ep.41 「夜、行くし」を聞かれたギャルは、翌朝かなり後悔している
黒瀬琉衣奈が、教室で「夜、行くし」と言った。
その事実は、朝比奈湊の中で一晩経ってもかなり強く残っていた。
もちろん、言葉だけを切り取れば何の説明にもなっていない。
夜にどこへ行くのか。
何をしに行くのか。
誰のところへ行くのか。
そこは何も言っていない。
けれど湊にはわかる。
あれは、明らかに“湊の部屋へ行く”という意味だった。
黒瀬もそれをわかって言った。
いや、たぶん半分は勢いだったのだろう。昼でも少しだけ逃げないようにした結果、普段なら絶対に言わないところまで口が滑った。
その夜、実際に黒瀬は来た。
いつものようにインターホンを鳴らし、いつものように「遅」と言い、いつものようにカフェラテを飲んだ。けれど、少しだけ照れくさそうだった。
――昼に言ったの、やっぱ変だった?
――まあ、かなり。
――忘れて。
――無理。
――最悪。
そんなやり取りもした。
そして今朝。
湊は、教室へ向かう廊下の時点で少しだけ嫌な予感がしていた。
あの「夜、行くし」を、誰かに聞かれていなかっただろうか。
栞はたぶん聞いていた。
白瀬栞なら聞き逃すはずがない。
けれど彼女は騒がない。むしろ、静かに見守るほうだ。
問題は、それ以外の誰かだ。
教室のドアを開ける。
いつもの朝のざわめき。
窓際の席に、黒瀬はいた。
そして今日は、わかりやすく顔が硬い。
茶髪もメイクも制服も完璧なのに、視線だけが妙に落ち着かない。友達と話しているふりをしているが、明らかにいつもより反応が一拍遅い。
たぶん、後悔している。
昨日の「夜、行くし」を。
湊が入ってきた瞬間、黒瀬は一度こちらを見た。
目が合う。
今日は逃げない、というより、逃げる余裕がない顔だった。
その目が言っていた。
――昨日のこと、絶対言うな。
声に出さなくても、かなり伝わった。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声が横から届く。
白瀬栞だった。
「おはよう」
「今日は、黒瀬さんがかなり後悔している顔ですね」
「朝から核心すぎる」
「昨日のことですか?」
「やっぱり聞いてたんだな」
「はい」
栞は何でもない顔で頷いた。
「“夜、行くし”のところですよね」
「復唱しないでくれ」
「すみません」
そう言いながら、栞は少しだけ口元を緩めている。
珍しく、ほんの少し楽しそうだった。
「でも、黒瀬さんにしてはかなり頑張った一言だったと思います」
「頑張ったのはわかるけど、教室で言う言葉じゃないだろ」
「それはそうですね」
栞はあっさり認めた。
「だから今日、後悔しているんだと思います」
「だよな」
湊は窓際を見る。
黒瀬はちょうど友達に何か言われて、少しだけ顔をしかめていた。
その友達――藤堂莉子が、にやにやしながら黒瀬に顔を近づける。
「るいな、昨日なんか言ってなかった?」
聞こえた。
距離はあるが、教室のざわめきの隙間にその言葉だけが妙に届いた。
黒瀬の肩がわずかに跳ねる。
「何が」
「いや、なんかさー、“夜”とか」
湊は心の中で頭を抱えた。
聞かれていた。
少なくとも、単語だけは拾われていた。
「知らないし」
黒瀬は即座に切った。
だが、切り方が鋭すぎる。
鋭すぎる時点で、逆に怪しい。
莉子は面白そうに目を細めた。
「ふーん?」
「何その顔。マジで知らないし」
「はいはい」
「はいはいじゃないし」
黒瀬はいつもの調子で返しているように見える。けれど、湊にはわかった。
あれはかなり焦っている。
しかも焦りを隠そうとして、いつもよりツンが強くなっている。
「……朝比奈くん」
栞が小さく言う。
「今日は少し、慎重にしたほうがよさそうですね」
「手遅れ感あるけどな」
「まだ大丈夫です。たぶん、はっきり聞かれたわけではないので」
「その“たぶん”が怖い」
一限前、栞は前の席へ座ろうとして、少しだけ止まった。
珍しい。
「座らないのか?」
湊が聞くと、栞は首をかしげるようにして、窓際を一度見る。
「今日は、少しだけ様子を見たほうがいいかと思いまして」
「白瀬さんが引くの、珍しいな」
「引くというより、黒瀬さんがこれ以上荒れないようにです」
その言い方が、やっぱり栞らしかった。
競うだけではない。
ちゃんと相手の限界も見ている。
「優しいな」
湊が言うと、栞は少しだけ目を伏せた。
「優しいかどうかはわかりません。ただ、黒瀬さんが昨日頑張ったのは本当なので」
その言葉は静かだった。
けれど、かなり深いところで黒瀬を見ている発言でもあった。
二限の休み時間。
湊がロッカーで教科書を入れ替えていると、黒瀬が近くを通った。
わざとではない。
……と思いたいが、最近の黒瀬は“わざとではないふり”が増えている。
すれ違いざま、小さな声が落ちた。
「……聞かれてた」
「少しな」
「最悪」
「莉子さん?」
「うん。たぶん単語だけだけど」
「じゃあごまかせるだろ」
「朝比奈がそういうこと言うと不安になる」
「なんで」
「顔に出るから」
その指摘はかなり痛い。
「……気をつける」
「絶対だし」
黒瀬はそこで一瞬だけ湊を見た。
今日の目は、いつもの棘とは少し違う。
頼っている、というほど甘くはない。
でも、完全に突き放してはいない。
昼の教室で、黒瀬が湊に“秘密を共有する目”を向けた。
それだけで、かなり危ない。
「……黒瀬」
「何」
「昨日のは、まあ、ちゃんと届いたから」
言ってから、昼にする会話ではなかったと気づく。
黒瀬も一瞬、目を丸くした。
「……今それ言う?」
「悪い」
「ほんと最低」
でも、その“最低”は弱かった。
顔が少しだけ赤い。
黒瀬は逃げるように窓際へ戻っていった。
そして当然、栞は近くにいた。
「今の黒瀬さん、かなり可愛かったですね」
「今日は本人に絶対言うなよ」
「言いません」
「本当に?」
「今日は言いません」
「今日は、が怖い」
栞は小さく笑った。
「でも、今のはちゃんと昼に残りました」
「残ったな」
湊は苦笑するしかなかった。
昼休み、莉子が湊の近くを通った。
この時点で嫌な予感しかしなかった。
「朝比奈くん」
「何?」
「昨日さ、るいなと何か話してた?」
来た。
湊は一瞬だけ言葉に詰まりそうになったが、何とか普通の顔を作る。
「消しゴムのことじゃない?」
「消しゴム?」
「前に貸して、それ返してもらったから」
「あー、そうなんだ」
莉子は納得したような、していないような顔をした。
「なんか、るいなが妙に挙動不審だったからさ」
「黒瀬が?」
「そうそう。珍しいじゃん」
「まあ、たまにはあるんじゃないか」
「ふーん」
その“ふーん”は、黒瀬のそれとは違う種類の怖さがあった。
興味本位。
軽い好奇心。
しかし、こういう軽さが秘密にはいちばん危ない。
莉子が去ったあと、栞が小さく言った。
「今の返しは、少しだけ自然でした」
「少しだけか」
「はい。少しだけ」
「厳しいな」
「でも、黒瀬さんよりは落ち着いていました」
窓際を見ると、黒瀬が明らかにこちらを気にしていた。
莉子が湊に話しかけたことに気づいているのだろう。
その表情は、もうかなり不安そうだった。
昼でも、少しずつ隠せなくなっている。
放課後。
黒瀬は珍しく、教室を出る直前に湊の机の横へ来た。
周りにはまだ数人いる。
その中で、彼女は小さく言った。
「……さっき、何聞かれた?」
「昨日話してたかって」
「で?」
「消しゴムのことって言っといた」
「……そっか」
黒瀬は明らかにほっとした顔をした。
その表情を、本人はすぐに隠した。
けれど湊には見えた。
「助かった」
小さい声だった。
教室で、黒瀬が素直に礼を言う。
それは、昨日の消しゴムの礼とはまた違う種類の一歩だった。
「うん」
湊も短く返す。
黒瀬は一度だけ視線を上げた。
「……夜、今日も行くから」
また言った。
今度は昨日より小さい声で。
周りに聞こえないように。
でも、確実に湊へ届くように。
「わかった」
「……今度は聞かれてないよね」
「たぶん」
「その“たぶん”やめて」
黒瀬は少しだけむくれた顔をして、教室を出ていった。
夜九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は開口一番、いつもの「遅」ではなく、こう言った。
「……今日、ほんと疲れた」
湊は少し笑った。
「お疲れ」
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってる」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ一直線に向かった。
クッションを抱え、深く息を吐く。
「昼に残すの、むずすぎ」
「昨日からだいぶ進んでるけどな」
「進みすぎて事故りかけたし」
「莉子さんに?」
「ほんと危なかった」
湊はカフェラテを作りながら、背中越しに言う。
「でも、助かったって言えたな」
「……そこ拾う?」
「拾うだろ」
「最低」
でも声は少しだけやわらかい。
カフェラテを渡すと、黒瀬は両手で包み込むように受け取った。
「……今日、ありがと」
「二回目だな」
「数えんな」
「昼でも夜でも言えるようになってきたな」
「……うるさい」
黒瀬はカフェラテを一口飲み、視線を逸らしたまま呟く。
「でも、昼で言えたのは、ちょっとだけよかった」
その言葉は、今日の彼女の成長そのものだった。
昼に残したくなるものを、まだうまく選べない。
でも、昨日よりは選べる。
今日も少しだけ選べた。
失敗しかけても、夜にちゃんと話せる。
その積み重ねが、二人の関係を少しずつ教室の中へ滲ませていく。




