった。
ただ、ちゃんと見届けた人の顔だった。
放課後。
黒瀬は帰る前に湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「焼きそばパンのやつ」
「うん」
「次、返すから」
「いいって」
「よくない」
黒瀬は少しだけ強く言った。
「借りっぱなしだと、なんか嫌だし」
「じゃあ、任せる」
「うん」
そこで一瞬、間が空く。
黒瀬は周りを確認してから、小さく続けた。
「……夜、行く」
昨日よりさらに短い。
でも、ちゃんと届く。
「わかった」
「あと」
「ん?」
「今日は、ちょっと普通だった?」
湊は少し考えてから答えた。
「かなり普通だった」
黒瀬の顔が、ほんの少しだけ明るくなる。
すぐに隠したが、見えた。
「……ならいいし」
そう言って、彼女は教室を出ていった。
夜九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように「遅」と言った。
けれど、声は少し軽かった。
「今日は機嫌いいな」
「別に」
「昼、普通だったから?」
「……それはちょっとある」
素直に認めた。
湊は少し笑った。
「カフェラテ?」
「それ」
部屋へ上がった黒瀬は、ソファへ座ってクッションを抱えた。
それから、少しだけ得意げに言う。
「今日は、昨日よりできた」
「できてた」
「おはようも言ったし」
「言ったな」
「数学も聞いたし」
「うん」
「焼きそばパンも頼んだし」
「うん」
「……ちょっと疲れた」
「欲張りすぎたな」
「うるさい」
黒瀬はクッションに頬を乗せながら、少しだけ笑った。
「でも、悪くなかった」
「そっか」
「うん」
カフェラテを渡すと、黒瀬は両手で受け取った。
「ありがと」
「今日はありがとう多いな」
「数えんなって」
「ごめん」
「でも」
黒瀬はカップを見つめる。
「言える時に言っとく」
その声は、夜の部屋に似合うくらい静かだった。
普通に話せた翌日ほど、ギャルは少しだけ欲張りになる。
その欲張り方は不器用で、たまに危なっかしい。
でも、少しずつ昼にも彼女らしさが残り始めているのを、湊は確かに感じていた。




