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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.45 普通に話す練習は、思ったより普通じゃない

 普通に話す。


 言葉にすれば、それだけのことだ。


 同じクラスの男子に、必要なことを聞く。プリントを借りる。昨日の授業範囲を確認する。購買に行くかどうかを聞く。


 どれも、教室では毎日どこかで行われている会話だ。


 けれど、それを黒瀬琉衣奈が朝比奈湊に対してやろうとすると、途端に少しだけ難しくなる。


 その難しさを、湊は翌朝の教室で早々に目撃した。


 教室に入ってすぐ、窓際の黒瀬と目が合った。


 いつもの一秒。


 ただ、今日はそこに何か準備している感じがあった。


 黒瀬は一度目を逸らしかけて、やめた。


 そして、なぜか軽く顎を引いた。


「……おはよ」


 小さい。


 かなり小さい。


 しかも、友達との雑談に紛れれば聞こえなかったかもしれないくらいの声だった。


 だが、聞こえた。


 聞こえてしまった。


 湊は一瞬、本気で返事が遅れた。


「……おはよう」


 返すと、黒瀬はすぐに視線を窓のほうへ逃がした。


 耳が少し赤い。


 それだけで、今日の黒瀬がどれだけ頑張ったのか伝わってしまった。


「朝比奈くん、おはようございます」


 すぐ横から、白瀬栞の声がした。


 湊が振り向くと、栞はいつも通り教科書を抱えて立っていた。ただし、目元だけが少し笑っている。


「おはよう」


「今の、かなり自然でしたね」


「自然か?」


「黒瀬さんにしては」


「本人に言ったら怒るぞ」


「言いません」


 栞は静かにそう言ったあと、少しだけ窓際を見た。


「でも、昨日より一歩進みました」


「おはようだけで?」


「はい。おはようは強いです」


 その言い方がおかしくて、湊は少し笑ってしまった。


 けれど、たしかにそうなのかもしれない。


 消しゴムを借りる。

 プリントを見せてと言う。

 それらは用事があるから成立する。


 けれど「おはよう」は違う。


 用事がない。


 ただ、相手に向ける挨拶だ。


 黒瀬が教室でそれを言った。しかも、友達の前ではなく、湊に向けて。


 小さくても、かなり大きい。


 一限前、栞は前の席に座らなかった。


 その代わり、机の横でプリントを渡しながら言う。


「今日は少し様子を見ます」


「また?」


「はい。黒瀬さんが、たぶん練習中なので」


「練習中って」


「普通に話す練習です」


 湊は思わず窓際を見る。


 黒瀬は莉子に何か言われて、露骨に顔をしかめていた。


「今朝の見た?」


「見た見た。るいな、えらいじゃん」


「うるさい」


「おはようって言えたねー」


「だからうるさいって!」


 莉子の声は大きすぎない。だが、湊には十分聞こえた。


 黒瀬は机の下で莉子の足でも軽く蹴ったのか、莉子が「痛っ、暴力反対」と笑っている。


 その様子はいつもの友達同士のやり取りだ。


 ただ、今朝の黒瀬はその中で少しだけ赤い。


 昼の教室で“普通”をやろうとして、すでに普通ではなくなっている。


 その不器用さが、見ていて胸に悪かった。


 二限の休み時間。


 黒瀬は、もう一度来た。


 今度は莉子に背中を押される形ではない。自分で席を立って、湊の机の横まで歩いてきた。


 湊は、さすがに少し身構えた。


「……朝比奈」


「何?」


「数学の、昨日のプリント」


「ああ、また見る?」


「うん。ちょっと」


 普通だ。


 会話としてはものすごく普通だ。


 それなのに、黒瀬の声は少し硬い。


 湊は机の中からプリントを出して渡した。


「はい」


「ありがと」


 昨日より、ほんの少しだけ自然な「ありがと」だった。


 黒瀬はそれを受け取って、自分の席へ戻ろうとした。


 そこで、莉子が横から言った。


「るいな、ついでにわかんないとこ聞けば?」


「は?」


「昨日言ってたじゃん。二問目のやつ」


「言ってないし」


「言ってたよ」


「莉子」


 低い声。


 だが、莉子はまったく怯まない。


「普通に話すってそういうことでしょ」


 完全に聞こえた。


 黒瀬の顔が、みるみる赤くなる。


「……ほんと余計」


 湊は、笑いそうになるのを必死でこらえた。


「二問目?」


 こちらから聞くと、黒瀬は一瞬だけ睨んできた。


 ――拾うな。


 目がそう言っていた。


 だが、もう拾ってしまった。


「わからないなら、見るけど」


「……別に、そこまでじゃないし」


「じゃあいいのか」


「……でも、ちょっとだけ」


 結局、戻ってきた。


 プリントを机に置き、湊の隣に立つ。


 黒瀬が指さしたのは、二次関数の応用問題だった。たしかに少し面倒なところだ。


「ここ、平方完成まではいいんだけど」


「うん」


「そのあと、なんか急に意味わかんなくなる」


「急にって」


「急に」


 言い方が少しだけ素になっていた。


 湊はプリントにシャープペンで軽く線を引く。


「ここで軸を見るんだよ。範囲があるから、頂点が入ってるかどうか確認して」


「……ああ、そこ」


「そう。だからいきなり最大最小決めるんじゃなくて、まず範囲」


「めんど」


「数学だからな」


「数学嫌い」


「それは知らない」


 黒瀬が少しだけ笑った。


 ほんの小さな笑いだった。


 でも、昼の教室で湊に向けて出た笑いだった。


 その瞬間、近くで莉子が満足そうに頷いた。


「ほら、普通じゃん」


「莉子、黙って」


「はいはい」


 莉子は笑いながら自分の席へ戻っていく。


 黒瀬はプリントを持ったまま、小さく息を吐いた。


「……ありがと」


「うん」


「今の、普通だった?」


 思わず聞いてきたのは、かなり素に近い声だった。


 湊は少し考えてから答える。


「途中から普通だった」


「最初は?」


「固かった」


「最悪」


 黒瀬は小さく呟いて、プリントを持って戻っていった。


 その背中が、少しだけ悔しそうで、でもどこか軽く見えた。


 昼休み。


 栞は久しぶりに前の席へ座った。


 その動きは控えめだったが、今日は黒瀬も前ほど荒れなかった。


 湊がそれに気づいていると、栞が静かに言った。


「黒瀬さん、今日は少し余裕がありますね」


「さっき普通に話せたからかな」


「たぶん」


「白瀬さん、どう思った?」


「とてもよかったと思います」


 栞は本当にそう思っている顔だった。


「悔しくないのか?」


 湊がつい聞くと、栞は少しだけ目を瞬かせた。


「悔しい、ですか」


「いや、変な聞き方した。ごめん」


「少しは、あります」


 栞は正直に言った。


 それから、紙パックの紅茶に視線を落とす。


「でも、黒瀬さんが頑張ったのも本当なので」


「……白瀬さん、やっぱり優しいな」


「優しいというより、見えてしまったものをなかったことにできないだけです」


「それも優しさだろ」


 栞は小さく笑った。


「そう言ってもらえるなら、そうかもしれません」


 昼休みの終わり際、莉子が湊の席まで来た。


「朝比奈くん」


「何?」


「数学ありがとね」


「黒瀬に言われるならわかるけど、莉子さんから?」


「あたしは保護者目線だから」


「保護者なんだ」


「うん。るいなの対人リハビリ担当」


 ひどい言い方だ。


 黒瀬が遠くから「聞こえてるし!」と声を飛ばしてくる。


 莉子はけらけら笑った。


「でもさ、朝比奈くん相手だと、あいつちょっと頑張るんだよね」


 さらっと言った。


 湊は返事に困る。


 莉子はその困り方を見て、少しだけ表情をやわらげた。


「まあ、ゆっくりでいいんじゃない」


「何が」


「いろいろ」


 また雑だ。


 でも、莉子の言う“いろいろ”には、たぶんかなりのものが含まれている。


 放課後。


 黒瀬はプリントを返しに来た。


「……これ」


「うん」


「さっきの、わかった」


「よかったな」


「数学ちょっとだけ嫌いじゃなくなった」


「ちょっとだけか」


「ちょっとだけ」


 黒瀬はそこで、少しだけ視線を逸らした。


「あと、今日は……普通に話せた気がする」


「うん」


「最初、固かったけど」


「そこ自分で言うんだ」


「言われる前に言っただけ」


 湊は少し笑った。


 黒瀬もほんの少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐ消えた。


 でも、たしかにあった。


「夜」


 黒瀬が小さく言う。


「うん」


「今日も行く」


 もう、そこは隠さない。


 ただし声は小さく、周りに聞こえないように。


 昨日よりうまい。


 少なくとも、昨日よりは。


「わかった」


 湊が答えると、黒瀬は少しだけ満足そうに頷いて、教室を出ていった。


 夜九時。


 インターホンが鳴る。


 ドアを開けると、黒瀬はいつものように言った。


「……遅」


「今日は普通だったって言われたばっかりなのに、そこは変わらないんだな」


「これは別」


「別なのか」


「別」


 黒瀬は部屋へ上がり、いつものソファへ座る。


 クッションを抱えた顔は、昼よりずっと力が抜けていた。


「今日、どうだった?」


 カフェラテを作りながら湊が聞くと、黒瀬は少しだけ考えた。


「疲れた」


「だろうな」


「でも、昨日よりマシ」


「普通に話せてた」


「……うん」


 その返事は、少しだけ嬉しそうだった。


「莉子がうざかったけど」


「でも助かっただろ」


「……まあ」


「数学もわかったし」


「そこは普通に助かった」


 湊がカフェラテを渡すと、黒瀬は両手で受け取った。


「ありがと」


「昼も夜も礼言えるようになってきたな」


「そういうの数えんなって」


「ごめん」


「でも」


 黒瀬はカップを見つめながら、小さく言った。


「今日は、ちょっとできた気がした」


 それは、たぶん今夜いちばん大事な言葉だった。


 普通に話す練習は、思ったより普通じゃない。


 でも、練習すれば少しずつ普通に近づいていく。


 その当たり前みたいなことを、黒瀬は今日、教室で必死にやっていた。


 湊はそのことを、ちゃんと覚えておこうと思った。

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