ep.42 秘密を隠したいギャルほど、昼の言い訳が少し下手になる
翌朝、黒瀬琉衣奈は明らかに警戒していた。
教室に入った瞬間、朝比奈湊にはそれがわかった。
窓際の席。
いつもの茶髪。
いつもの制服の着崩し方。
いつもの強めの目元。
表面だけ見れば、今日も黒瀬琉衣奈は完璧に“学校のギャル”だった。
けれど、目が少し忙しい。
湊が教室へ入ってきた瞬間にこちらを見る。
それから、莉子のほうを見る。
さらに白瀬栞の席を一瞬確認する。
昨日の「夜、今日も行くから」がまた誰かに聞かれていなかったか、まだ気にしているのだろう。
湊は席へ向かいながら、小さく息を吐いた。
黒瀬は隠したい時ほどわかりやすい。
そして、そのわかりやすさをたぶん本人だけがわかっていない。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞の声が、いつものように横から届いた。
「おはよう」
「黒瀬さん、今日は警戒していますね」
「開幕からそれか」
「見えたので」
栞は平然としている。
もう彼女にとって、黒瀬の細かな変化を読むことは日課のようなものになっているらしい。
「昨日のこと、まだ気にしてるんだと思います」
「だろうな」
「でも、昨日より少しだけ落ち着いています」
「そこもわかるのか」
「はい。昨日は後悔の顔でしたけど、今日は対策を考えている顔です」
対策。
その言葉が、妙に黒瀬に似合わない気がして、湊は少しだけ笑いそうになった。
「黒瀬が対策か」
「失敗しそうですね」
「容赦ないな」
「でも、頑張るとは思います」
栞の言い方はやさしかった。
からかっているようでいて、黒瀬の努力そのものは否定していない。
最近の栞は、黒瀬をただのライバルとして見ているわけではないように思える。
むしろ、黒瀬の不器用さまで含めて観察し、理解し、時には少しだけ背中を押している。
それがまた、黒瀬には強敵なのだろう。
一限前。
栞は今日は前の席へ座らなかった。
代わりに、机の横に立ったまま軽くプリントを見せてくる。
「今日は、少しだけ控えめにします」
「昨日の続き?」
「はい。黒瀬さんがこれ以上焦らないように」
「白瀬さん、ほんとにバランス取るのうまいな」
「うまいかはわかりません。ただ、今日は黒瀬さんが何かしそうなので」
その予想は、たぶん当たる。
なぜなら、湊も同じことを感じていたからだ。
今日の黒瀬は、何かを残したがっている。
昨日のように、ただ「夜、行くし」と口を滑らせるのではなく、もっと安全に、もっと自然に。
だが、それができるかどうかは別問題だった。
二限の休み時間。
事件は、思ったより早く起きた。
湊が机の中から次の授業の教科書を取り出していると、黒瀬が近づいてきた。
今日は一人ではない。
莉子も一緒だった。
これがまずい。
莉子は昨日から、黒瀬の様子をかなり面白がっている。軽い好奇心で突いてくるタイプだ。悪意はない。だが、悪意がないからこそ手加減もない。
「朝比奈」
黒瀬が湊の机の横で止まる。
「何?」
「……昨日の」
そこまで言って、黒瀬は一瞬止まった。
言い方を選んでいる。
莉子がにやっとした。
「昨日の?」
黒瀬の肩がぴくりと動く。
湊は心の中で、頼むから変な方向へ行くな、と祈った。
「消しゴム」
黒瀬はどうにか言った。
「消しゴムの話」
「ああ」
湊はすぐに乗る。
「何かあった?」
「別に。ちゃんと返したか確認しただけ」
「昨日も確認してなかったか?」
「二重確認」
苦しい。
かなり苦しい。
莉子が横で笑いをこらえている。
「るいな、消しゴムにめっちゃこだわるじゃん」
「こだわってないし」
「いや、こだわってるでしょ。朝比奈くんの消しゴムだけ特別なの?」
「は?」
黒瀬の声が一瞬だけ尖る。
しかし、そこで湊が口を挟んだ。
「この前、黒瀬に貸したの新品だったから」
嘘ではない。
いや、新品だったかどうかは微妙だが、ギリギリごまかしとして成立する。
「なくしたら困るって話になっただけ」
「へえ」
莉子は湊を見る。
その目は、半分納得していない。
「朝比奈くんって、意外と細かいんだ」
「まあ、物はなくしたくないし」
「ふーん」
莉子は今度は黒瀬を見た。
「よかったね、二重確認できて」
「……うるさい」
黒瀬はそれだけ言って、逃げるように窓際へ戻っていった。
莉子も笑いながらついていく。
湊は机に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
かなり危なかった。
今のは、かなり危なかった。
「朝比奈くん」
後ろから栞の声。
「今のフォロー、昨日より自然でした」
「昨日より、か」
「はい。だいぶ成長しました」
「嬉しくない褒め方だな」
栞は少しだけ笑った。
「でも、黒瀬さんの言い訳は少し下手でした」
「かなり下手だったな」
「はい。でも、頑張っていました」
その評価はやっぱりやさしい。
昼休み。
莉子が再び動いた。
今度は黒瀬ではなく、湊のほうへ来た。
「朝比奈くん」
「何?」
「るいなと最近、何かあった?」
直球だった。
湊は紙パックのコーヒーを手にしたまま、内心だけで固まる。
「何かって?」
「なんかさー、るいな、朝比奈くんのこと気にしてない?」
終わった。
一瞬そう思った。
しかし、表情だけは何とか普通に保つ。
「前に消しゴム貸したからじゃない?」
「消しゴム万能説?」
「便利だからな」
湊がそう返すと、莉子はけらけら笑った。
「朝比奈くん、思ったより返しうまいね」
「そうか?」
「うん。るいなが気にしてる理由、消しゴムで押し切るの強い」
「押し切ってるつもりはないけど」
「まあ、いいけどさ」
莉子は少しだけ声を落とした。
「るいな、わかりやすい時あるから。いじりすぎないであげてね」
その一言に、湊は少し驚いた。
莉子はただ面白がっているだけではなかったらしい。
ちゃんと黒瀬のことを見ている。
からかいながらも、守る線は持っている。
「……わかった」
湊がそう答えると、莉子は満足したように笑った。
「ならよし」
そう言って、窓際へ戻っていく。
そのやり取りを、黒瀬が明らかに気にしていた。
気にしていたどころか、莉子が戻るなり何か小声で問い詰めている。
莉子は笑いながら肩をすくめている。
たぶん「別にー」とか言っているのだろう。
湊は深く息を吐いた。
今日はまだ昼なのに、すでに疲れる。
「朝比奈くん」
今度は栞が前の席へ来た。
今日は控えめにすると言っていたが、さすがに状況を見て来たらしい。
「今の莉子さん、少し優しかったですね」
「白瀬さんにもそう見えた?」
「はい。黒瀬さんのことを、ちゃんと友達として見ています」
「意外だった」
「朝比奈くん、周りの人のことも少しずつ見えるようになってきましたね」
「それ、成長扱い?」
「はい」
栞は静かに頷いた。
「この関係、二人だけの秘密のようで、少しずつ周りの人にも影響していますから」
その言葉は、少し重かった。
湊と黒瀬の夜は、最初は完全に二人だけのものだった。
けれど今は違う。
栞が気づいている。
莉子が違和感を拾っている。
教室の何人かも、湊と栞の距離や、黒瀬の視線に気づき始めている。
秘密は、少しずつ教室の空気と混ざり始めている。
放課後。
黒瀬は、帰る前に湊の机の横へ来た。
周囲には数人残っている。莉子も近くにいる。
だから黒瀬は、かなり言葉を選んでいた。
「……朝比奈」
「何?」
「今日の、ありがと」
それはたぶん、二限のフォローと、莉子への対応のことだ。
「うん」
「あと」
黒瀬は少しだけ目を逸らす。
「消しゴム、もう大丈夫だから」
意味はわからない。
でも、今日の流れではそれが一番安全な合図だった。
「わかった」
湊は真面目に頷く。
「消しゴムの件、終了な」
「そういう言い方やめて」
「ごめん」
黒瀬は一瞬だけ笑いそうになって、すぐに顔を戻した。
その一瞬を、湊は見た。
そしてたぶん、莉子も見た。
「るいなー」
莉子の声が飛んでくる。
「帰るよー」
「わかってるし」
黒瀬は慌てて返す。
それから小さく、湊だけに聞こえる声で言った。
「……夜は、言わない」
「言わない?」
「もう教室で言わないってこと」
「ああ」
「でも、行くから」
結局言っている。
ただ昨日よりはかなり小さい。
湊は苦笑しそうになるのをこらえて頷いた。
「わかった」
黒瀬はそれだけ確認すると、莉子のほうへ戻っていった。
夜九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は第一声で言った。
「……今日、ほんと無理だった」
「お疲れ」
「消しゴム、もう封印」
「だろうな」
「莉子に変に拾われるし」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ沈んだ。
クッションを抱える姿が、今日はいつもより少しぐったりしている。
「カフェラテ?」
「それ」
湊がキッチンへ向かうと、黒瀬は背中越しにぽつりと言った。
「……昼に残すの、やっぱ難しい」
「今日はかなり頑張ってたけどな」
「頑張り方間違えた」
「言い訳は下手だった」
「うるさい」
でも、その声には少し笑いが混じっていた。
湊はカフェラテを渡しながら言う。
「莉子さん、黒瀬のことちゃんと見てるんだな」
「……何言われたの」
「いじりすぎないであげてって」
黒瀬は一瞬、固まった。
それから、少しだけ顔を逸らす。
「……あいつ、そういうとこあるし」
「いい友達だな」
「うん」
珍しく素直に頷いた。
その表情は、少し照れくさそうで、少し安心しているようにも見えた。
「秘密を隠したいギャルほど、昼の言い訳が少し下手になる」
湊がぽつりと言うと、黒瀬はクッション越しに睨んできた。
「またうまいこと言ったみたいな顔してる」
「してない」
「してるし」
「でも事実だろ」
「……半分は」
また半分。
でも、その半分の中に、今日の黒瀬の疲れと努力と、少しの成長がちゃんと入っている気がした。




