ep.43 からかわれたギャルは、夜になると少しだけ弱音を吐く
藤堂莉子は、思っていたより鋭い。
朝比奈湊は、翌朝の教室に入った瞬間から、そのことを意識していた。
昨日、莉子は言った。
――るいな、わかりやすい時あるから。いじりすぎないであげてね。
あれはただのからかいではなかった。
黒瀬琉衣奈の友達として、ちゃんと見ている人間の言葉だった。
黒瀬が最近、湊に対して少し変だということ。
それを黒瀬本人が隠そうとしていること。
そして、それを不用意に突けば黒瀬が余計に困ること。
莉子はたぶん、その辺りを全部ではないにしても、かなり拾っている。
だからこそ厄介だった。
悪意ある相手なら、距離を取ればいい。
何もわかっていない相手なら、ごまかせばいい。
でも、軽くからかいながらも黒瀬を守ろうとする友達は、いちばん扱いが難しい。
教室の窓際を見る。
黒瀬はもう来ていた。
茶髪を巻き、制服を着崩し、いつものように友達と話している。隣には莉子がいる。黒瀬に何かを言って、からかうように肩をつついていた。
黒瀬は「やめろし」と言いながら、軽く払いのけている。
その姿はいつも通りだ。
でも、湊にはわかる。
黒瀬は今日も少し警戒している。
莉子に対しても、こちらに対しても。
湊が席に着こうとした時、黒瀬がちらりとこちらを見た。
目が合う。
一秒。
今日は、すぐに逸らす。
たぶん、莉子が隣にいるからだ。
その一秒にもならない視線だけで、昨日より慎重にしていることがわかってしまう。
そして、その視線を湊が拾ったことを、黒瀬もたぶんわかっている。
面倒なところまで来ているな、と湊は思った。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞が静かに声をかけてくる。
「おはよう」
「今日は、黒瀬さんが少し守りに入っていますね」
「朝から分析が正確すぎる」
「莉子さんが近くにいるからだと思います」
「やっぱりそう見える?」
「はい」
栞は黒瀬たちの方を一瞬だけ見て、すぐに視線を戻した。
「莉子さん、黒瀬さんのことをかなり見ていますね」
「昨日も思った」
「いい友達だと思います」
「うん」
それは湊も同意だった。
莉子は軽い。
口もよく動く。
面白がるところもある。
けれど、黒瀬が本当に嫌がる線までは踏み越えないようにしている。
そのバランスは、たぶん黒瀬にとってかなり大事なものなのだろう。
「今日は前の席、座らないのか?」
湊が聞くと、栞は少しだけ考えた。
「少しだけあとにします」
「様子見?」
「はい。黒瀬さんが朝からかなり慎重なので」
「白瀬さん、ほんと周り見てるな」
「朝比奈くんも、少しは見えるようになってきましたよ」
「それ、褒めてる?」
「褒めています」
栞は小さく笑った。
その笑い方は静かで、でも前より少しだけ近い。
この教室で、栞は相変わらず自分の位置を上手に選んでいる。
黒瀬を刺激しすぎない。
でも完全には離れない。
湊の近くにいることも隠さない。
やっぱり強い。
一限が始まる前、黒瀬と莉子の会話が少しだけ聞こえてきた。
「るいな、昨日なんであんな消しゴム気にしてたの?」
「だから、気にしてないし」
「いや、絶対気にしてたじゃん。朝比奈くんの机めっちゃ見てたし」
「見てない」
「見てた」
「莉子、うざい」
「はいはい、うざい友達でーす」
莉子は笑っている。
黒瀬は本気で怒っているわけではない。
だが、かなり焦っている。
湊は聞こえないふりをして、教科書を開いた。
こういう時、反応したら終わりだ。
それなのに。
「朝比奈くん」
莉子が突然こちらを向いた。
湊の心臓が一瞬止まりかける。
「何?」
「消しゴム、今日も無事?」
教室の何人かがくすっと笑った。
黒瀬は目を見開いたあと、莉子の腕を軽く叩いた。
「やめろし!」
「いいじゃん、確認大事でしょ」
莉子は楽しそうだ。
湊はなるべく普通に、机の上の消しゴムを指で軽く押した。
「無事」
「おー、よかったね、るいな」
「だから、あたし関係ないし!」
黒瀬の声が少しだけ大きくなる。
その瞬間、また教室の空気が少し揺れた。
からかわれているだけ。
消しゴムの話をしているだけ。
でも、そこに妙な熱がある。
莉子が面白がるのも無理はない。
黒瀬はそれを隠したいのに、隠そうとすればするほど少し下手になる。
「……すごいですね」
近くで栞がぽつりと言った。
「何が」
「消しゴムが、完全に暗号になっています」
「本当に嫌な暗号だな」
「でも、黒瀬さんにとっては大事なきっかけだったので」
「まあな」
消しゴムひとつで、ここまで引っ張ることになるとは思わなかった。
二限の休み時間。
湊が廊下に出ようとしたところで、黒瀬に呼び止められた。
「……朝比奈」
小さい声だった。
周りには数人いる。莉子は少し離れた場所で別の女子と話している。
「何?」
「さっきの、反応しすぎ」
「俺?」
「そう」
「普通に返しただけだろ」
「普通すぎるのも変」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬は少しだけ視線を横に逃がした。
「莉子、たぶんちょっと気づいてる」
「だろうな」
「否定してよ」
「いや、さすがに少しは気づいてるだろ」
「……最悪」
黒瀬は小さく息を吐く。
昼の教室で見せるには、少し弱い顔だった。
「別に、全部バレたわけじゃないだろ」
「そうだけど」
「莉子さん、黒瀬のこと守るタイプだと思う」
湊がそう言うと、黒瀬は一瞬だけ目を上げた。
「何か言われた?」
「昨日、いじりすぎないであげてって」
「……あいつ」
黒瀬の表情が少しだけ崩れた。
怒っているというより、照れくさいような、困ったような顔。
「そういうとこ、ほんと余計」
「でも、いい友達だろ」
「……うん」
小さい返事。
その素直さが、昼の教室ではかなり珍しかった。
「今のも、ちょっと残ったな」
湊が言うと、黒瀬はすぐに睨んできた。
「そういうの言うなって」
「悪い」
「夜でいいし、そういうの」
言ってから、黒瀬ははっとした顔になった。
湊も止まる。
今のは、また危ない。
夜でいいし。
昼の教室で言うには、少しだけ意味が強い。
黒瀬は慌てて顔を逸らした。
「……今のなし」
「無理」
「無理じゃなくて」
「さっきのは危なかったな」
「わかってるし!」
声を抑えながら怒る。
その姿がまたわかりやすくて、湊は笑いそうになるのをこらえた。
昼休み。
莉子はもう露骨に面白がっていた。
黒瀬が湊の方をちらっと見るたび、莉子がにやにやする。
「るいな、今日忙しいね」
「何が」
「視線」
「意味わかんない」
「はいはい」
黒瀬は完全にむくれている。
湊はその様子を遠目に見ながら、今日は栞が前の席に座らない理由を理解した。
今、栞がいつものように湊の前に座ったら、黒瀬はさらに乱れる。
そして莉子はもっと面白がる。
つまり、今日は控えめが正解なのだ。
その栞は、少し離れた自分の席で静かに本を読んでいた。
けれど、時々こちらを見る。
見守るように。
状況を確認するように。
そして放課後。
黒瀬はいつものように友達と帰る準備をしていたが、莉子に何か耳打ちされて顔をしかめた。
「だから違うって」
「何が違うか言ってないけど?」
「うざ!」
莉子は笑う。
そのあと、湊の方へ軽く手を振った。
「朝比奈くん、るいなよろしくねー」
教室にいた数人が、何だそれ、という顔でこちらを見る。
黒瀬は真っ赤になった。
「莉子!」
「冗談冗談」
莉子は悪びれず笑いながら、先に廊下へ出ていく。
黒瀬は数秒立ち尽くしたあと、湊の方へものすごく気まずそうな顔を向けた。
「……今のなし」
「俺に言われても」
「聞こえてないことにして」
「無理だろ」
「ほんと最悪……」
黒瀬は額に手を当てる。
その姿は、昼の教室で見るにはあまりにも素に近かった。
そして、その素に近い姿を、クラスの数人が確実に見ていた。
秘密を隠したいギャルほど、昼の言い訳が少し下手になる。
昨日はそう思った。
けれど今日は、それにもう一つ付け加えたくなる。
秘密を隠したいギャルほど、からかわれた時に素が出る。
夜九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつもの「遅」すら言わず、開口一番こう言った。
「莉子、ほんと無理」
湊は思わず笑った。
「お疲れ」
「笑うな」
「いや、今日は大変だったな」
「大変とかじゃないし。公開処刑」
「そこまでではないだろ」
「そこまでだった!」
黒瀬は部屋へ上がると、ソファに倒れ込むように座った。
クッションを抱え、そのまま顔を埋める。
「……もう明日学校行きたくない」
「大げさだな」
「大げさじゃないし」
「カフェラテいる?」
「いる」
即答。
そこだけはぶれない。
湊はキッチンへ立ち、湯を沸かす。
背中越しに、黒瀬のぼやきが続いた。
「莉子、絶対なんか気づいてるし」
「少しはな」
「少しじゃない。あれはかなり」
「でも悪意はないだろ」
「それが余計きつい」
「まあ、それはわかる」
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はようやくクッションから顔を上げた。
「……今日、昼、変だった?」
「かなり」
「正直すぎ」
「嘘ついてもしょうがないだろ」
「そこは優しさで隠して」
「夜だから正直に」
そう言うと、黒瀬は少しだけ固まった。
それから、視線を逸らす。
「……夜だからって、便利に使うな」
「そっちが昼に言ってただろ。そういうの夜でいいしって」
「それ拾うなって!」
声は怒っているが、顔は赤い。
湊はカップを渡した。
「はい」
「……ありがと」
黒瀬は両手でカフェラテを包み、ひと口飲む。
それだけで、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「莉子にからかわれるの、嫌?」
湊が聞くと、黒瀬は少し考えた。
「嫌っていうか……怖い」
「怖い?」
「バレるのもそうだけど」
「うん」
「なんか、あたしが自分でわかってないとこまで見られてそうで」
その言葉は、かなり素直だった。
莉子は黒瀬の友達だ。
だからこそ、黒瀬の変化に気づく。
そして、本人がまだ言葉にしていない感情の輪郭まで、軽くからかいながら拾ってくる。
それが怖いのだろう。
「……俺も白瀬さんにそう思う時ある」
湊が言うと、黒瀬は少しだけ目を上げた。
「あのメガネ?」
「うん。俺がわかってないことまで見えてる時ある」
「それはわかる」
「だろ」
「だってあのメガネ、怖いし」
「でも、優しいだろ」
「……まあ」
黒瀬は少しだけ不満そうに頷いた。
「そこが強いんだよね」
「たぶん」
「莉子も、そういうとこある」
黒瀬はカップを見つめながら言った。
「うざいけど、ちゃんと見てる」
「いい友達だな」
「うん」
今度は、少しだけ素直に笑った。
からかわれたギャルは、夜になると少しだけ弱音を吐く。
昼では絶対に見せないその顔を、湊はまた一つ覚えてしまった。
そして、覚えるたびに、もう戻れない場所が少しずつ増えていく気がした。




